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第二章 海を知らない少女

 翌朝、真白町は白く霞んでいた。


 窓の外では、蝉が朝から遠慮なく鳴いている。

 古い家の柱は熱を含み、畳の匂いに潮の湿り気が混じっていた。


 俺は扇風機の前で、しばらく動けずにいた。


「……暑い」


 昨日も同じことを言った気がする。


 だが、暑いものは暑い。

 人間は本当に追い詰められると、語彙力から先に死ぬらしい。


 祖母の家にはエアコンがあるにはあった。

 ただ、リモコンの液晶がほとんど消えていて、押しても反応が鈍い。

 何度か試した結果、冷房ではなく謎の送風が始まったので諦めた。


 朝食代わりに、昨日コンビニで買った菓子パンをかじる。


 味はしない。


 正確には、味を感じるほど腹が減っていなかった。


 机の上には、昨日見つけた古いノートが開いたまま置かれている。


 ――夏は、空から落ちてくるものだと思っていた。


 そこから先は、何も書けていない。


 昨日は書ける気がした。

 リセに会って、潮見神社で鈴の音を聞いて、澄香という女から留守電が入って。


 何かが始まるような気がした。


 だが一晩経ってみると、それはただの気のせいだった。


 ペンを握っても、続きの言葉は出てこない。

 頭の中に浮かぶのは、どこかで読んだような文章ばかりだ。


 海。

 夏。

 少女。

 記憶。


 どれも綺麗な言葉なのに、俺が並べると途端に借り物になる。


 自分の中身が空っぽだからだ。


 そう結論づけるのは簡単だった。

 簡単すぎて、もう何度もやった。


 俺はノートを閉じ、立ち上がった。


 家にいても腐るだけだ。


 遺品整理は進めなければならない。

 だが、朝から祖母の残したものと向き合うには、少し気力が足りなかった。


 外に出ると、真白町の夏が全身にまとわりついてきた。


 坂道を下りる。

 商店街のシャッターは、昨日と同じように半分以上閉まっていた。


 ただ、一軒だけ開いている店があった。


 古い駄菓子屋だ。


 軒先には色あせたビニールの暖簾。

 店先の冷凍ケースには、アイスの旗が立っている。

 ガラス戸の向こうには、ラムネ、酢だこ、くじ引き、見覚えのないキャラクターのシール。


 子供の頃、こういう店にだけ世界の全部が詰まっていると思っていた。


「お兄さん、買うの? 通報されるの?」


 突然、横から声がした。


 振り向くと、店の奥から少女がこちらを見ていた。


 短めの髪を後ろで結び、Tシャツに短パン。

 年は高校生くらい。

 目つきは少し鋭いが、悪意はなさそうだった。


「駄菓子屋の前に立ってるだけで通報される町なのか、ここは」


「知らない大人がじっと店内を見てたら、まあまあ怪しいでしょ」


「否定はできないな」


「で、買うの?」


「じゃあ、アイスを」


 俺がそう言うと、少女は冷凍ケースを指差した。


「そこ。勝手に取って。お金はあと」


「客への信頼がすごいな」


「盗むほど高いアイス置いてないし」


 俺は冷凍ケースを開けた。


 白い冷気がふわりと上がる。

 いくつか迷って、棒つきのバニラアイスを選んだ。


 昨日、リセが食べていたものと同じだった。


「それ、リセがよく買うやつ」


 少女が言った。


 俺は少しだけ手を止めた。


「リセを知ってるのか」


「真白町で天宮リセを知らない人はいないよ」


「有名人なのか」


「有名っていうか……まあ、神社の子だし」


 少女は一瞬だけ言葉を濁した。


 その反応が、昨日のリセと少し似ていた。


「俺は相良透。祖母の家の片づけで来てる」


「ああ、相良のおばあちゃんの」


「知ってるのか」


「町狭いからね。亡くなったの、聞いてる。ご愁傷さま」


 少女はそう言って、少しだけ頭を下げた。


 さっきまでの軽い調子とは違う、ちゃんとした言い方だった。


「ありがとう」


「私は橘ナツメ。この店の孫。店番という名の労働力搾取を受けている十八歳」


「それは大変だな」


「大変だよ。時給ゼロ。ブラックどころか暗黒物質」


「祖母の店?」


「うん。ばあちゃんの店。まあ、ほとんど趣味で開けてるようなものだけど」


 ナツメは店の中を見回した。


 棚には駄菓子が並んでいる。

