第三章 町の願い
八月三十一日。
潮返しの儀。
天宮の娘、願いを受ける。
薄い和紙に書かれたその文字は、朝の光の中でも妙に古びて見えた。
誰が置いたのかは分からない。
風で飛んできたにしては、玄関の前にきちんと落ちすぎていた。
誰かが意図的に置いていったと考える方が自然だった。
自然ではあるが、気味は悪い。
俺は和紙を机の上に置き、しばらく眺めていた。
潮返し。
死者の声が海から返ってくるという、真白町の伝承。
ただし、その代わりに天宮家の娘が何かを忘れる。
昨日、ナツメは言った。
町の人に聞けばいい。
みんな美談として話してくれるよ、と。
俺はその言葉を思い出していた。
美談。
奇跡。
救い。
そういう綺麗な言葉は、たいてい誰かの痛みを覆い隠すために使われる。
それは俺のひねくれた考えなのかもしれない。
だが、天宮リセの笑顔を見たあとでは、どうしてもそう思えた。
海を見たいと言えなくなった少女。
その少女が、町の願いを受ける。
どう考えても、綺麗な話だけでは済まない。
俺は朝食もそこそこに家を出た。
真白町の朝は、昨日よりも少しだけ騒がしかった。
夏祭りが近いせいだろう。
商店街には提灯の紐が張られ、数人の大人たちが脚立を立てて飾りつけをしていた。
閉まったシャッターの前にも、赤と白の提灯だけは吊るされている。
人のいない店先に祭りの色がついているのは、どこか寂しい。
橘商店の前を通ると、ナツメが店先でラムネの瓶を並べていた。
「おはよう」
声をかけると、ナツメは顔を上げた。
「ああ、透さん。朝から顔が暗いね」
「生まれつきだ」
「かわいそう」
「雑に憐れむな」
「じゃあ丁寧に憐れもうか?」
「いらない」
ナツメは笑いながら、ラムネの瓶を木箱に戻した。
俺はポケットから、あの和紙を取り出した。
「これ、玄関に落ちてた」
ナツメに見せる。
彼女はそれを受け取ると、表情を変えた。
「……潮返しの案内だね」
「案内?」
「町内の古い家には配られる。最近はやらなくなってたと思ったけど」
「誰が配ってるんだ」
「神社の関係者か、町内会の誰か。私は詳しくない」
ナツメは和紙を返してきた。
その指先が少しだけ強ばっていた。
「八月三十一日に何がある」
「書いてある通り。潮返しの儀」
「本当に死者の声が聞こえるのか」
「知らない」
「ナツメ」
「私は知らない」
強い言い方だった。
ナツメは俺から目を逸らし、店の奥に視線を向けた。
そこには彼女の祖母がいるはずだった。
「ばあちゃんに聞けばいいよ」
「君の口からは言えないのか」
「言いたくない」
それだけ言うと、ナツメは店の奥へ入っていった。
代わりに、奥から祖母がゆっくりと出てきた。
「あら、透くん。朝からどうしたね」
「少し、聞きたいことがあって」
「潮返しのことやろ」
こちらが言う前に、老婆はそう言った。
俺は少し驚いた。
「分かるんですか」
「この時期に若い人がそんな顔して来たら、だいたいその話たい」
老婆は店先の椅子に腰を下ろした。
「座り」
俺は木箱をひっくり返したような簡単な椅子に腰を下ろした。
店先には、ラムネの瓶が朝日を受けて光っている。
蝉の声が遠く近く重なっていた。
「潮返しっていうのはね」
老婆はゆっくり話し始めた。
「昔からこの町にある、お盆の終わりの祈りみたいなもんよ」
「お盆の終わり?」
「亡くなった人は、夏に帰ってくるって言うやろ。けど、帰ってきても声は聞こえん。姿も見えん。だから、人は言えんかった言葉をずっと抱えたまま生きる」
老婆はラムネの瓶を一本手に取り、布巾で拭いた。
「ありがとう。ごめん。待っとって。帰ってきて。そういう言葉ば、胸の中に残したまま」
