第五章 忘れていく夏
翌日の夕方、潮見神社へ向かう石段は、いつもより長く感じた。
八月の陽射しは少しだけ傾いていたが、石段にはまだ昼間の熱が残っている。
一段上るたびに、足元から夏が染み込んでくるようだった。
澄香は言った。
姉の遺したものを見せる、と。
天宮汐里。
ようやく名前を取り戻した人。
町の願いを受け、最後には自分の名前さえ忘れ、海へ消えた人。
その人が何を遺したのか。
そして、それを見たあとで俺は何を求められるのか。
考えながら石段を上ると、境内から笑い声が聞こえた。
リセの声だった。
「だからですね、神様にも定休日は必要だと思うんです」
「神様が休んだら町が困るんじゃない?」
「そこは交代制にします」
「誰と交代するの」
「ナツメちゃん」
「私!?」
境内に上がると、楠の木の下にリセとナツメがいた。
ナツメは駄菓子屋の袋を手にしている。
リセは縁側に座り、嬉しそうにアイスを食べていた。
その光景だけを見れば、普通の夏の夕方だった。
幼なじみ同士がくだらない話をして、アイスを食べている。
蝉が鳴いて、風が吹いて、提灯が揺れている。
けれど俺はもう、その普通の奥にあるものを知っている。
リセが今、こうして笑っている間にも、彼女の中から何かが抜け落ちているかもしれないことを。
「あ、相良さん」
リセが俺に気づいて手を振った。
「来ましたね」
「呼ばれたからな」
「えらいです。呼ばれて来る人は、だいたいいい人です」
「呼ばれても来ない人は?」
「忙しい人です」
「優しい判定だな」
「人を悪く言うと、神様ポイントが下がりますから」
「まだ神様設定続いてたのか」
「設定じゃありません。職業です」
「無給?」
「アイス払いです」
リセはそう言って、残り少ないアイスを大事そうに食べた。
ナツメが俺の方を見た。
「澄香さん、奥にいるよ」
「ああ」
「その前に、これ」
ナツメは袋の中から一本のアイスを取り出して、俺に投げた。
慌てて受け取る。
「なんだ」
「透さんの分。どうせまた暗い顔して来ると思ったから」
「俺の顔は天気予報か」
「大雨注意報」
「ひどいな」
袋を開けると、リセと同じバニラアイスだった。
この町に来てから、何本目だろう。
リセがじっと俺を見ている。
「食べないんですか?」
「食べる」
「早くしないと短命になります」
「命の終わりに急かすな」
俺はアイスをかじった。
安っぽい甘さ。
少しだけ溶けた冷たさ。
喉の奥に残る夏の味。
リセは満足そうにうなずいた。
「同じものを食べると、ちょっと仲良くなった気がしますね」
「そういうものか」
「そういうものです」
リセは笑った。
その笑顔が、あまりにも普通だったから、俺は一瞬だけ忘れそうになった。
彼女が忘れていく少女なのだということを。
その時、拝殿の奥から澄香が出てきた。
今日は薄い灰色の着物を着ていた。
表情は相変わらず硬いが、昨日よりは少しだけ穏やかに見える。
「相良さん」
「こんにちは」
「来てくださって、ありがとうございます」
澄香はそう言って、リセとナツメを見た。
「リセ。ナツメさんと少し境内にいて」
「わたしも行っちゃだめですか?」
「今日はだめ」
「むう」
リセは小さく頬を膨らませた。
その仕草に、澄香の顔が一瞬だけ緩む。
けれどすぐに、また硬い表情に戻った。
「あとで話します」
「本当ですか?」
「本当」
「じゃあ待ってます」
リセは素直にうなずいた。
ナツメは心配そうに俺と澄香を見たが、何も言わなかった。
俺は澄香に案内され、拝殿の奥へ入った。
神社の奥は、外よりも空気が冷たかった。
古い木の匂い。
畳の匂い。
どこか湿った、長い時間の匂い。
廊下を進むと、小さな部屋に通された。
六畳ほどの和室だった。
窓には薄い障子。
壁際には古い箪笥と、黒塗りの文机が置かれている。