 だが客はいない。

 外を通る人も少ない。


「昔はもっと子供いたんだけどね。今はみんな町を出た。残ってるのは、老人と猫と、出るタイミングを逃した人間だけ」


「君も?」


「私はまだ逃げる予定。来年には出る。たぶん」


「たぶんか」


「店がね」


 ナツメは少し笑った。


「ばあちゃん一人じゃ無理だから。手伝ってるうちに、ずるずる」


 その笑い方は明るかった。

 けれど、あまり楽しそうではなかった。


 俺はアイスの代金を払った。


 ナツメは小銭を受け取りながら、俺の顔をじっと見た。


「で、リセに会ったんだ?」


「ああ。昨日、神社で」


「変だったでしょ」


「かなり」


「神様とか言った?」


「言った」


「あー、いつものやつだ」


 ナツメは呆れたように笑った。


「リセは昔からああ。変なこと言って、変なところで笑う。蝉の抜け殻集めて『夏の脱ぎ捨てた服』とか言うし」


「それは昨日聞いてなくても言いそうだと思った」


「でしょ」


 ナツメは冷凍ケースに肘をついた。


「でも、いい子だよ。変だけど」


「海に行ったことがないって言ってた」


 俺がそう言うと、ナツメの表情が少し変わった。


 ほんのわずかに、目が泳ぐ。


「……本人が言ったの?」


「ああ」


「そっか」


「本当なのか?」


「うん」


 ナツメは短く答えた。


「この町に住んでて?」


「そう。この町に住んでて」


「親が止めてるのか」


 ナツメは答えなかった。


 店の奥から、古い時計の音が聞こえる。

 かち、かち、とやけに大きく。


 やがてナツメは、ため息をついた。


「相良さんさ」


「透でいい」


「じゃあ透さん。リセのこと、あんまり深入りしない方がいいよ」


「昨日も似たようなことを言われた」


「誰に?」


「天宮澄香」


 ナツメは露骨に顔をしかめた。


「留守電が入ってた。あの子に余計なことを教えるなって」


「……澄香さんらしい」


「どういう人なんだ」


「リセのお母さん」


「それは知ってる」


「それ以上は、私から言うことじゃない」


 ナツメはそう言って、店の外に目を向けた。


 坂道の向こうに、青い海が見えている。

 眩しいほど近い。


 けれどリセは、あの場所へ行ったことがない。


 それはやはり、異常だった。


「町の伝承と関係あるのか」


 俺が聞くと、ナツメは眉をひそめた。


「昨日来たばっかりなのに、もうそこまで聞いたの?」


「聞いたというか、祖母から昔なにか聞いた気がする。潮返し、だったか」


 その言葉を口にした瞬間、店の空気が少しだけ変わった。


 ナツメは周囲を確認するように視線を動かす。


 まるで、誰かに聞かれるのを恐れているみたいだった。


「その話、外ではあんまりしない方がいい」


「なぜ」


「信じてる人と、信じたくない人がいるから」


「君は?」


 ナツメは答えなかった。


 その沈黙が、答えのようなものだった。


 店の奥から、しわがれた声がした。


「ナツメ、誰か来とるんか」


「客ー」


 ナツメが振り返って答える。


 奥から小柄な老婆が顔を出した。

 白髪を後ろでまとめ、背中は少し曲がっている。

 だが目はやけにはっきりしていた。


「あら、相良さんとこの」


「こんにちは」


「透くんかね。大きくなったねえ」


「覚えてるんですか」


「当たり前たい。泣き虫で、よう神社の階段でべそかいとった」


 いきなり古傷を掘り起こされた。


 ナツメが横で笑いをこらえている。


「……昔の話です」


「昔の話ほど、町には残るもんよ」


 老婆はそう言って、俺の持っているアイスを見た。


「リセちゃんと同じの買うたんね」


「たまたまです」


「そうねえ。あの子は、昔からそればっかりやった」


「昔から?」


 俺が聞くと、老婆は懐かしそうに目を細めた。


「小さい頃は、ナツメとよう遊びよった。店の前でアイス食べて、神社まで競争して。負けてもリセちゃんは笑うとよ。『負けた方が夏を長く歩けるから得です』って」


「言いそうですね」


「言うでしょ、あいつ」


 ナツメが苦笑する。


 だがその顔は、どこか寂しそうだった。


「でも、最近はあんまり来んくなったね」


 老婆の声が少し沈んだ。