「その声が、海から返ってくるんですか」
「そう言われとる」
「実際に聞いたんですか」
老婆の手が止まった。
しばらくして、彼女は小さくうなずいた。
「聞いたよ」
その声は、思っていたよりも静かだった。
「じいさんの声やった」
ナツメの祖父。
昨日、ナツメが言っていた。
祖母は潮返しで、祖父に最後にありがとうと言えたのだと。
「じいさんは漁師でね。海で死んだとよ。嵐の日やった。止めたのに船を出して、そのまま帰ってこんかった」
老婆は遠くを見るように目を細めた。
「私はずっと怒っとった。どうして行ったんか。どうして私とナツメを置いていったんか。最後に喧嘩したままやったけん、謝ることもできんかった」
風が吹いた。
店先の暖簾が揺れる。
「潮返しの夜、神社の鈴が鳴ってね。海の方から、じいさんの声がした」
「何て」
「すまん、って」
老婆は笑った。
泣き笑いのような顔だった。
「それだけやった。でも、それだけでよかった」
俺は何も言えなかった。
綺麗事だと切り捨てるには、その声はあまりに重かった。
たった一言が、人を救うことはある。
それはたぶん、本当なのだ。
「それで、救われたんですね」
「救われたよ」
老婆は迷わず言った。
「ずっと胸につかえとったものが、すうっと軽くなった。じいさんを恨まずに済んだ。ナツメにも、じいちゃんはあんたを置いていったんじゃないって言えるようになった」
それは、たしかに奇跡だったのかもしれない。
残された人にとっては。
「その時、天宮家の人はどうなったんですか」
俺が聞くと、老婆の表情が少し曇った。
「……倒れた」
「澄香さんのお姉さんですか」
老婆は目を伏せた。
「名前は?」
俺は聞いた。
ナツメは忘れたと言っていた。
町の人は、助けてもらった人の名前ほどすぐ忘れる、と。
老婆は答えなかった。
沈黙が長く続いた。
やがて、彼女は小さな声で言った。
「……思い出せん」
俺の背筋に、冷たいものが走った。
「思い出せない?」
「顔は覚えとる。優しい子やった。澄香さんより少し年上で、よう神社におった。けど、名前が……どうしても出てこん」
老婆は自分の額に手を当てた。
「情けないねえ。あの子のおかげで、私はじいさんに謝れたのに」
「それも、潮返しの影響なんですか」
「分からん」
「でも、天宮家の娘が忘れるだけじゃないんですか」
「昔はそう言われとった」
「昔は?」
老婆は口をつぐんだ。
それ以上は言いたくないようだった。
店の奥で、何かが落ちる音がした。
振り返ると、ナツメが立っていた。
彼女は俺と祖母を見て、苦い顔をした。
「ばあちゃん、休んでていいよ」
「まだ話の途中たい」
「いいから」
ナツメの声は少し強かった。
老婆はしばらく孫を見つめ、それから小さく息を吐いた。
「透くん」
「はい」
「潮返しは、救いやった。それだけは本当よ」
老婆はそう言ったあと、店の奥へ戻っていった。
ナツメは黙ったまま、ラムネの瓶を木箱に詰め始めた。
「聞いて悪かった」
俺が言うと、ナツメは首を横に振った。
「透さんが悪いわけじゃない」
「でも、嫌な話だったんだろ」
「嫌というか、面倒」
「面倒?」
「誰かにとって救いだったものを、悪いものみたいに言うのって、けっこうしんどいんだよ」
ナツメは瓶を一本ずつ並べる。
青いガラスの中で、ビー玉がかすかに鳴った。
「ばあちゃんは本当に救われた。じいちゃんの声を聞いて、前に進めた。それは嘘じゃない」
「ああ」
「でも、その裏で誰かが倒れた。誰かが何かを失った。それも嘘じゃない」
ナツメは俺を見た。
「どっちも本当だから、困るんだよ」
俺は返事ができなかった。
