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第四章 母の檻

 澄香の姉の名前。


 その空白は、ノートの端に残ったままだった。


 天宮リセ。


 その下に、一行空けて、まだ名前のない誰かのための場所を作った。


 誰も思い出せない人。


 町の願いを受け、誰かの後悔を海から返し、その代わりに自分を失っていった人。


 リセの前に、天宮の娘だった人。


 澄香の姉。


 名前が分からないということが、こんなにも気持ち悪いものだとは思わなかった。


 死んだ人の名前なら、墓を探せばいい。

 古い戸籍を調べればいい。

 誰かの記憶の隅を探れば、出てくるかもしれない。


 けれど、町の誰もがその名前だけを忘れている。


 顔は覚えている。

 声も覚えている。

 優しかったことも、美しかったことも、助けられたことも覚えている。


 なのに名前だけが、ぽっかりと抜け落ちている。


 それはまるで、この町そのものが、彼女を忘れようとしているみたいだった。


 朝から机に向かっていたが、ノートはほとんど進まなかった。


 書くべきことはある。


 町の人々の願い。

 潮返しの代償。

 リセの記憶。

 澄香の怒り。


 けれど、書こうとすると手が止まる。


 誰かの痛みを、文章にする。


 それは簡単なことじゃない。


 俺は昔、自分には物語がないと思っていた。

 だから人の作品を真似た。

 見たことのある展開を並べ、泣けそうな台詞を置き、綺麗そうな言葉で飾った。


 それで何かを書いた気になっていた。


 でも今、目の前に本当に痛んでいる人たちがいる。


 リセ。

 澄香。

 ナツメ。

 町の人たち。


 その痛みを自分の言葉で受け止めようとすると、急に怖くなる。


 間違って書けば、ただ消費するだけになる。

 分かったような顔で書けば、嘘になる。


 俺はペンを置いた。


 窓の外では、蝉が鳴いている。


 八月の光は、今日も容赦なく庭の草を照らしていた。


 祖母の家の押し入れをもう一度調べることにした。


 澄香の姉の名前。


 もし祖母が潮返しに関わっていたなら、何か残しているかもしれない。


 押し入れの奥には、昨日見た段ボールのほかに、古い木箱があった。


 蓋には薄く埃が積もっている。

 持ち上げると、思ったより軽かった。


 中には、古い写真と手紙の束が入っていた。


 祖母の若い頃の写真。

 町内会の集合写真。

 潮見神社の夏祭りらしい写真。


 白黒のものもあれば、色あせたカラー写真もある。


 俺は一枚ずつ確認していった。


 祭りの屋台。

 法被を着た男たち。

 浴衣姿の子供たち。

 潮見神社の石段。


 その中に、気になる写真があった。


 拝殿の前で撮られた集合写真。


 中央に、二人の少女が写っている。


 一人は、若い頃の澄香だろう。

 今よりもずっと幼く、まだ十代半ばくらいに見える。

 硬い表情で、カメラを睨むように立っている。


 その隣に、白い着物を着た少女がいた。


 澄香より少し年上に見える。

 柔らかな目をしていて、口元に淡い笑みを浮かべている。


 この人だ。


 直感的にそう思った。


 澄香の姉。


 天宮家の先代の娘。


 写真の裏を見る。


 日付が書かれていた。


『平成十年 潮返しの儀』


 その下に、何人かの名前が並んでいる。


 天宮澄香。


 その隣に、もうひとつ名前が書かれていたようだった。


 だが、そこだけインクがにじんで読めない。


 まるで、その名前を隠すように。


「……なんだよ、これ」


 声が漏れた。


 偶然かもしれない。

 古い写真だ。湿気でにじむこともあるだろう。


 けれど、この町に来てから、偶然という言葉を信じる気にはなれなくなっていた。


 俺は写真を持って、家を出た。


 向かったのは橘商店だった。


 ナツメなら、何か知っているかもしれない。

 あるいは、彼女の祖母なら。