「身体が弱いけんね。澄香さんも心配しとる」


 身体が弱い。


 リセ自身もそう言っていた。

 夏になると熱を出しやすい、と。


 けれど、それだけで海に行けない理由になるのだろうか。


 駄菓子屋を出る頃、ナツメが小さな声で言った。


「今日、夕方なら神社にいると思う」


「リセが?」


「うん。たぶん。祭りの準備、少し手伝ってるから」


「深入りするなと言ったわりに教えるんだな」


「深入りしてほしくないのと、リセがひとりでいるのを見るのが嫌なのは、別」


 ナツメはそう言って、俺から目を逸らした。


「でも、海の話はしない方がいい」


「どうして」


「リセが、行きたがるから」


 それだけ言うと、ナツメは店の奥へ戻っていった。


 俺はアイスの袋を開け、坂道を歩きながら食べた。


 リセがよく買うというバニラアイスは、特別うまいわけではなかった。

 安っぽくて、甘くて、溶けるのが早い。


 けれど不思議と、夏の味がした。


 夕方、俺は再び潮見神社へ向かった。


 石段は相変わらず長い。

 昨日よりも身体は慣れているはずなのに、息はやっぱり切れた。


 境内に着くと、提灯の数が増えていた。


 拝殿の前には、祭りの準備らしい木箱や縄が置かれている。

 風に揺れる紙垂の音。

 遠くから聞こえる波の音。


 そして、楠の木の下にリセがいた。


 今日は白いワンピースではなく、薄い水色の服を着ていた。

 手には箒を持っている。

 だが、掃除をしているというより、箒に寄りかかって休んでいるように見えた。


「神様も掃除するのか」


 声をかけると、リセはこちらを向いた。


 ぱっと顔が明るくなる。


「あ、相良さん」


「覚えてたんだな」


「もちろんです」


「昨日、自分で不安になるようなこと言ってただろ」


「そうでしたっけ」


 リセは少し首をかしげた。


 冗談なのか、本気なのか分からない。


「アイス買ってきた」


 俺は駄菓子屋で買ったもう一本のアイスを差し出した。


 リセの目が輝いた。


「賄賂ですか?」


「何を買収するんだ」


「神様のご利益とか」


「安いな、神様」


「夏はアイス一本で世界が救えます」


 リセはそう言って、嬉しそうに受け取った。


 境内の縁側に並んで座る。


 夕暮れの光が、拝殿の床板を赤く染めている。

 リセはアイスの袋を丁寧に開け、ひと口食べた。


「冷たい」


「アイスだからな」


「相良さんは、すぐ正しいことを言いますね」


「間違ったことを言えばいいのか」


「たまには」


「じゃあ、アイスは熱い」


「それはだめです。アイスに失礼です」


「難しいな」


 リセは楽しそうに笑った。


 その笑顔を見ていると、昨日の留守電の声が嘘のように思えた。


 あの子に余計なことを教えないでください。


 余計なこと。


 海のことだろうか。

 町のことだろうか。

 それとも、外の世界のこと全部だろうか。


「今日は掃除か」


「はい。祭りの準備です」


「身体、弱いんじゃなかったのか」


「弱いですよ」


「なら休めばいい」


「休むのは得意です。でも、ずっと休んでると、休むことにも飽きます」


「分かるような、分からないような」


 リセはアイスを食べながら、境内を見渡した。


「夏祭り、来ますか?」


「分からない。遺品整理が終われば帰るつもりだし」


「そうですか」


 リセの声が少しだけ小さくなった。


「来てほしいのか」


「いえ。相良さんが来ても、焼きそばが一皿多く売れるだけです」


「経済効果か」


「町に貢献できます」


「なら前向きに検討する」


「やった」


 リセは小さく拳を握った。


 その仕草が妙に子供っぽくて、俺は少し笑った。


 ふと、リセの視線が海の方へ向いた。


 境内の端からは、昨日と同じように町と海が見える。

 夕暮れの海は、青というより銀色だった。


 リセは黙ってそれを見ていた。


 アイスが溶けて、指先に雫が垂れる。


「溶けてるぞ」


「あ」


 リセは慌ててアイスを口に運んだ。


「海、見てたのか」


 聞かない方がいいと、ナツメに言われていた。


 それでも、口から出てしまった。


 リセは少しだけ沈黙した。


「はい」


「行きたいのか」


 リセは答えなかった。