どちらかが完全に間違っていれば、話は簡単だった。
町の人たちがただ醜く、天宮家がただ犠牲者なら。
あるいは、潮返しがただの美しい奇跡なら。
でも、そうではない。
救われた人は本当にいた。
そのために削られた人も本当にいた。
正しさと残酷さが、同じ場所に並んでいる。
それが、この町の伝承だった。
「他にも聞きたいなら、港の方へ行ってみれば」
ナツメが言った。
「漁協の近くに、白石さんっておじさんがいる。息子さんを海で亡くしてる」
「その人も潮返しを?」
「たぶんね」
「たぶん?」
「私、本人から聞いたわけじゃないから」
ナツメはラムネの木箱を持ち上げた。
「透さん」
「なんだ」
「聞くなら、ちゃんと聞いて。面白半分じゃなく」
「分かってる」
「あと、リセの前で全部話さないで」
「どうして」
「忘れてることを思い出すのって、幸せとは限らないから」
ナツメはそう言って、店の奥へ消えた。
港は、商店街から坂を下った先にあった。
真白町の港は小さい。
防波堤に囲まれた内側に、数隻の漁船が停泊している。
網の匂い、潮の匂い、油の匂い。
海鳥の鳴き声が、空の高いところから落ちてくる。
港の端に、古い漁協の建物があった。
その横で、日に焼けた男が網を直していた。
五十代くらいだろうか。
がっしりした体つきで、短く刈った髪に白いものが混じっている。
「白石さんですか」
声をかけると、男は手を止めずにこちらを見た。
「そうやけど」
「相良透です。祖母がこの町に住んでいました」
「ああ、相良さんとこの孫か」
やはり町は狭い。
白石は俺の顔を少し見て、それからまた網に視線を戻した。
「何の用ね」
「潮返しのことを聞きたくて」
白石の手が止まった。
周囲の音が急に遠くなったような気がした。
「誰に聞いた」
「橘商店で」
「ナツメか」
「はい」
白石はしばらく黙っていた。
それから、網を置き、防波堤の方を指差した。
「歩くか」
俺はうなずいた。
白石と並んで、防波堤の上を歩く。
海は近かった。
足元で波が白く砕けている。
潮風が強く、シャツが肌に貼りついた。
「息子がおった」
白石が口を開いた。
「名前は海斗。海の斗で、かいと。馬鹿みたいに海が好きな子やった」
「亡くなったんですか」
「ああ」
白石は淡々と言った。
「中学二年の夏や。友達と防波堤で遊んどって、波にさらわれた」
俺は言葉を失った。
白石は海を見ていた。
「俺はその日、仕事で港におった。近くにおったのに、助けられんかった」
波の音がした。
「潮返しで、声を聞いたんですか」
「聞いた」
「何て」
「父ちゃんのせいじゃない、って」
白石は短く笑った。
笑いというより、息が漏れただけのようだった。
「俺がずっと欲しかった言葉やった」
「それで救われた」
「ああ。救われた」
また同じ言葉だった。
救われた。
その言葉は、さっきよりもさらに重く感じた。
「でも、誰かが代わりに忘れた」
俺が言うと、白石は俺を見た。
その目は怒っているようでもあり、悲しんでいるようでもあった。
「分かっとる」
「分かっていて、それでも願ったんですか」
言った瞬間、自分の言葉があまりに乱暴だったことに気づいた。
だが、白石は怒鳴らなかった。
ただ、海を見た。
「願った」
低い声だった。
「俺は願った。息子の声が聞きたかった。どんな代償があると言われても、たぶん願った」
俺は黙っていた。
「最低やと思うか」
「……分かりません」
「正直やな」
「責めたいわけじゃないんです」
「責めていい」
白石はそう言った。
「俺は今でも、あの夜のことを思い出す。神社の鈴が鳴って、海の方から海斗の声がした。父ちゃんのせいじゃないって。俺はその場で泣いた。生きてていいんやって思った」
