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第一章 夏が落ちてくる

 夏は、空から落ちてくるものだと思っていた。


 照りつける陽射し。

 白くにじむ雲。

 アスファルトの上で揺れる逃げ水。

 耳の奥に貼りつくような蝉の声。


 けれど真白町の夏は、少し違っていた。


 この町の夏は、海の底から、ゆっくりと浮かび上がってくる。


 潮の匂いを連れて。

 濡れた風を連れて。

 忘れたはずの記憶を、足元からすくい上げるみたいに。


 無人駅のホームに降りた瞬間、俺はそのことを思い出した。


「……暑いな」


 誰に言うでもなくつぶやく。


 返事はない。


 あるのは、遠くで鳴る波の音と、レールの向こうに伸びる夏草だけだった。


 真白駅。


 錆びた駅名標には、そう書かれている。

 白いペンキはところどころ剥げていて、文字の縁には潮風に削られたような細かい傷があった。


 駅舎は小さい。

 自動改札なんてものはない。

 切符を入れる箱と、古いベンチと、色あせた観光ポスターが一枚。


 ポスターには、青い海と、丘の上の神社が写っていた。


 潮見神社。


 幼い頃、祖母に手を引かれて一度だけ行ったことがある。

 たしか、長い石段があって、途中で疲れて泣いた。

 祖母は笑って、俺をおぶってくれた。


 ……そんな記憶が、まだ残っていたことに少し驚く。


 俺は肩にかけたボストンバッグを持ち直し、駅舎を出た。


 真白町は、記憶の中よりも小さかった。


 駅前のロータリーにはタクシーが一台も停まっていない。

 商店街へ続く道には、シャッターを下ろした店がいくつも並んでいる。

 酒屋。金物屋。写真館。

 どれも看板だけが残っていて、店の中は暗い。


 人の気配は薄い。


 ただ、夏だけは濃かった。


 蝉の声が町の隙間を埋めている。

 どこかの家の庭から、風鈴の音がした。

 潮の匂いを含んだ風が、シャツの襟元を湿らせる。


 祖母が死んだのは、三週間前だった。


 正確に言えば、祖母が死んだという連絡を受けたのが三週間前。

 俺が最後に会ったのは、もっとずっと前だ。


 仕事が忙しいとか。

 金がないとか。

 体調が悪いとか。

 いくらでも理由はあった。


 けれど本当は、ただ面倒だっただけなのかもしれない。


 会いに行けば、何かを思い出してしまう。

 子供の頃のこと。

 夢を語っていた頃のこと。

 自分は何者かになれると、何の根拠もなく信じていた頃のこと。


 そういうものを思い出すのが嫌で、俺はずっと真白町から距離を取っていた。


 祖母の家は、駅から歩いて二十分ほどの場所にある。


 細い坂道を上っていくと、古い木造の家が見えてきた。

 瓦屋根。

 低い塀。

 庭に伸び放題の草。

 玄関の横には、祖母が好きだった紫陽花がまだ咲いていた。


 鍵を開ける。


 湿った木の匂いがした。


「……ただいま」


 小さく言ってから、馬鹿らしくなる。


 返事なんて、あるはずがない。


 畳の部屋には、祖母の暮らしがそのまま残っていた。

 湯呑み。

 古いラジオ。

 眼鏡。

 壁にかかったカレンダーは、先月のままだった。


 俺は荷物を置き、仏壇の前に座った。


 線香を一本立てる。


 煙が、細く、頼りなく上っていく。


「遅くなって、ごめん」


 口にすると、それは思ったよりも空々しく聞こえた。


 謝る相手がもういない謝罪ほど、みっともないものはない。


 俺はしばらく仏壇の前に座っていたが、耐えきれなくなって立ち上がった。


 遺品整理。


 そのために来た。

 それ以上でも、それ以下でもない。


 押し入れを開ける。

 古い布団。段ボール箱。衣装ケース。

 ひとつずつ中身を確認していく。


 写真。

 手紙。