 ただ、海を見ている。


 風が吹く。

 髪が頬にかかる。


 やがてリセは、ぽつりと言った。


「夢で見るんです」


「海を?」


「はい。たぶん海です。広くて、明るくて、足元がきらきらしていて。誰かが手を引いてくれてます」


「誰か?」


「分かりません」


「母親じゃないのか」


 リセはゆっくり瞬きをした。


「そうかもしれません」


「覚えてないのか」


「夢なので」


 リセは笑った。


 だがその笑顔は、さっきまでのものとは違っていた。


「お母さんは、海が嫌いなんです」


「どうして」


「分かりません。聞くと、困った顔をするので」


「怒るんじゃなくて?」


「怒る時もあります。でも、怒ってるというより、泣きそうな顔をします」


 澄香の留守電の声を思い出す。


 冷たく、固く、感情を押し殺した声。


 だがその奥に、本当に何もなかったのか。

 俺には分からない。


「リセは、それでいいのか」


 リセはアイスの棒を見つめた。


 もう中身はほとんど残っていない。


「何がですか」


「海に行けないこと」


「いいとか、悪いとかじゃないです」


「じゃあ何だ」


「そういうもの、です」


 その言葉が、妙に引っかかった。


 そういうもの。


 諦めた人間がよく使う言葉だ。

 俺にも覚えがある。


 夢を諦める時。

 自分には才能がないと認める時。

 何かを失ったことに、これ以上傷つかないようにする時。


 人はよく、そういうものだと言う。


「行けばいいだろ」


 昨日と同じことを言った。


 リセは俺を見る。


「相良さんは、やっぱり簡単に言いますね」


「坂を下りるだけだ」


「でも、下りたら戻れないかもしれません」


「海から?」


「いろんなところから」


 リセはまた海を見た。


「わたし、たぶん怖いんです」


「何が」


「海を見ることが」


「見たいのに?」


「はい」


 リセは困ったように笑った。


「変ですよね」


「まあ、変だな」


「そこは優しく否定してください」


「嘘はよくない」


「相良さんは、すぐ正しいことを言います」


「二回目だな、それ」


「覚えてました?」


「さっき聞いたからな」


「すごいです」


「馬鹿にしてるだろ」


「してません。記憶力がいい人は尊敬します」


 リセはそう言って笑った。


 けれどその言葉は、笑い話のようには聞こえなかった。


 記憶力がいい人は尊敬します。


 昨日のリセの言葉がよみがえる。


 相良さんが、わたしの名前を忘れなければ。


 まるで、自分の方が忘れることを知っているみたいな言い方だった。


「リセ」


「はい」


「君は――」


 言いかけた時だった。


「リセ」


 境内の空気が固まった。


 拝殿の奥から、女性が出てきた。


 長い黒髪を後ろでまとめた、細身の女性。

 年齢は四十前後だろうか。

 白いブラウスに、薄い色のカーディガン。

 立ち姿は静かで、隙がない。


 その目が、俺を見た。


 冷たい、と思った。


 だが同時に、ひどく疲れた目でもあった。


「お母さん」


 リセが小さく言う。


 天宮澄香。


 留守電の声の主だった。


「部屋で休んでいなさいと言ったはずです」


「少しだけです。掃除を」


「掃除なら私がします」


「でも、祭りの準備が」


「あなたが倒れたら、準備どころではないでしょう」


 澄香の声は荒くない。

 静かだった。

 静かだからこそ、逆らいにくい。


 リセは何か言いたそうにしたが、結局うつむいた。


「……はい」


 そのやりとりを見ていると、胸の奥がざらついた。


 過保護。

 そう言えば簡単だった。


 だが、それだけではない気もした。


 澄香は俺の方へ向き直った。


「相良透さんですね」


「はい」


「昨日、お電話を差し上げました」


「聞きました」


「なら、私のお願いも分かっていただけたと思います」


 お願い、という言葉の形をした命令だった。


「余計なことを教えるな、でしたか」


 俺が言うと、リセが不安そうにこちらを見る。


 澄香の表情は変わらなかった。


「あの子は身体が弱いんです。外のことをあれこれ吹き込まれると困ります」


「海に行くことも、外のことですか」