白石の手が、防波堤のコンクリートを強く握った。
「けど次の日、天宮の娘が倒れたと聞いた」
「リセですか」
「いや。リセちゃんやない。先代の……」
白石の言葉が止まった。
眉間に深い皺が刻まれる。
「先代の?」
「……名前が出てこん」
まただった。
橘の祖母も、ナツメも、白石も。
天宮家の誰かに助けられたのに、その名前を思い出せない。
「顔は覚えてるんですか」
「覚えとる。白い着物を着とった。まだ若かった。澄香さんが泣いとったのも覚えとる。けど、名前だけが穴みたいに抜けとる」
白石は苛立つように頭をかいた。
「変やろ」
「……はい」
「この町は、そういう町たい」
「どういう意味ですか」
「忘れたいことは忘れん。忘れちゃいかんことほど、忘れる」
白石は海に背を向けた。
「リセちゃんに関わるなら、覚悟しとけ」
「またそれですか」
「みんな同じこと言うやろ」
「はい」
「なら、そういうことたい」
白石は歩き出した。
その背中に向かって、俺は聞いた。
「リセは、どうなるんですか」
白石は足を止めなかった。
ただ、低い声で答えた。
「潮返しが行われれば、何かを忘れる」
「何を」
「願いの重さによる」
「重ければ?」
「大事なものから持っていかれる」
その言葉だけを残して、白石は港の方へ戻っていった。
大事なものから持っていかれる。
リセは言っていた。
記憶力がいい人は尊敬します、と。
相良さんが、わたしの名前を忘れなければ、と。
それは、ただの冗談ではなかった。
リセは知っているのだ。
自分がいつか、大事なものを忘れることを。
それでも笑っている。
それでもアイスを食べ、神様を名乗り、夏は短命だから尊いのだと言う。
俺は港を離れ、町の中を歩いた。
真白町は、昼の光の中で静かに沈んでいた。
古い家々。
狭い路地。
軒先に吊るされた風鈴。
誰かの庭で干されている洗濯物。
なんでもない町だった。
けれど、そのなんでもない日常の下に、たくさんの後悔が沈んでいる。
亡くした夫に謝りたかった老婆。
死んだ息子に許されたかった父親。
言えなかった言葉を抱えた人たち。
そして、その言葉を海から返すために、誰かが忘れてきた。
俺は神社へ向かった。
リセに会うつもりはなかった。
ただ、潮見神社をもう一度見ておきたかった。
石段を上る。
昼の石段は、夕方よりも暑かった。
陽射しが石に反射して、足元から熱が上がってくる。
ようやく境内に着くと、思いがけず人の声がした。
拝殿の前に、数人の町の人が集まっていた。
中年の女性。
老人。
作業着姿の男。
そして、澄香。
リセの姿はない。
俺は鳥居の陰に立ち止まった。
「今年は、どうしてもお願いしたいんです」
中年の女性が言っていた。
「兄が、あんな形で亡くなって……最後に何を思っていたのか、それだけでも知りたいんです」
「お気持ちは分かります」
澄香の声は静かだった。
「ですが、潮返しはもう行いません」
「どうしてですか」
老人が言った。
「天宮家はずっと、この町のために祈ってくださったでしょう」
「それを終わらせたいんです」
「終わらせる?」
作業着の男が、困惑したように眉をひそめた。
「澄香さん、あんたの気持ちも分かる。でも、今年は特別や。台風で何人も亡くなった。残された家族は、みんな苦しんどる」
「だからといって、娘に背負わせることはできません」
「リセちゃんは天宮の娘やろ」
その言葉が、境内の空気を冷たくした。
澄香の顔から、わずかに血の気が引く。
「娘は、町の道具ではありません」
「誰もそんなこと言っとらん」
「同じことです」