 使い古した財布。

 俺が子供の頃に描いたらしい絵。


 下手くそな絵だった。


 青いクレヨンで塗りつぶされた空。

 赤い太陽。

 そして、やけに大きな羽の生えた人間。


 裏には、祖母の字でこう書かれていた。


『透、六歳。空の話を書くと言っていた日』


 俺はその紙をしばらく見つめた。


 空の話。


 そういえば、昔はよく物語を書いていた。


 ノートの隅に、勇者や魔法使いや、どこか遠くへ行く少年の話を書いていた。

 大人になったらシナリオライターになるのだと、本気で思っていた。


 けれど、いつからか書けなくなった。


 書こうとすればするほど、どこかで見たものになる。

 誰かの真似になる。

 借り物の言葉になる。


 自分の中には、物語なんてなかった。


 それを認めるのに、ずいぶん時間がかかった。


 俺は絵を段ボールの中へ戻そうとして、やめた。

 結局、捨てる箱にも入れられず、机の上に置いた。


 夕方になっても、部屋の中の暑さは抜けなかった。


 窓を開けると、遠くから祭囃子の練習のような音が聞こえた。

 笛の音。太鼓の音。

 途切れ途切れで、少し頼りない。


 そういえば、夏祭りの時期だったか。


 祖母の家の電話台には、町内会の回覧板が置かれていた。

 表紙には『真白夏祭りのお知らせ』とある。


 開催場所は、潮見神社。


 俺はその文字を見て、なぜか少しだけ胸がざわついた。


 潮見神社。


 長い石段。

 祖母の背中。

 高い場所から見下ろした海。


 そこまで思い出して、俺は息を吐いた。


 気分転換に外へ出ることにした。


 町の夕暮れは、やけに静かだった。


 商店街を抜けると、坂道の向こうに海が見えた。

 西日を受けた水面が、白く光っている。

 防波堤の上には誰もいない。

 カモメが一羽、低く飛んでいった。


 俺は海とは反対側の道へ向かった。


 丘の上へ続く石段。

 その先に、潮見神社がある。


 石段は記憶の中よりも短かった。

 けれど、上るには十分すぎるほど長かった。


「……子供の頃の俺、よく泣かなかったな」


 いや、泣いたのだった。

 祖母におぶってもらったのだから。


 そんなことを思い出しながら、俺は一段ずつ石段を上った。


 途中で何度か立ち止まる。

 息が切れる。

 運動不足にもほどがある。


 ようやく鳥居が見えた頃には、シャツが汗で背中に貼りついていた。


 潮見神社は、古びた神社だった。


 大きくはない。

 けれど、放置されているわけでもない。


 境内は掃き清められていて、石灯籠には新しい紙垂がついている。

 拝殿の横には、夏祭りの準備らしい提灯がいくつも吊るされていた。


 風が吹く。


 木々の葉が揺れ、境内に潮の匂いが流れ込んだ。


 ここからは、町と海が見える。


 赤い屋根。

 細い道。

 閉まった商店街。

 遠くに広がる海。


 真白町は、まるで夏の底に沈んでいるみたいだった。


 俺は賽銭箱の前まで行き、財布を開いた。


 五円玉はなかった。

 仕方なく十円玉を入れる。


 鈴を鳴らす。


 からん、と乾いた音がした。


 手を合わせる。


 願うことは、特になかった。


 祖母が安らかに、と言えばいいのだろうか。

 それとも、自分にも何か書けますように、とでも願えばいいのか。


 どちらも嘘くさくて、俺は結局、何も願わなかった。


 目を開ける。


 その時だった。


「願い事、ないんですか?」


 背後から声がした。


 振り向く。


 境内の端、楠の木の下に少女が立っていた。


 白いワンピース。

 薄い麦わら帽子。

 長い髪が、夕方の風に揺れている。


 年は十七、八くらいだろうか。


 少女は、まるで最初からそこにいたみたいに自然に立っていた。