澄香は文机の前に座り、引き出しから木箱を取り出した。
「姉のものです」
木箱は古く、蓋には細かな傷がついていた。
澄香はしばらくそれを見つめたあと、ゆっくりと蓋を開けた。
中には、一冊の帳面と、いくつかの小物が入っていた。
小さな貝殻。
色あせた髪飾り。
古い写真。
そして、鈴のついた細い紐。
「これは」
「姉の日記です」
澄香は帳面を俺の前に置いた。
「潮返しの記録でもあります」
表紙には、薄い字で名前が書かれていた。
天宮汐里。
それを見た瞬間、昨日ノートに書いた名前が頭に浮かんだ。
名前は、ここに残っていた。
町の人々の記憶から抜け落ちても、本人の遺した紙の上には、まだ。
「読んでも?」
「そのために呼びました」
澄香は静かに言った。
俺は慎重に帳面を開いた。
最初のページには、細い丁寧な字が並んでいた。
『八月三日。
今日も暑い。澄香が暑い暑いとうるさい。
でも、そう言いながら麦茶を二杯も飲んでいたので、元気だと思う。』
思わず手が止まった。
それは、普通の日記だった。
町の伝承を背負う娘の記録というより、妹を少しからかう姉の日常。
澄香は横で黙っている。
『八月五日。
港の白石さんが来た。
息子さんのことで、ずっと苦しんでいる。
私にできることがあるなら、してあげたいと思う。
でも、澄香には怒られた。』
次のページ。
『澄香は、私が潮返しを受けるのを嫌がる。
私も、本当は少し怖い。
忘れるというのは、どんな感じなのだろう。
痛いのだろうか。
それとも、痛みを感じることさえ忘れてしまうのだろうか。』
文字の端が、少しだけ震えているように見えた。
ページをめくる。
『最近、好きだった歌を思い出せない。
口ずさめば分かる気がするのに、最初の音が出てこない。
澄香が泣きそうな顔をしていた。
私は笑った。
笑えば、澄香は少し安心すると思った。』
俺は息を止めた。
リセと同じだった。
笑えば、誰かが安心すると思っている。
自分が怖くても、相手の不安を先に考えてしまう。
澄香は目を伏せていた。
その日記を読むことは、彼女にとって姉をもう一度失うことに近いのかもしれない。
『八月十六日。
リセがアイスを落として泣いた。
私は、短い命だったね、と言った。
リセは泣きながら笑った。
この子はきっと、変な子になる。
それでいい。
変な子の方が、たぶん遠くまで歩ける。』
俺は思わず顔を上げた。
「短い命だったね、って」
「姉の口癖でした」
澄香が言った。
「リセは、それを覚えていないはずです。まだ小さかったから」
「でも、言ってます」
「ええ」
澄香は苦しそうに笑った。
「記憶ではなく、どこかに残っているのかもしれません」
リセが溶けたアイスに向かって言った言葉。
それは彼女自身の奇妙さだと思っていた。
でも違った。
汐里からリセへ渡った、小さな欠片だった。
記憶ではなく、感情でもなく、口癖のようなもの。
誰かが消えても、完全には消えないもの。
俺はページをめくった。
『八月二十三日。
リセが海に行きたいと言った。
まだ小さいのに、海を見ると手を伸ばす。
澄香は怖がっている。
無理もない。
この家の女にとって、海は帰る場所であり、連れていかれる場所でもある。』
海。
リセはそれを覚えていない。
でも、行きたいという気持ちは残っている。
『いつか、澄香とリセが一緒に海へ行けたらいい。
その時、私は二人の後ろを歩きたい。
リセが波に驚いて泣いて、澄香が困った顔で笑うところを見たい。
もし私がその日を覚えていられなくても、その景色がどこかに残ればいいと思う。』
俺はそれ以上、すぐには読めなかった。
汐里は知っていたのだ。
自分が忘れていくことを。
自分がその景色を覚えていられないかもしれないことを。
それでも、澄香とリセが海へ行くことを願っていた。
「姉は、リセを海へ連れていきたがっていました」