 商店街は祭りの準備で少しだけ賑わっていた。


 提灯が増え、古いスピーカーから祭囃子の練習音が流れている。

 閉まった店先にも、無理やり夏の色が吊るされていた。


 橘商店の前では、ナツメがかき氷機を磨いていた。


「おはよう」


「今日は顔がさらに暗いね」


「毎日更新してる」


「やだなあ、その成長」


 ナツメは手を止め、俺の持っている写真に目を向けた。


「何それ」


「祖母の家で見つけた」


 写真を渡す。


 ナツメは何気なく受け取った。

 だが、中央に写る白い着物の少女を見た瞬間、表情が変わった。


「この人」


「知ってるのか」


「知ってる、というか……」


 ナツメは写真をじっと見つめた。


「見たことある。ばあちゃんのアルバムにも、たぶん同じ人が写ってた」


「名前は?」


 ナツメは口を開きかけ、すぐに閉じた。


 眉間に皺を寄せる。


「……だめ。出てこない」


「やっぱりか」


「何なの、これ。気持ち悪い」


 ナツメは苛立ったように写真を返してきた。


「顔は分かるんだよ。優しそうな人だったってことも分かる。リセが小さい頃、抱っこしてたような気がする。でも名前だけが出てこない」


「澄香さんなら覚えてると思うか」


「覚えてるでしょ。妹なんだから」


「なら、聞くしかないな」


 俺が言うと、ナツメは露骨に嫌な顔をした。


「やめといた方がいい」


「でも、他に手がかりがない」


「透さん、澄香さんに嫌われてる自覚ある?」


「ある」


「じゃあなんで自分から地雷原に突っ込むの」


「地雷がある場所に、大事なものが埋まってることもある」


「うまいこと言ったつもり?」


「少し」


「腹立つなあ」


 ナツメはため息をついた。


 それから、店の奥を振り返った。


「ばあちゃんにも見せてみる?」


「頼む」


 店の奥にいた橘の祖母は、写真を見ると、懐かしそうに目を細めた。


「ああ……この子」


「名前、分かりますか」


 俺が聞くと、老婆はしばらく黙った。


 唇が小さく動く。


 何かを思い出そうとしている。


 だが、やがて悲しそうに首を横に振った。


「すまんね。やっぱり出てこん」


「この人は、澄香さんのお姉さんですよね」


「そうたい。澄香さんのお姉さん。優しか子やった。リセちゃんが生まれた時も、よう抱っこしとった」


「リセが生まれた時には、まだいたんですか」


「おったよ」


 老婆は写真を撫でるように指でなぞった。


「リセちゃんが三つか四つくらいまでは、まだ神社におったと思う」


「その後は?」


 老婆の手が止まる。


「……潮返しのあと、倒れてね」


「亡くなったんですか」


「亡くなった、とは聞いとらん」


「じゃあ」


「消えた」


 老婆は小さな声で言った。


「そう言うしかないねえ」


 消えた。


 その言葉は、死んだよりも曖昧で、ずっと不気味だった。


「どういう意味ですか」


「神社からいなくなった。町からもいなくなった。誰も探さんかったわけじゃない。でも、どこへ行ったのか分からんまま」


「警察は」


「昔のことやけんね。それに、天宮家のことは、町の外に話しにくかった」


 老婆は苦い顔をした。


「今思えば、おかしな話たい。人が一人いなくなっとるのに、町は祭りを続けた。潮返しをありがたいものとして語り続けた」


「なぜ」


「救われた人が多すぎたんやろうね」


 老婆は写真を俺に返した。


「救われた人は、自分を救ったものを悪いものだと思いたくない。だから、見ないようにした。忘れたふりをした」


「ふり?」


「最初は、ふりやったのかもしれん」


 老婆は寂しそうに笑った。


「でも、ふりを続けているうちに、本当に忘れてしまった」


 その言葉は、町そのものへの告白のようだった。


 店を出ると、ナツメがついてきた。


「神社行くんでしょ」


「ああ」


「私も行く」


「店は?」


「ばあちゃんに任せる。どうせ昼間は客少ないし」


「いいのか」