 けれど俺は、さっきまで彼女の存在にまったく気づかなかった。


「……誰?」


 思わずそう聞いてしまう。


 少女は少しだけ首をかしげた。


「神様です」


「嘘だろ」


「早いですね。もう少し信じてくれてもいいのに」


「神様はアイス食べながら出てこないと思う」


 少女の右手には、棒つきのアイスが握られていた。

 半分ほど溶けかけていて、白い指に雫が垂れている。


 少女は自分の手元を見て、あ、と声を上げた。


「短い命だったね」


 そして、溶けたアイスを見つめながら、妙にしみじみと言った。


「アイスの話か?」


「はい。夏に生まれたものは、みんな短命なんです」


「壮大にするな」


「でも、だから尊いんですよ」


 少女はそう言って、残ったアイスをぱくりと口に入れた。


 変なやつだった。


 初対面で神様を名乗り、溶けたアイスに命を見出す少女。


 普通なら距離を取る。

 関わらない。

 面倒な予感しかしない。


 けれど俺は、なぜかその場を離れなかった。


「あなた、町の人じゃないですよね」


 少女が言う。


「見れば分かるのか」


「はい。町の人は、この時間に神社へ来ません」


「どうして?」


「夕飯の準備があるから」


「現実的な理由だな」


 少女は得意げに胸を張った。


「神様は生活にも詳しいんです」


「だから神様じゃないだろ」


「じゃあ、巫女さんです」


「それも嘘っぽい」


「ひどい」


 少女は笑った。


 よく笑う子だった。


 その笑い方は、境内の暗くなりかけた空気を少しだけ明るくする。

 蝉の声が、遠くなったような気がした。


「俺は相良透」


 なぜか、先に名乗っていた。


「祖母の家の片づけで来ただけだ。しばらくしたら帰る」


「帰る場所があるんですね」


 少女はそう言った。


 なんでもない言葉のはずだった。

 けれど、その声には少しだけ、羨ましそうな響きがあった。


「君は?」


「わたしですか?」


「神様でも巫女でもないなら」


 少女は、少し考えるように空を見上げた。


 そして言った。


「天宮リセです」


 天宮。


 その名字を聞いた時、胸の奥で何かが引っかかった。


 祖母から聞いたことがあるような気がする。

 潮見神社。

 夏祭り。

 海から返ってくる声。

 そして、天宮の女。


 でも、記憶はそこで途切れた。


「天宮って、この神社の?」


「はい。いちおう、そんな感じです」


「そんな感じって」


「ちゃんと説明すると長くなるので」


 リセは笑ってごまかした。


 その笑い方が、さっきよりも少しだけ弱かった気がした。


 境内に風が吹く。


 提灯が揺れ、紙垂がかすかに鳴った。


 リセは拝殿の方を見た。

 それから、海の方へ目を向ける。


 丘の下には、夕暮れの海が広がっていた。

 赤く染まった水面が、ゆっくりと波打っている。


「海、好きなのか」


 俺が聞くと、リセは少し間を置いて答えた。


「たぶん、好きです」


「たぶん?」


「ちゃんと見たことがないので」


 俺は思わずリセを見た。


「この町に住んでて?」


「はい」


「海沿いの町だぞ」


「知ってます」


「ここから見えてるだろ」


「見えてますね」


「それで、行ったことないのか?」


 リセは困ったように笑った。


「ないです」


 その答えは、冗談には聞こえなかった。


 海沿いの町で生まれ育って、海に行ったことがない少女。


 それは不自然だった。


 けれど、本人はまるで大したことではないみたいに、また溶けかけたアイスの棒を見つめている。


「行けばいいだろ」


 俺は言った。


「そんなに見たいなら」


 リセは少しだけ驚いた顔をした。


 それから、まぶしいものを見るように目を細める。


「簡単に言いますね」