澄香が言った。
「私は、それが怖かった」
「汐里さんが消えたから」
「はい」
澄香は帳面に手を置いた。
「姉が海へ行きたいと言った時、私は止めました。海は姉を奪う場所だと思ったから。でも、姉の日記を読むと……本当は、海は姉が最後まで見たかった場所だったのかもしれない」
その声には、長い時間をかけても消えなかった後悔が滲んでいた。
「相良さん」
「はい」
「私は、リセを海へ連れていくべきなのでしょうか」
それは、答えを求める問いではなかった。
許しを求める問いに近かった。
俺はすぐには答えられなかった。
連れていくべきだ、と言うのは簡単だ。
リセの願いなのだから。
母と娘が向き合うために必要なのだから。
物語としても、その方が美しい。
でも、澄香にとって海は、姉を失った場所だ。
そこへ娘を連れていけと言うことが、どれだけ残酷なことなのか。
俺はまだ、きちんと分かっていない。
「俺には、決められません」
正直に言った。
澄香は俺を見た。
「でも、リセは自分で言いました。海に行きたいって。お母さんと一緒に行きたいって」
「ええ」
「それをなかったことには、できないと思います」
澄香は長く沈黙した。
やがて、小さくうなずいた。
「そうですね」
彼女は木箱の中から、小さな鈴のついた紐を取り出した。
赤い組紐に、小さな銀の鈴が結ばれている。
「これは姉がリセに渡そうとしていたものです」
「リセに?」
「日記に書いてありました。海に行く時、リセの手首につけてあげたいと」
澄香はそれを俺に差し出した。
「持っていてください」
「俺が?」
「今の私が持っていると、また隠してしまう気がします」
澄香は自嘲するように言った。
「私は、守るためと言いながら、大切なものをしまい込むことしかできなかった」
俺は鈴の紐を受け取った。
小さな鈴は、手の中でかすかに鳴った。
ちりん。
潮見神社の鈴とは違う、柔らかい音だった。
「リセが海へ行く時、渡してください」
「分かりました」
「それと、もう一つ」
澄香は帳面を見た。
「リセが忘れたことを、記録してほしいんです」
「記録」
「何を忘れたのか。何を覚えていたのか。何を言ったのか。あなたの言葉で残してください」
それは、昨日の電話で言われた「覚えていてください」の具体的な形だった。
「俺でいいんですか」
「あなたがいいのかは、分かりません」
澄香は正直に言った。
「でも、あなたは書こうとしている。リセを、役目ではなく一人の人間として見ようとしている。少なくとも今は、そう見えます」
俺は何も言えなかった。
評価されているのではない。
託されているのだ。
それも、重すぎるほどのものを。
「分かりました」
俺は答えた。
「書きます」
「ありがとうございます」
澄香は頭を下げた。
その姿は、昨日までの冷たい母親ではなかった。
娘を守りたいのに、自分一人では守り方が分からなくなってしまった人だった。
部屋を出ると、境内は夕焼けに染まっていた。
リセとナツメは、まだ楠の下にいた。
ただ、様子が少しおかしかった。
ナツメがリセの肩を掴み、何かを必死に話している。
「リセ、落ち着いて。私、ナツメ。分かる?」
「……ナツメちゃん?」
リセの声が小さく聞こえた。
澄香が走り出した。
「リセ!」
俺も後を追う。
リセは縁側に座り込んでいた。
顔色が悪い。
額に汗が浮かんでいる。
目は開いているが、焦点が少し合っていない。
「リセ、大丈夫?」
澄香が膝をつき、リセの顔を覗き込む。
リセは母を見た。
そして、ほんの一瞬だけ、困ったように首をかしげた。
「……お母さん?」
澄香の顔が強ばった。
リセはすぐに「あ」と声を上げた。
「ごめんなさい。分かります。お母さんです。ちゃんと分かります」
笑おうとする。
でも、その笑顔はひどく不安定だった。
ナツメが唇を噛んでいる。