「いいの」


 ナツメは写真をもう一度見た。


「私も知りたい。リセのこと、澄香さんのこと。今まで知らないふりしてたけど、もう無理」


 その声には、覚悟というほど大げさではないが、確かな強さがあった。


 俺たちは並んで潮見神社へ向かった。


 石段を上る途中、ナツメは何度も息を切らしていた。


「この階段、何回上っても嫌い」


「地元民でもそうなのか」


「神社の階段好きな地元民なんていないよ。観光客だけだよ、風情とか言うの」


「観光客、来るのか」


「昔はね。今は迷い込んだ人くらい」


 ナツメは汗を拭いながら言った。


「リセは小さい頃、この階段を走って上ってた」


「身体が弱いんじゃなかったのか」


「昔は、今ほどじゃなかった」


 ナツメの声が少し沈んだ。


「少なくとも、海に行きたいって叫びながら走る元気はあった」


 境内に着くと、そこは静かだった。


 祭りの準備の道具は端に寄せられ、提灯だけが風に揺れている。


 リセの姿はなかった。


 拝殿の前に、澄香が立っていた。


 箒を持ち、石畳の上の落ち葉を集めている。

 俺たちに気づくと、手を止めた。


「相良さん」


 その声には、明らかな警戒があった。


 ナツメを見て、さらに眉をひそめる。


「ナツメさんまで」


「こんにちは、澄香さん」


 ナツメは少し緊張した声で挨拶した。


「リセに会いに来たわけじゃありません」


 俺は言った。


「聞きたいことがあります」


「お話しすることはありません」


「あなたのお姉さんのことです」


 澄香の表情が凍った。


 境内の空気が、一瞬で張りつめる。


 ナツメが息を呑むのが分かった。


 俺は写真を差し出した。


「祖母の家で見つけました」


 澄香は写真を見た。


 その瞬間、彼女の顔から色が消えた。


 箒が手から落ちる。


 乾いた音を立てて、石畳に転がった。


「……どこで」


「祖母の家です」


「どうして、あなたがこれを」


「分かりません。でも、ここに写っているのは、あなたのお姉さんですよね」


 澄香は写真に手を伸ばしかけ、途中で止めた。


 触れるのを恐れているようだった。


「名前を教えてください」


 俺は言った。


「町の人は、誰も思い出せません。でも、あなたなら」


「帰ってください」


「澄香さん」


「帰って」


 澄香の声が震えていた。


 怒りではない。

 恐怖でもない。


 もっと深いところにある、剥き出しの痛みだった。


「お願いします。あの人のことを、これ以上掘り返さないで」


「あの人?」


 ナツメが小さく言った。


「澄香さん、お姉さんの名前……」


「言わない」


 澄香は即座に言った。


「言えば、また失う」


「どういう意味ですか」


 俺が聞くと、澄香は唇を噛んだ。


 その時、拝殿の奥から声がした。


「お母さん?」


 リセだった。


 白い薄手のカーディガンを羽織り、少し眠そうな顔で出てくる。


 俺たちの姿を見ると、目を丸くした。


「相良さん。ナツメちゃんも」


「リセ」


 ナツメが一歩前に出る。


 だが、澄香がそれを制するようにリセの前に立った。


「部屋に戻っていなさい」


「でも、みんな来てるし」


「戻りなさい」


「お母さん」


「戻って!」


 初めて、澄香が声を荒げた。


 境内にその声が響く。


 リセはびくりと肩を震わせた。


 澄香自身も、自分の声に驚いたように息を呑んだ。


「……ごめんなさい」


 澄香が小さく言った。


 それはリセに向けた謝罪なのか、俺たちに向けたものなのか分からなかった。


 リセは少しだけうつむいたあと、俺の手元の写真に気づいた。


「それ、誰ですか?」


 その一言で、時間が止まった。


 澄香がゆっくりとリセを見る。


 ナツメの顔がこわばる。


 俺は写真を持ったまま、動けなかった。


「リセ」


 澄香の声はかすれていた。


「覚えていないの」


「え?」


「この人を」