澄香の声が低くなる。
「あなた方は、いつもそうです。感謝していると言いながら、また差し出せと言う。救われたと言いながら、そのために誰が壊れていくのか見ようともしない」
「澄香さん」
「姉の名前を、覚えていますか」
その一言で、誰もが黙った。
俺は息を呑んだ。
澄香は町の人たちを見回した。
「姉の名前を言えますか」
誰も答えない。
中年の女性はうつむき、老人は口を半開きにしたまま固まっていた。
作業着の男は、苦しそうに眉を寄せている。
澄香は笑わなかった。
怒鳴りもしなかった。
ただ、静かに言った。
「誰も覚えていない」
その声は、痛みそのものだった。
「姉は、あなた方の願いを受けました。何度も、何度も。町のために祈り、誰かの後悔を海から返した。そのたびに、少しずつ自分を失っていった」
澄香の手が、かすかに震えていた。
「最後には、自分の名前すら思い出せなくなった」
境内に風が吹く。
紙垂が鳴る。
「それでもあなた方は、姉を美しい人だったと言う。優しい人だったと言う。感謝していると言う」
澄香は町の人たちを見つめた。
「なのに、その名前を誰も覚えていない」
誰も何も言えなかった。
俺も同じだった。
潮返しの代償。
それは、天宮家の娘自身が記憶を失うだけではないのかもしれない。
彼女たちは、町の人々の後悔を受け取る。
そのかわりに、自分自身を削られる。
そして最後には、町の記憶からも消えていく。
救った相手にさえ、名前を忘れられて。
「帰ってください」
澄香は言った。
「今年の潮返しは行いません」
「でも、リセちゃんが望んだら」
「望ませません」
鋭い声だった。
「あの子には、何も背負わせない」
その時だった。
「お母さん」
拝殿の奥から、リセが出てきた。
白い服。
少し青ざめた顔。
けれど、いつものように笑おうとしている。
町の人たちが一斉に彼女を見た。
その視線に、俺はぞっとした。
期待。
申し訳なさ。
祈り。
救いを求める弱さ。
いくつもの感情が、リセの小さな身体へ向けられていた。
リセはその全部を受け止めるように、静かに立っていた。
「リセ、部屋に戻りなさい」
澄香が言う。
「でも、お客さんが」
「戻りなさい」
「……はい」
リセはうなずいた。
だが、戻る前に町の人たちへ向かって頭を下げた。
「すみません」
なぜ謝るのか。
リセは何も悪くない。
誰よりも謝られるべき側なのに。
「今年のことは、まだ分かりません。でも、みなさんが大切な人を想っていることは、ちゃんと分かっています」
「リセ」
澄香の声が震えた。
リセは母を見て、困ったように笑った。
「大丈夫。分かってるだけだから」
それから、視線を少しだけ動かした。
俺と目が合った。
見つかった。
リセは一瞬だけ驚いた顔をした。
そして、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔が、どうしようもなく痛かった。
町の人たちは、やがて帰っていった。
誰も強くは言い返さなかった。
だが、納得したようにも見えなかった。
願いは消えない。
後悔は消えない。
それは海に沈み、夏の終わりを待つ。
境内に残ったのは、澄香とリセ、そして鳥居の陰にいる俺だけだった。
「相良さん」
澄香がこちらを見た。
隠れていたことは、最初から気づかれていたらしい。
「盗み聞きのつもりは」
「聞いていたのでしょう」
「はい」
否定しても無駄だった。
澄香は俺に近づいてきた。
リセは不安そうにその様子を見ている。
「これで分かったはずです」
澄香は言った。
「あの子に関わらないでください」
「どうして俺なんですか」