「急に、私の名前が出てこなくなったんだよ」
「少しだけです」
リセが言う。
「ほんとに少しだけ。ナツメちゃんの顔は分かってました。ただ、名前がちょっと隠れてただけです」
「隠れてた?」
「はい。机の下に落ちた消しゴムみたいに」
「笑えないよ」
ナツメの声が震えていた。
「ごめんね」
リセは申し訳なさそうに笑った。
「ほら、謝るとまた謝罪セールになりますよ」
「リセ」
澄香が彼女を抱きしめた。
強く、でも壊れものに触れるように。
リセは少し驚いた顔をしたあと、母の背中に手を回した。
「お母さん、わたし大丈夫です」
「大丈夫じゃない」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない!」
澄香の声が境内に響いた。
リセは黙った。
澄香はリセを抱きしめたまま、震えていた。
「大丈夫って言わないで」
その声は、ほとんど泣いていた。
「お願いだから、大丈夫って言わないで」
リセはしばらく動かなかった。
やがて、小さくうなずいた。
「……じゃあ」
リセは母の肩に顔を寄せたまま言った。
「少しだけ、怖いです」
その言葉を聞いた瞬間、澄香の目から涙が落ちた。
ナツメも顔を伏せた。
俺はただ立っていた。
少しだけ、怖い。
それはリセが初めて、自分の恐怖を言葉にした瞬間だった。
笑うことでも、冗談にすることでもなく。
自分が忘れていくことを、怖いと言った。
澄香は何度も頷いた。
「うん」
「でも」
「うん」
「忘れたくないです」
リセの声は震えていた。
「ナツメちゃんの名前も、お母さんの顔も、相良さんにもらったアイスのことも。忘れたくないです」
「うん」
「でも、忘れちゃうんですよね」
澄香は答えられなかった。
誰も答えられなかった。
リセは顔を上げ、俺を見た。
「相良さん」
「なんだ」
「わたし、今日、何してましたか」
また、その質問だった。
けれど昨日よりも、ずっと切実だった。
俺は深く息を吸った。
「夕方、ナツメとここで話してた」
「はい」
「神様にも定休日が必要だって言ってた」
「……言いそうです」
「交代要員はナツメ」
「ナツメちゃん、神様似合いますね」
「似合わないよ」
ナツメが泣きながら言った。
「そのあと、ナツメがアイスを買ってきた。リセはバニラを食べた」
「はい」
「俺にも同じアイスを食べろって言った。同じものを食べると仲良くなった気がするって」
リセは少しだけ笑った。
「それは、いいこと言いましたね」
「自画自賛か」
「覚えてないので、新鮮に褒められます」
いつもの冗談。
でも、少しだけ弱い。
俺は続けた。
「それから、俺と澄香さんが奥へ行った。リセとナツメは境内に残った」
「はい」
「ナツメの名前が、少し出てこなくなった」
リセはうつむいた。
「……はい」
「でも、思い出した」
「はい」
「ちゃんと、思い出した」
リセは小さくうなずいた。
その目に涙が浮かんでいた。
「相良さん」
「なんだ」
「そういうの、書いておいてくれますか」
澄香が俺を見る。
ナツメも俺を見る。
俺はうなずいた。
「書く」
「わたしが忘れても?」
「忘れても」
「変なこと言ってても?」
「そこは詳しく書く」
「ひどい」
「神様の定休日の話は後世に残すべきだ」
「恥ずかしいので、やっぱり検閲してください」
「却下」
リセは少しだけ笑った。
笑ったあと、目元を拭った。
「じゃあ、お願いします」
「ああ」
「わたしが忘れたわたしを、相良さんが覚えていてください」
その言葉は、澄香が言ったものと似ていた。
けれど、リセ自身の口から聞くと、重さが違った。
俺は答えた。
「覚えてる」
「簡単に言いますね」
「簡単じゃないのは分かってる」
「ほんとですか?」
「たぶん」
「そこは自信持ってください」
「じゃあ、分かってる」