 澄香は震える指で、写真の白い着物の少女を指した。


 リセは写真をじっと見た。


 首をかしげる。


「……きれいな人ですね」


 澄香の表情が崩れた。


 ほんの一瞬だった。

 だが、その一瞬で分かった。


 リセは忘れている。


 自分を抱いてくれたはずの人を。

 神社にいたはずの人を。

 母が失った姉を。


 そして澄香は、その事実をずっと恐れていた。


「戻って」


 澄香はリセの肩を抱いた。


「お願い。部屋に戻って」


「お母さん、痛い」


「あ……」


 澄香は慌てて手を離した。


 リセは困ったように笑った。


「大丈夫です。怒ってないですよ」


「リセ」


「お母さんは、すぐ泣きそうな顔をしますね」


 その言葉に、澄香は何も言えなくなった。


 リセは俺たちに軽く頭を下げると、拝殿の奥へ戻っていった。


 その背中が見えなくなっても、澄香はしばらく動かなかった。


 やがて彼女は、箒を拾うこともせず、拝殿の縁側に腰を下ろした。


「……座ってください」


 それは、ようやく開かれた扉のような言葉だった。


 俺とナツメは顔を見合わせ、縁側の端に腰を下ろした。


 境内に風が吹く。


 潮の匂いがした。


 澄香は写真を受け取り、膝の上に置いた。


 白い着物の少女を、長い間見つめる。


「姉の名前は、天宮汐里」


 その名前を聞いた瞬間、胸の奥で何かが鳴った気がした。


 天宮汐里。


 ようやく空白に入る名前が見つかった。


「しおりさん」


 ナツメが小さく繰り返す。


 澄香はうなずいた。


「汐里は、私の三つ上の姉でした。優しくて、明るくて、誰からも好かれていました。町の人たちは、姉のことを天宮様と呼んでいました」


「澄香さんは?」


「私は、そう呼ばれるのが嫌いでした」


 澄香は少しだけ笑った。


「姉は人間なのに。私の姉なのに。町の人たちは、姉を最初から役目として見ていた」


 天宮の娘。


 町の願いを受ける者。


 その呼び名は、尊敬のようでいて、人間としての名前を奪うものだったのかもしれない。


「汐里は、嫌がらなかったんですか」


 俺が聞くと、澄香は写真から目を離さずに答えた。


「嫌がりませんでした。少なくとも、私の前では」


「リセみたいに?」


 ナツメが言う。


 澄香は目を伏せた。


「そうですね。リセは、姉に似ています」


 その声には、愛情と恐怖が混ざっていた。


「誰かが泣いていると、放っておけない。自分が苦しくても、大丈夫だと笑う。求められれば、自分を差し出す」


「それは優しさじゃないんですか」


 俺が聞くと、澄香は首を横に振った。


「優しさだけなら、よかった」


 彼女は写真を握る手に力を込めた。


「天宮家の娘は、そうあるべきだと育てられます。町の声を聞きなさい。人の後悔を受け止めなさい。願いから逃げてはいけません。あなたが忘れることで、誰かが救われるなら、それは尊いことです」


 尊いこと。


 その言葉は、ひどく冷たく聞こえた。


「姉は、それを信じようとしていました。自分が忘れていくことに意味があるなら、怖くないって」


「本当は怖かったんですね」


「怖かったに決まっています」


 澄香の声が強くなった。


「忘れるんです。昨日のことを。友達の名前を。好きだった歌を。自分が何を食べたかったのかも、どこへ行きたかったのかも、少しずつ」


 リセのことを言っているのか、汐里のことを言っているのか、分からなくなった。


 きっと澄香の中では、その二人が重なっているのだ。


「それでも姉は笑っていました。大丈夫。私は天宮の娘だからって」


 澄香は唇を噛んだ。


「私はその言葉が嫌いでした」


 境内の外で、蝉が鳴く。


 遠く、海の音がする。


「最後の潮返しの日」


 澄香は言った。


「大きな台風のあとでした。海で亡くなった人が何人もいて、町の人たちは潮返しを望みました。誰もが泣いていました。誰もが、最後に一言だけでいいから声を聞きたいと言っていました」