 リセが息を呑んだ。


 澄香の目が、ほんの少しだけ鋭くなる。


「あなたには関係ありません」


「でしょうね」


「分かっているなら」


「でも、本人は行きたがっているように見えます」


 言った瞬間、自分でも踏み込みすぎたと思った。


 昨日会ったばかりの人間が、言っていいことではない。


 それでも、止まらなかった。


 リセが海を見ていた横顔。

 行きたいのに怖いと言った声。

 そういうものです、と諦めたように笑った顔。


 それらが、どうしても引っかかっていた。


「行きたい場所へ行くくらい、普通のことじゃないんですか」


 澄香は黙っていた。


 その沈黙は長かった。


 やがて彼女は、低い声で言った。


「普通では済まないこともあります」


「どういう意味ですか」


「あなたには関係ないことです」


「そればかりですね」


「ええ。関係ありませんから」


 澄香はリセの肩に手を置いた。


 強くはない。

 けれど、逃がさないような手だった。


「リセ、戻りなさい」


「でも」


「戻りなさい」


 リセは一瞬だけ俺を見た。


 助けを求める目ではなかった。

 謝るような目だった。


「相良さん」


「なんだ」


「アイス、ありがとうございました」


「ああ」


「短い命でしたけど、幸せでした」


「アイスが?」


「はい」


 リセは小さく笑った。


 そして澄香に連れられて、拝殿の奥へ消えていった。


 境内に、俺だけが残る。


 昨日と同じだった。


 蝉の声。

 潮の匂い。

 遠くの海。


 違うのは、胸の奥に残った違和感が、昨日よりも大きくなっていたことだ。


 俺は拝殿を見つめた。


 あの家の中に、リセはいる。

 海を見たいと言えないまま。

 そういうものだと笑いながら。


 俺は石段を下りた。


 途中で何度も海が見えた。


 近い。


 あまりにも近い。


 坂道を下りて、防波堤を越えればすぐそこだ。

 歩いて十分もかからない。


 それなのに、リセにとっては遠い。


 町の反対側よりも。

 都会よりも。

 たぶん、空の向こうよりも遠い。


 夕暮れの商店街まで戻ると、駄菓子屋の前にナツメが立っていた。


 俺を見るなり、彼女は眉をひそめた。


「会ったんだ」


「ああ」


「澄香さんにも?」


「ああ」


「海の話、したでしょ」


「した」


「馬鹿」


「否定はしない」


 ナツメは大きくため息をついた。


「透さん、思ったより面倒な人だね」


「よく言われる」


「でしょうね」


 ナツメは店先のベンチに座った。

 俺も少し離れて腰を下ろす。


 商店街には、夕方の影が伸びていた。

 どこかの家から夕飯の匂いがする。

 魚を焼く匂いだった。


「リセはさ」


 ナツメがぽつりと言った。


「昔は、海に行きたがってたんだよ」


「今もだろ」


「もっと、はっきり。毎日言ってた。海行きたい。波触りたい。貝殻拾いたいって」


「それで?」


「そのたびに澄香さんが止めた」


「なぜ」


「知らない」


「本当に?」


 ナツメは俺を睨んだ。


「知ってたら、どうにかしてる」


 その声には、苛立ちよりも悔しさがあった。


「私は幼なじみなのに、何もできなかった。リセはどんどん家から出なくなって、神社にいる時間も減って、会っても変なこと言って笑うだけになった」


「変なこと言うのは昔からじゃないのか」


「昔から。でも昔は、もっとわがままだった」


 ナツメは空を見上げた。


「海に行きたいって、ちゃんと言えてた」


 その言葉が、胸に残った。


 願いは消える。

 言葉にできないまま、少しずつ形を失う。


 それは記憶を失うのと、どれくらい違うのだろう。


「潮返しのことを知りたいなら」


 ナツメが言った。


「町の人に聞けばいい。みんな美談として話してくれるよ」


「美談?」


「亡くなった人の声が返ってきた。奇跡が起きた。救われた。ありがとう、天宮様って」


「君はそう思ってないのか」


 ナツメは答えなかった。


 代わりに、店の奥をちらりと見た。


 祖母がいるのだろう。


「私のじいちゃんも、潮返しで声が返ってきたらしい」


「らしい?」