リセは満足そうに頷いた。
「よろしい」
夕焼けの中で、境内が少しだけ静かになった。
澄香はリセを部屋へ連れていった。
ナツメはしばらくその場に座り込んだままだった。
「きついね」
ぽつりと言った。
「ああ」
「顔は分かってるのに、名前だけ出てこないんだって。私のこと、見てるのに。私だって分かってるのに」
ナツメは両手で顔を覆った。
「名前って、そんな簡単に消えるんだね」
「簡単じゃない」
「でも消えた」
その声には、怒りがあった。
リセに対してではない。
澄香に対してでもない。
町に対してか、潮返しに対してか、あるいは何もできない自分に対してか。
「私、怖い」
ナツメは言った。
「いつかリセが、私を見て誰ですかって言ったら、たぶん耐えられない」
「ナツメ」
「でも、リセの方がもっと怖いんだよね」
ナツメは顔を上げた。
目が赤かった。
「だから私、逃げちゃだめだよね」
俺は何も言えなかった。
逃げるな、とは言えない。
人には耐えられる痛みと、耐えられない痛みがある。
でも、ナツメは自分でそこに立とうとしていた。
「明日、リセを商店街に連れてきて」
「澄香さんが許すか」
「許させる」
「強いな」
「強くないよ。今すぐ泣いて帰りたい」
「帰ってもいいんじゃないか」
「帰るけど、明日は来る」
ナツメは立ち上がった。
「リセが忘れるなら、思い出を増やす。忘れられたら、また自己紹介する。何回でも」
そう言ってから、少しだけ笑った。
「まあ、百回くらい忘れられたら心折れるかもだけど」
「その時は?」
「百一回目でキレながら自己紹介する」
「いい幼なじみだな」
「でしょ」
ナツメは涙を拭い、石段を下りていった。
俺はしばらく境内に残っていた。
夕焼けが濃くなり、海が赤く染まっている。
手の中には、汐里の鈴があった。
ちりん。
小さく鳴らすと、リセの声が頭の中によみがえる。
わたしが忘れたわたしを、相良さんが覚えていてください。
俺は祖母の家へ戻ると、すぐにノートを開いた。
今日のことを書く。
リセが神様の定休日について話したこと。
ナツメが神様の交代要員にされたこと。
同じアイスを食べると仲良くなった気がすると言ったこと。
ナツメの名前が一瞬出てこなくなったこと。
母の顔を見て、一瞬迷ったこと。
そして、少しだけ怖いと言ったこと。
書いているうちに、手が震えてきた。
これは記録だ。
でも、ただの記録ではない。
リセが失っていくものを、紙の上にとどめる作業。
彼女の輪郭を、言葉でなぞる作業。
それは物語を書くことに似ていた。
でも、物語よりもずっと怖かった。
俺が書き間違えれば、リセの一部を歪めてしまう。
俺が見落とせば、その瞬間のリセはどこにも残らない。
「重すぎるだろ……」
思わずつぶやいた。
だが、ペンは止まらなかった。
書く。
覚えている限り、書く。
リセの言葉を。
ナツメの涙を。
澄香の震える手を。
汐里の日記に残っていた、短い命だったね、という言葉を。
深夜になって、ようやく手を止めた。
ノートには、今日一日の出来事がびっしりと書かれていた。
その最後に、俺は一文を書き足した。
――忘れることは、何かがなくなることではない。なくなったことに、周りが慣れてしまうことだ。
ペンを置く。
窓の外では、風鈴が鳴っていた。
翌日。
リセは商店街に来た。
澄香は最後まで渋ったらしいが、ナツメが朝から神社へ押しかけ、半ば強引に連れ出した。
もちろん一人ではない。
澄香も一緒だった。
リセは白い帽子をかぶり、薄い水色のワンピースを着ていた。
少し顔色は悪かったが、商店街を見た瞬間、目を輝かせた。
「わあ」
それだけだった。
商店街は別に賑やかではない。
閉まった店も多いし、歩いている人も少ない。
それでもリセにとっては、久しぶりの外だったのだろう。