 第三章で聞いた、今年の状況と似ていた。


 台風。

 亡くなった人々。

 声を聞きたい家族。


 同じことが、繰り返されようとしている。


「姉は受けると言いました」


「澄香さんは止めたんですか」


「止めました」


 即答だった。


「泣いて止めました。お願いだからやめてって。もう十分だって。これ以上忘れたら、姉さんが姉さんじゃなくなるって」


「汐里さんは?」


「笑っていました」


 澄香の目に涙が浮かんだ。


「リセと同じように。困ったように笑って、私の頭を撫でて言いました」


 澄香はかすれた声で続けた。


「澄香は優しいね、って」


 その言葉は、慰めではなく呪いのように響いた。


「優しいのは姉の方でした。私はただ、姉を失いたくなかっただけなのに」


 澄香は涙を拭わなかった。


「潮返しの夜、鈴が鳴りました。海からたくさんの声が返ってきた。町の人たちは泣いて、抱き合って、ありがとうと言いました」


「汐里さんは」


「倒れました」


 澄香は写真を見つめた。


「目を覚ました時、姉は私の名前を忘れていました」


 ナツメが小さく息を呑んだ。


「それだけじゃありません。自分の部屋も、好きだった花も、母の顔も、父の声も、全部分からなくなっていた」


「自分の名前は?」


 俺が聞いた。


 澄香は首を横に振った。


「覚えていませんでした」


 境内が静まり返った。


 風が止み、蝉の声だけが遠く聞こえる。


「天宮汐里という名前は、姉の中から消えました。そして不思議なことに、町の人々の記憶からも少しずつ消えていった」


「なぜ」


「分かりません」


 澄香は疲れたように笑った。


「潮返しは、願いを返す代わりに、天宮の娘から何かを奪います。記憶だけじゃない。名前。居場所。誰かに覚えられているという事実そのものまで」


「そんなの……」


 ナツメが声を震わせた。


「ひどすぎる」


「ええ」


 澄香はうなずいた。


「だから私は、潮返しを憎んでいます」


「汐里さんは、そのあとどうなったんですか」


 俺は聞いた。


 澄香は長い沈黙のあと、答えた。


「海へ行きました」


「海?」


「姉は、何も覚えていないのに、海へ行きたいと言いました。そこに何かを忘れてきた気がする、と」


 海。


 リセも夢に見る場所。


 母と一緒に行きたいと願っている場所。


「私は止めました。母も父も止めました。でも、姉は夜中に家を出て、そのまま戻りませんでした」


「海で亡くなったんですか」


「分かりません」


 澄香は首を振った。


「遺体は見つかっていません。靴だけが、防波堤に残っていました」


 ナツメが口元を押さえた。


 俺は写真の中の汐里を見た。


 白い着物。

 柔らかな笑み。

 町の人たちの中心に立つ少女。


 その人が、最後には自分の名前も分からないまま海へ消えた。


「だから、リセを海に近づけないんですね」


 俺が言うと、澄香は目を伏せた。


「海に行けば、あの子も戻れなくなる」


「本当にそうなんですか」


「分かりません」


「分からないのに閉じ込めてるんですか」


 ナツメが俺を見た。


 言いすぎだ、と目で言っていた。


 だが澄香は怒らなかった。


「そうです」


 彼女は静かに認めた。


「私は、分からないものが怖い。姉を奪ったものが怖い。町の願いが怖い。海が怖い。そして、リセが姉と同じように笑うことが、何より怖い」


 その告白は、あまりにも正直だった。


「私はリセを守っているつもりでした」


 澄香は言った。


「でも本当は、もう一度失うのが怖かっただけなのかもしれません」


 その言葉は、第一章からずっと見えていた澄香の冷たさの奥にあるものだった。


 守るための檻。


 愛という名前の恐怖。


 母親の手は、リセを抱きしめるためにありながら、同時に外へ出られないように押さえつけている。


「リセは、海に行きたがっています」


 俺は言った。


 澄香の肩が小さく震える。


「知っています」


「知っていて、止めている」


「はい」


「それで、リセが幸せだと思いますか」


 澄香は答えなかった。


 代わりに、写真の汐里を見つめた。


「幸せでなくても、生きていてほしい」


 その言葉は、悲しいほど母親だった。


「笑っていなくてもいい。私を恨んでもいい。あの子が生きているなら、それでいい」


「でもリセは」


「分かっています」


 澄香は俺の言葉を遮った。


「分かっているんです」


 彼女の声は震えていた。


「私があの子を寂しくさせていることくらい。あの子が本当は、私と海に行きたがっていることくらい。分かっています」


「なら」


「でも、連れていけない」


 澄香は泣いていた。


 それでも声だけは、必死に保とうとしていた。