「あなたは、あの子に海の話をした」
「それだけです」
「それだけで十分です」
澄香の声には、怒りよりも恐怖があった。
「あの子は、願われることに弱いんです。誰かに求められると、自分を差し出そうとする。昔からそうでした」
「それは優しいからですか」
「違います」
澄香は即答した。
「そう育てられてしまったからです」
その言葉は、澄香自身を刺しているようだった。
「天宮の娘は、町の願いを聞く。人の痛みを受け止める。泣いている人を放っておかない。そうやって、あの子は自分の輪郭を失っていく」
「自分の輪郭」
「あの子は、自分が何を望んでいるのか分からなくなる。誰かの願いが、自分の願いのように思えてしまう」
澄香はリセを見た。
リセはうつむいている。
「だから、海に近づけないんですか」
俺が聞くと、澄香の表情が変わった。
明らかに踏み込まれたくない場所だった。
「……帰ってください」
「リセの願いは、海に行くことじゃないんですか」
「帰ってください」
「母親と一緒に」
リセが顔を上げた。
澄香は何も言わなかった。
ただ、その顔が一瞬で青ざめた。
「リセがそう言ったのか」
声がかすれていた。
「夢で見ると言っていました。誰かに手を引かれて、海へ行く夢を」
「やめて」
澄香の声が初めて揺れた。
「それ以上、言わないで」
「澄香さん」
「あの子は知らなくていい」
「何をですか」
「知らなくていいんです」
澄香はそれだけ言うと、リセの手を取った。
「戻るわよ」
リセは抵抗しなかった。
ただ、連れていかれる直前に俺を見た。
「相良さん」
「なんだ」
「今日、わたし……何をしてましたか?」
その質問の意味が、すぐには分からなかった。
「何って」
「朝から、何をしてたのか、少し分からなくて」
リセは笑った。
いつものように。
「変ですね。まだお昼なのに」
俺は言葉を失った。
澄香の手に力がこもる。
「リセ」
「あ、ごめんなさい。大丈夫です。たぶん寝ぼけてるだけです」
リセはそう言って、また笑った。
傷ついても、怖くても、忘れても、笑う。
ナツメの言葉が頭の中で響く。
俺はリセを見ていた。
彼女はまだ、そこにいる。
ちゃんと立っている。
笑っている。
言葉を返している。
けれど、その内側から、何かが少しずつ抜け落ちている。
夏の砂浜に書いた文字が、波にさらわれるみたいに。
澄香とリセが拝殿の奥へ消えたあと、境内には俺だけが残った。
さっきまで町の人たちが立っていた場所を見る。
誰かの願い。
誰かの後悔。
誰かの救い。
それらはきっと、本物なのだ。
橘の祖母も、白石も、嘘をついているわけではない。
彼らは本当に苦しみ、本当に救われた。
でも、その救いのために、天宮家の娘たちは忘れていった。
自分の記憶を。
名前を。
願いを。
そして、町の人々の記憶からさえ。
俺は拝殿の鈴を見上げた。
古びた綱。
少し錆びた鈴。
風もないのに、かすかに揺れているように見えた。
からん。
音がした。
今度は確かに聞こえた。
海の方から風が吹き上げる。
潮の匂いが濃くなる。
耳の奥で、誰かの声がした。
ありがとう。
ごめん。
帰りたい。
待っていて。
たくさんの声が、波のように重なって押し寄せる。
俺は思わず耳を塞いだ。
それでも声は消えなかった。
願い。
後悔。
祈り。
町の底に沈んでいたものが、一斉にこちらを見ているような感覚。
その中心に、リセがいる。
天宮リセが、ひとりで立っている。
「ふざけるな」
自分でも驚くほど低い声が出た。
何に向けた言葉なのか分からなかった。
町か。
伝承か。
神様か。
それとも、何も知らずにここまで来た自分自身か。
俺は石段を下りた。