彼女はシャッターの下りた金物屋を見ても、古いポストを見ても、祭りの提灯を見ても、いちいち立ち止まった。
「リセ、そんなに珍しい?」
ナツメが聞くと、リセは真剣な顔でうなずいた。
「世界は広いですね」
「ここ商店街だよ」
「商店街は世界の一部です」
「まあ、そうだけど」
リセは橘商店の前で立ち止まった。
「ここ、知ってます」
「うん。私の店」
「ナツメちゃんの店」
「そう」
「アイスがあります」
「そこから思い出すんだ」
「大事です」
ナツメは笑った。
昨日泣いていた顔ではなく、いつもの少し乱暴で明るい笑顔だった。
澄香は少し離れて見ていた。
リセが転ばないか、具合を悪くしないか、誰かに余計なことを言われないか。
全身で警戒しているのが分かる。
だが、今日はリセの手を引いていない。
ほんの数歩分だけ、距離を置いている。
それだけでも、澄香にとっては大きなことなのだろう。
ナツメは店の冷凍ケースを開けた。
「好きなの選んでいいよ」
「いいんですか?」
「私のおごり」
「神様に供物ですね」
「はいはい、神様」
リセは迷わずバニラアイスを選んだ。
俺も同じものを選ぶ。
ナツメはソーダ味のアイスにした。
「ナツメちゃん、それ青いですね」
「ソーダだからね」
「海みたいです」
その言葉に、澄香の肩がわずかに動いた。
ナツメも一瞬、言葉に詰まる。
リセは気づいているのかいないのか、ソーダアイスをじっと見ていた。
「海って、こんな味ですか?」
「たぶん違う」
俺が答える。
「しょっぱいと思う」
「ソーダ味じゃないんですか」
「海がソーダ味だったら、漁師が困る」
「魚が甘くなりますね」
「それはそれで嫌だな」
リセはくすくす笑った。
商店街を歩きながら、リセはいろんなものを見た。
閉まった写真館のショーケース。
古い自販機。
祭りのポスター。
軒先の風鈴。
そのたびに、何かを思い出そうとするように首をかしげる。
「ここ、来たことあります」
写真館の前でリセが言った。
「たぶん」
ナツメがうなずく。
「小さい頃、七五三の写真撮ったよ」
「七五三」
「着物着て、すごい不機嫌だった」
「わたしが?」
「うん。草履が痛いって怒ってた」
「わたし、怒ったんですか?」
「怒ったよ。めちゃくちゃ」
リセは驚いた顔をした。
「わたし、怒れるんですね」
その言葉に、ナツメの笑顔が少し固まった。
「怒れるよ」
「そうですか」
リセはショーケースのガラスに映る自分の顔を見た。
「最近、怒り方を忘れてる気がします」
誰もすぐには返事ができなかった。
怒り方を忘れる。
それは、記憶を失うことよりも残酷に聞こえた。
人は怒ることで、自分の境界線を守る。
嫌なものを嫌だと言う。
奪われたくないものを奪われないようにする。
それを忘れてしまったら、人はどこまで自分でいられるのだろう。
「じゃあ練習する?」
ナツメが言った。
「怒る練習」
「怒る練習?」
「そう。私がリセのアイスを奪います」
「それは重大事件です」
「でしょ? ほら怒って」
ナツメはリセのアイスに手を伸ばす。
リセは少し考え、眉を寄せた。
「……だめです」
「弱い」
「返してください」
「まだ取ってない」
「では、未遂です」
「もっと怒って」
リセはさらに真剣な顔をした。
「ナツメちゃん」
「はい」
「アイスを奪う人は、神様ポイントが下がります」
「怒り方が宗教的」
俺が言うと、リセは困ったように笑った。
「怒るの、難しいですね」
ナツメはアイスを持つリセの手を軽く叩いた。
「じゃあ、少しずつ思い出せばいいよ」
「怒り方を?」
「うん。あと、わがままの言い方も」
「わがまま」
「海に行きたいとか」
その言葉に、澄香が息を呑んだ。
リセは海の方を見た。
商店街の坂道の先に、青い光が見える。
防波堤の向こう、ほんの少しだけ。
「……行きたいです」
リセは小さく言った。
昨日よりも、はっきり。