「私は小さかったから覚えてない。でも、ばあちゃんは今でも言う。最後にありがとうって言えてよかったって」


「それは……救いだったんじゃないのか」


「そうだよ」


 ナツメはすぐに答えた。


「救いだった。ばあちゃんにとっては、本当に」


 その声は硬かった。


「でも、その時リセのおばさんが倒れた」


「リセのおばさん?」


「澄香さんのお姉さん。名前は……」


 ナツメはそこで言葉を切った。


 思い出そうとするように眉を寄せる。


「名前は?」


「……ごめん。忘れた」


 ナツメは困ったように笑った。


「変だよね。町の人はみんな、天宮家に世話になってるのに。助けてもらった人の名前ほど、すぐ忘れる」


 俺は何も言えなかった。


 夕方の風が吹いた。


 駄菓子屋の暖簾が揺れる。

 遠くで、潮見神社の鈴が鳴ったような気がした。


 からん。


 ナツメはその音に気づかなかったのか、あるいは気づかないふりをしたのか、立ち上がった。


「透さん」


「なんだ」


「リセに関わるなら、半端にしないで」


「……どういう意味だ」


「あの子は、すぐ笑うから」


 ナツメは店の中へ戻りながら言った。


「傷ついても、怖くても、忘れても、笑うから。だから周りは、まだ大丈夫だって思っちゃう」


 その言葉を残して、ナツメは店の奥へ消えた。


 俺はしばらく、商店街のベンチに座っていた。


 空は暮れかけている。

 海から吹く風が、昼間の熱を少しずつ奪っていく。


 リセは笑っていた。


 神様だと言って。

 アイスの命を悼んで。

 夏は短命だから尊いのだと。


 だが、その笑顔の下に何があるのか、俺はまだ何も知らない。


 祖母の家に戻ると、部屋は暗かった。


 電気をつける。

 机の上には、古いノートがある。


 俺は椅子に座り、ペンを取った。


 書ける気がしたわけではない。


 ただ、書かなければ忘れてしまうと思った。


 天宮リセ。

 海を知らない少女。

 海を見たいと言えなくなった少女。

 笑うことで、自分の痛みを薄めている少女。


 俺はノートを開き、昨日の続きに文字を書いた。


 ――この町には、海を知らない少女がいる。


 そこまで書いて、手が止まった。


 海沿いの町に住んでいるのに、海を知らない。


 それは設定としては分かりやすい。

 物語の導入としては、悪くない。


 でも、そうじゃない。


 俺が書きたいのは、そんな記号ではなかった。


 リセは設定じゃない。

 不思議な少女でも、病弱なヒロインでも、伝承を背負った装置でもない。


 アイスを食べる。

 変なことを言う。

 母親の前で小さくなる。

 海を見て、少しだけ泣きそうな顔をする。


 そういう、一人の人間だった。


 俺はペンを握り直した。


 ――この町には、海を見たいと言えなくなった少女がいる。


 今度は、少しだけしっくりきた。


 その夜、俺はまた夢を見た。


 夢の中で、潮見神社の鈴が鳴っている。


 からん。


 海の方から、声が聞こえる。


 誰かが誰かを呼んでいる。


 名前を呼んでいる。


 けれど、その名前だけが聞き取れない。


 波の音に混じって、何度も何度も呼ばれているのに、どうしても分からない。


 目を覚ますと、額に汗をかいていた。


 窓の外は暗い。


 遠くで海が鳴っている。


 俺は布団の上で身体を起こし、耳を澄ませた。


 風鈴の音。

 波の音。

 そして、ほんのかすかに、誰かの声。


 ――忘れないで。


 そう聞こえた気がした。


 翌朝、祖母の家の玄関先に、一枚の紙が落ちていた。


 薄い和紙だった。


 拾い上げると、そこには古い筆文字で、こう書かれていた。


『潮返しの儀 八月三十一日 潮見神社』


 その下に、小さく添えられた文字。


『天宮の娘、願いを受ける』


 俺はしばらく、その紙を見つめていた。


 八月三十一日。


 夏の終わり。


 その日、何かが起こる。


 そしてたぶん、それはリセに関係している。


 紙を握る手に、じっとりと汗がにじんだ。


 遠くで蝉が鳴いている。


 真白町の夏は、まだ始まったばかりだった。


 だが俺にはもう、その終わりの音が聞こえ始めていた。


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