足元が少しふらついた。
商店街まで戻る頃には、日は傾き始めていた。
橘商店の前にナツメはいなかった。
店の奥から、祖母の声とラジオの音だけが聞こえる。
俺はそのまま祖母の家へ戻った。
机の上には、開きっぱなしのノートがある。
昨日書いた一文。
――この町には、海を見たいと言えなくなった少女がいる。
俺は椅子に座った。
ペンを持つ。
手が少し震えていた。
町の人たちの話を思い出す。
橘の祖母の、救われたという声。
白石の、願ったという声。
澄香の、姉の名前を言えますかという声。
リセの、今日わたし何をしてましたかという声。
どれも頭から離れない。
書かなければ、と思った。
書いたところで何かが変わるわけではない。
リセの記憶が戻るわけでも、潮返しがなくなるわけでもない。
それでも、書かなければいけない気がした。
忘れてしまわないように。
俺まで、彼女たちの名前を忘れてしまわないように。
俺はノートに書いた。
――町の人々は、奇跡を美しいものとして語る。
続けて書く。
――けれど奇跡には、いつも代金を払わされる人間がいる。
そこまで書いて、ペン先が止まった。
代金。
犠牲。
そんな言葉で片づけるには、リセはあまりにも普通の少女だった。
アイスを食べて笑う。
神様のふりをする。
海を見たいと言えない。
自分の朝を忘れてしまう。
俺は一度線を引き、書き直した。
――この町の奇跡は、ひとりの少女の「忘れること」でできている。
それでもまだ足りない。
町の人たちを責めるだけなら簡単だ。
だが、彼らの痛みもまた本物だった。
俺はさらに書いた。
――誰かの痛みは本物だ。けれど、その痛みを別の誰かに背負わせていい理由にはならない。
その一文を書いた瞬間、胸の奥で何かがかすかに動いた。
これは、誰かの真似だろうか。
どこかで見た話だろうか。
分からない。
でも少なくとも、この言葉は今、俺の中から出てきたものだった。
上手いかどうかは知らない。
綺麗かどうかも分からない。
ただ、俺がリセを見て、澄香を見て、町の人たちの声を聞いて、どうしても書かずにいられなかった言葉だった。
それだけで、少しだけ呼吸が楽になった気がした。
夜。
窓の外で風鈴が鳴っていた。
俺はノートを閉じ、布団に横になった。
眠れないまま天井を見つめる。
潮返しの儀は、八月三十一日。
夏の終わりまで、あと何日あるのだろう。
リセはそれまでに、どれだけ忘れるのだろう。
そして俺は、その隣で何ができるのだろう。
答えは出なかった。
ただ、ひとつだけ決めた。
忘れない。
リセの名前を。
澄香の怒りを。
ナツメの悔しさを。
町の人たちの弱さを。
そして、名前を忘れられた天宮の娘のことを。
俺だけでも、忘れない。
そう思った時、ふいに窓の外から声が聞こえた気がした。
遠く、海の方から。
ありがとう。
ごめん。
帰りたい。
たくさんの声に混じって、ひとつだけ、かすかな少女の声があった。
――わたしの名前を、呼んで。
俺は飛び起きた。
窓の外を見る。
夜の町は静まり返っている。
海は暗く、姿も見えない。
ただ、波の音だけが続いていた。
俺は机に戻り、ノートを開いた。
そして、ページの端にこう書いた。
天宮リセ。
その下に、もう一つ空白を空ける。
澄香の姉の名前を書くための場所だった。
まだ、分からない。
誰も思い出せない。
でも、必ず見つける。
そう決めて、俺はペンを置いた。
真白町の夜は、潮の匂いに満ちていた。
夏は、まだ終わらない。
けれどその夜、俺は初めて思った。
この夏は、放っておけば必ず誰かを連れていく。
そしてその誰かはきっと、天宮リセなのだと。