澄香は唇を噛んだ。
だが、止めなかった。
ただ、目を伏せた。
「今日は、商店街まで」
澄香が言った。
「それ以上は、まだ」
リセは母を見た。
責めるような顔ではなかった。
少しだけ残念そうに、でも嬉しそうに笑う。
「はい」
「ごめんなさい」
「謝罪セールですか?」
リセが言う。
澄香は一瞬きょとんとして、それから少しだけ笑った。
「そうね」
その笑顔は、ぎこちなかった。
けれど、たしかに笑顔だった。
リセはそれを見て、驚いたように目を見開いた。
「お母さん、今笑いました」
「そんなに珍しい?」
「珍しいです。記録に残しましょう」
リセが俺を見る。
「相良さん」
「書く」
「お願いします」
澄香は少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
その光景を、俺は覚えようと思った。
リセが母の笑顔を見て、本当に嬉しそうにしたこと。
澄香が娘の前で、少しだけ笑えたこと。
ナツメが横で、泣きそうなのを誤魔化すようにソーダアイスをかじっていたこと。
商店街の風鈴が鳴っていたこと。
全部。
帰り道、リセは少し疲れたのか、歩く速度が落ちた。
澄香が手を差し出す。
リセは一瞬迷い、それからその手を握った。
親子は並んで歩いた。
海へは行かなかった。
でも、昨日よりも少しだけ海に近づいた。
それだけで、この日は意味があったのだと思った。
しかし、その夜。
リセは倒れた。
連絡を受けて神社へ駆けつけた時、境内はすでに暗かった。
拝殿の奥の部屋で、リセは布団に寝かされていた。
額には濡れた手拭い。
頬は赤く、呼吸は少し荒い。
澄香がそばについている。
ナツメも来ていた。
店から走ってきたのか、息を切らしている。
「昼間、無理させたから」
澄香が自分を責めるように言った。
「私が、もっと早く帰らせていれば」
「お母さんのせいじゃありません」
リセが薄く目を開けて言った。
声はかすれている。
「わたしが、行きたかったんです」
「でも」
「楽しかったです」
リセは弱々しく笑った。
「商店街、世界でした」
「商店街は世界だったよ」
ナツメが泣きそうな声で言う。
「私の店、世界の中心だから」
「はい。アイスがありました」
「そればっかり」
リセは小さく笑った。
そのあと、ぼんやりと天井を見た。
「ナツメちゃん」
「なに」
「わたし、今日、怒りましたか?」
ナツメは口を開きかけ、言葉に詰まった。
俺が代わりに答えた。
「怒る練習をした」
「練習」
「ナツメがアイスを奪おうとした」
「ナツメちゃん、悪い子ですね」
「未遂だよ」
ナツメが涙声で返す。
「リセは、神様ポイントが下がるって怒った」
「それ、怒ってますか?」
「たぶん、リセなりには」
「そうですか」
リセは安心したように目を閉じた。
「よかった。わたし、まだ怒れるんですね」
その言葉に、澄香がリセの手を握った。
「怒っていいのよ」
澄香は言った。
「リセは、もっと怒っていい。嫌なことは嫌だって言っていい。行きたい場所へ行きたいって、何度でも言っていい」
リセは目を開けた。
母を見つめる。
「お母さん」
「私は、あなたに大丈夫って言わせすぎた」
澄香の声は震えていた。
「ごめんなさい」
「また謝ってます」
「今日は謝らせて」
「じゃあ、少しだけ」
リセは母の手を握り返した。
「少しだけ許します」
澄香は泣きながら笑った。
「ありがとう」
その時、リセの視線が俺へ向いた。
「相良さん」
「なんだ」
「今日のこと、書いてくれますか」
「ああ」
「お母さんが笑ったことも」
「書く」
「ナツメちゃんがアイス泥棒未遂をしたことも」
「それは大きく書いて」
「やめて」
ナツメが顔を覆う。
リセは小さく笑った。
けれどその笑いはすぐに弱くなった。
「あと」
「うん」