「海を見るあの子の顔が、姉と同じなんです。何かに呼ばれているような顔をする。私の知らないところへ行ってしまいそうな顔をする」


 リセが海を見ていた横顔を思い出す。


 夕暮れの光の中で、遠いものを見るように目を細めていた。


「だから私は、止めるしかない」


 澄香は写真を胸に抱いた。


「母親なのに、あの子の願いを叶えてあげられない」


 境内に沈黙が落ちた。


 俺もナツメも、何も言えなかった。


 澄香は間違っている。


 リセを閉じ込めることは、きっと正しくない。


 けれど、彼女を責めることはできなかった。


 姉を失い、その名前が町から消えていくのを見てきた人間が、娘を守ろうとする。


 それが檻になってしまったとしても。


 その愛が、リセを苦しめていたとしても。


 簡単に否定できるほど、俺は強くなかった。


 その時、拝殿の奥から小さな物音がした。


 リセが出てきた。


 今度は一人だった。


 澄香が立ち上がる。


「リセ、部屋に」


「お母さん」


 リセは静かに言った。


「わたし、海に行きたいです」


 澄香の顔が歪んだ。


 ナツメが息を止める。


 俺も、何も言えなかった。


 リセは弱々しく笑った。


「ごめんなさい。困らせるって分かってるんです。でも、言わないと忘れそうで」


「リセ」


「最近、いろんなことを忘れます」


 リセは自分の胸に手を当てた。


「朝、何をしていたか。昨日、誰と話したか。ナツメちゃんと小さい頃に何をして遊んだか。相良さんに何回アイスをもらったか」


「二回だ」


 俺が言うと、リセは少し笑った。


「ありがとうございます。そういうの、助かります」


 冗談めかした言い方だった。

 でも誰も笑えなかった。


「でも、海に行きたいって気持ちだけは、まだ忘れてないんです」


 リセは澄香を見た。


「お母さんと一緒に行きたいってことも」


 澄香は口元を押さえた。


「どうして」


 絞り出すような声だった。


「どうして、そこまで」


「分かりません」


 リセは首をかしげた。


「理由は忘れちゃったのかもしれません。でも、気持ちは残ってます」


 彼女は海の方を見た。


 境内から見下ろす海は、昼の光を受けて青く広がっていた。


「わたし、海を見たら、お母さんが笑ってくれる気がするんです」


 澄香が泣きそうな顔をした。


「私は、あなたがいればそれでいいの」


「わたしも、お母さんがいれば嬉しいです」


 リセは笑った。


「でも、お母さんはいつも泣きそうです」


「そんなこと」


「あります」


 リセは少しだけ強く言った。


「わたし、忘れてばかりだけど、それは分かります」


 澄香は何も言えなかった。


「お母さん、わたしを守ってくれてます」


「リセ」


「それは分かります。だから怒れないんです。でも」


 リセの声が震えた。


「守られてるのに、どうしてこんなに寂しいんだろう」


 その言葉は、澄香の胸をまっすぐ貫いたようだった。


 彼女は一歩、リセへ近づこうとして、止まった。


 抱きしめたいのに、どう触れればいいのか分からない。

 そんなふうに見えた。


「ごめんなさい」


 澄香が言った。


「ごめんなさい、リセ」


「謝らないでください」


 リセは困ったように笑った。


「謝られると、何を許せばいいのか分からなくなります」


 その笑顔が痛かった。


 リセは本当に、澄香を責めていないのだ。


 責め方を知らないのかもしれない。

 あるいは、責めることすら忘れかけているのかもしれない。


 ナツメが拳を握りしめていた。


「リセ」


 彼女は声を震わせながら言った。


「海、行こうよ」


 澄香がナツメを見る。


 ナツメは怯まなかった。


「今すぐじゃなくてもいい。でも、一回くらい行こうよ。私も行く。透さんも行く。澄香さんも一緒に」


「ナツメさん」


「リセ、ずっと言ってたんです。小さい頃から。海に行きたいって。貝殻拾いたいって。波に足をつけたいって」


 ナツメの目に涙が浮かんでいた。


「私、何もできなかった。幼なじみなのに。リセが笑うから、大丈夫だって思ってた」


「ナツメちゃん」


「大丈夫じゃなかったのに」


 ナツメは泣きそうな顔で笑った。


「ごめん、リセ」


「ナツメちゃんまで謝るんですか」


 リセは困ったように眉を下げた。


「今日は謝罪の日ですか」


「そうだよ。謝罪セール中」


「じゃあ、アイスも安くなりますか?」


「それは別」


「けち」


 二人のやりとりは、いつもの軽さを少しだけ取り戻していた。


 だが澄香は笑えなかった。


 彼女は海を見下ろしていた。


 青い海。


 汐里が消えた場所。

 リセが行きたがる場所。

 澄香にとって、恐怖そのものの場所。


「……考えさせてください」


 長い沈黙のあと、澄香は言った。