「わたしが、海に行きたいって言ったことも」
「書く」
「何回も」
「何回も書く」
リセは満足そうにうなずいた。
「そうすれば、忘れても大丈夫ですね」
「大丈夫じゃなくても、残る」
俺が言うと、リセは目を細めた。
「相良さん、たまに正しいこと以外も言いますね」
「褒めてるのか」
「褒めてます」
リセはそう言って、眠るように目を閉じた。
澄香が心配そうに身を乗り出す。
だが、リセは静かに寝息を立て始めていた。
部屋の中に、張りつめていた空気が少しだけ緩む。
ナツメはその場にへたり込んだ。
「心臓に悪い……」
「ああ」
俺も同感だった。
澄香はリセの髪をそっと撫でていた。
「相良さん」
「はい」
「今日のことを、お願いします」
「分かっています」
俺はうなずいた。
その夜、祖母の家に戻ってから、俺はほとんど眠らずに書いた。
商店街のこと。
リセが世界は広いと言ったこと。
写真館の前で、自分が怒れることに驚いたこと。
ナツメが怒る練習をさせたこと。
澄香が少しだけ笑ったこと。
リセが海に行きたいとはっきり言ったこと。
そして、夜に倒れたこと。
忘れたくないと言ったこと。
まだ怒れるんですね、と安心したこと。
大丈夫じゃなくても、残る、と俺が言ったこと。
書きながら、俺は気づいた。
これはもう、ただの記録ではない。
俺は、リセを残そうとしている。
リセが忘れていくリセを、言葉の中に引き留めようとしている。
それが正しいのかは分からない。
言葉にした瞬間、現実のリセとは少し違うものになってしまうかもしれない。
それでも、何も残さないよりはいいと思った。
忘れられていくことに慣れてしまうよりは。
夜明け前。
ノートの最後に、俺はこう書いた。
――今日、天宮リセは海に行きたいと言った。
その一文を、もう一度書く。
――天宮リセは、海に行きたいと言った。
さらにもう一度。
――天宮リセは、母と一緒に海へ行きたいと言った。
何度も書いた。
その願いが、紙に染み込むまで。
その願いが、俺の中から消えなくなるまで。
朝が来る頃、窓の外で蝉が鳴き始めた。
俺は机に突っ伏したまま、少しだけ眠った。
夢を見た。
夢の中で、リセは海辺に立っていた。
足元に波が寄せては返る。
白いワンピースの裾が、風に揺れている。
リセは振り返る。
でも、その顔がよく見えない。
俺は彼女の名前を呼ぼうとする。
天宮リセ。
そう言おうとしたのに、声が出ない。
名前が喉の奥で崩れていく。
忘れるな。
忘れるな。
俺は必死に思う。
だが、波の音がすべてをさらっていく。
目が覚めた時、机の上のノートが朝日に照らされていた。
そこには、何度も同じ文が書かれている。
天宮リセは、母と一緒に海へ行きたいと言った。
俺はその文字を見て、ようやく息を吐いた。
まだ覚えている。
まだ、ここにある。
その時、電話が鳴った。
受話器を取る。
澄香だった。
『相良さん』
声が震えていた。
「どうしました」
『リセが』
その一言だけで、嫌な予感がした。
『リセが、あなたの名前を思い出せません』
窓の外で、蝉の声が急に遠くなった。
受話器を握る手に力が入る。
昨日、彼女は言った。
相良さん、書いてくれますか。
相良さん、覚えていてください。
その呼び方が、もう彼女の中から消えかけている。
俺は机の上のノートを見た。
そこには、昨日のリセがまだいた。
笑って、怒る練習をして、海に行きたいと言っているリセが。
「すぐ行きます」
俺は受話器を置き、ノートを抱えて家を飛び出した。
外は、眩しいほどの夏だった。
空は青く、蝉は鳴き、海からは潮の匂いがした。
こんなにも世界は変わらないのに。
リセだけが、少しずつ夏に連れていかれている。
俺は石段へ向かって走った。
手の中で、汐里の鈴が鳴った。
ちりん。
その音は、まるで誰かが小さく名前を呼んでいるようだった。