「今は、それしか言えません」


 リセはうなずいた。


「はい」


 それだけだった。


 行きたいと叫ぶわけでもない。

 連れていってと泣くわけでもない。


 ただ、少しだけ安心したように笑った。


「ありがとうございます、お母さん」


 澄香はその笑顔を見て、また苦しそうな顔をした。


 俺たちは神社を出た。


 石段を下りる途中、ナツメは何度も目元を拭っていた。


「泣いてるのか」


「汗」


「目から汗が出る体質か」


「うるさい」


 ナツメは鼻をすすった。


「リセ、昔はもっと怒ったんだよ」


「そうなのか」


「うん。わがままだった。私のアイス半分取ったし、かくれんぼで負けたらルール変えるし、海に行けないって言われたら神社の裏でふて寝してた」


「それはそれで面倒だな」


「面倒だったよ」


 ナツメは笑った。


 泣きながら。


「でも、ちゃんと生きてるって感じがした」


 ちゃんと生きてる。


 その言葉が胸に残った。


 今のリセも生きている。

 笑っている。

 話している。


 でも、自分の怒りやわがままを少しずつ忘れている。


 人は、記憶だけでできているわけではない。

 けれど、怒りや願いやわがままもまた、その人の輪郭なのだ。


 それを失っていくことは、やはり消えていくことに近いのかもしれない。


 祖母の家に戻ると、俺はすぐにノートを開いた。


 空白の行に、ようやく名前を書く。


 天宮汐里。


 書いた瞬間、名前がそこに留まった気がした。


 少なくとも、俺のノートの中には。


 俺は続けて書いた。


 ――守りたいという気持ちは、ときどき檻になる。


 ペン先が紙の上を走る。


 ――檻の中にいる人間は傷つかないかもしれない。けれど、外へ向かう足を忘れてしまう。


 澄香のことを書く。


 汐里のことを書く。


 リセの言葉を書く。


 守られてるのに、どうしてこんなに寂しいんだろう。


 その一文を書いた時、胸の奥が痛んだ。


 これは俺の言葉じゃない。

 リセの言葉だ。


 でも、俺はそれを忘れないために書いている。


 誰かの言葉を、自分の都合のいいように飾るんじゃない。

 その痛みの形を、できるだけ壊さないように受け取る。


 物語を書くということが、もしそういうことなら。


 俺は初めて、少しだけ書くことの意味に触れた気がした。


 夜になって、電話が鳴った。


 祖母の家の古い固定電話。


 一瞬、また澄香かと思った。


 受話器を取る。


「はい」


『相良さん』


 澄香の声だった。


 昨日よりもずっと疲れている。


「どうしました」


『今日のことですが』


「すみません。踏み込みすぎたとは思っています」


『いいえ』


 澄香は静かに言った。


『あの子が、自分の願いを口にしたのは久しぶりでした』


 俺は黙って聞いた。


『リセを海に連れていくことは、まだ怖いです』


「はい」


『でも、このまま閉じ込めておくことも、もうできないのかもしれません』


 電話の向こうで、微かに波の音が聞こえた気がした。


『明日の夕方、潮見神社へ来てください』


「リセのことで?」


『姉の遺したものを見せます』


 汐里の遺したもの。


 俺は息を呑んだ。


『それを見た上で、あなたがまだリセに関わるつもりなら』


 澄香はそこで一度言葉を切った。


『その時は、お願いがあります』


「お願い?」


『リセが忘れていくものを、覚えていてください』


 俺はすぐに答えられなかった。


 それは重い言葉だった。


 慰めでも、協力でもない。


 誰かの消えていく輪郭を、代わりに持つということ。


 それがどれほどのことなのか、俺にはまだ分からない。


 けれど、逃げる気にはなれなかった。


「分かりました」


 俺は言った。


「覚えます」


『簡単に言わないでください』


 澄香の声が少しだけ厳しくなる。


『人を覚えるというのは、その人が失われていくことから目を逸らさないということです』


「……はい」


『それでも、お願いします』


 電話は切れた。


 俺はしばらく受話器を持ったまま立っていた。


 外では風鈴が鳴っている。


 窓の向こうに、夜の真白町が沈んでいた。


 机に戻り、ノートを開く。


 天宮リセ。

 天宮汐里。


 二つの名前が並んでいる。


 俺はその下に、新しい一文を書いた。


 ――忘れられることが消えることなら、覚えていることは、誰かをこの世界につなぎとめる祈りなのかもしれない。


 書き終えたあと、俺はペンを置いた。


 海の方から、かすかに鈴の音が聞こえた。


 からん。


 夏の終わりが、また少し近づいていた。


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