「簡単だろ。坂を下りれば海だ」


「相良さんは、簡単なことを簡単にできる人なんですね」


 その言い方に、少しだけ引っかかるものがあった。


「そう見えるか?」


「見えます」


「買いかぶりだ」


「そうですか」


「ああ。俺は簡単なことほど先延ばしにするタイプだ」


 祖母に会いに来ることさえ、できなかった。


 そんな言葉は飲み込んだ。


 リセは俺を見て、ふっと笑った。


「じゃあ、似てますね」


「俺と君が?」


「はい」


「どこが」


「行きたい場所に、なかなか行けないところです」


 リセの声は明るかった。

 けれど、その言葉だけは妙に重たかった。


 俺は返す言葉を探した。


 その時、境内の奥から鈴の音がした。


 からん。


 さっき俺が鳴らした鈴とは違う。

 もっと遠く、もっと深いところから響くような音。


 リセの表情が変わった。


 笑顔が消える。


 彼女は拝殿の奥を見つめたまま、じっと動かなくなった。


「今の音……」


 俺が言いかけると、リセは小さく息を吸った。


「帰らなきゃ」


「え?」


「すみません。今日はもう帰ります」


 急に早口になった。


 リセはアイスの棒を握ったまま、石段の方へ歩き出す。


「おい」


 呼び止めると、彼女は振り返った。


 夕暮れの光の中で、リセの顔はどこか遠く見えた。


「また会えるのか」


 どうしてそんなことを聞いたのか、自分でも分からなかった。


 リセは少しだけ考えた。


 そして、いつものように笑った。


「相良さんが、わたしの名前を忘れなければ」


「普通、逆じゃないか?」


「そうかもしれません」


 リセはそう言って、石段を下りていった。


 白いワンピースの裾が、夏の夕暮れに溶けていく。


 俺はしばらく、その背中を見送っていた。


 やがて姿が見えなくなる。


 境内には、俺だけが残された。


 蝉の声。

 潮の匂い。

 遠くの祭囃子。

 そして、さっき聞こえた鈴の音。


 俺は拝殿を振り返った。


 そこには何もない。


 古い神社。

 夕暮れ。

 吊るされた提灯。


 ただそれだけだった。


 けれど、胸の奥に小さな違和感が残っていた。


 天宮リセ。


 海に行ったことがない少女。

 神様を名乗る、変な少女。

 そして、帰る場所がある俺を羨ましそうに見た少女。


 俺は彼女の名前を、心の中で繰り返した。


 忘れないように。


 その時はまだ、知らなかった。


 この町では、誰かが何かを願うたびに、別の誰かが何かを忘れていることを。


 そして、天宮リセという少女が、夏の終わりに向かって、少しずつ自分自身を失っていくことを。


 石段を下りる頃には、空はすっかり藍色に変わっていた。


 町の灯りが、ぽつぽつと点き始めている。

 海はもう見えない。

 ただ、暗がりの向こうから、波の音だけが聞こえていた。


 祖母の家に戻ると、留守電のランプが点滅していた。


 再生ボタンを押す。


 古い機械音のあと、知らない女の声が流れた。


『相良透さんですね。天宮澄香と申します』


 天宮。


 俺は息を止めた。


『今日、娘と会われたそうですね』


 声は静かだった。

 感情を押し殺したような、冷たい声。


『お願いがあります』


 短い沈黙。


 その沈黙の奥に、波の音が混じっているような気がした。


『あの子に、余計なことを教えないでください』


 そこで録音は切れた。


 俺は受話器を見つめたまま、しばらく動けなかった。


 外では、蝉が鳴いていた。


 昼間よりも弱く、けれどしつこく。


 まるで、終わりかけた夏にしがみつくみたいに。


 その夜、俺は夢を見た。


 まだ幼かった頃の夢だった。


 祖母に手を引かれて、潮見神社の石段を上っている。

 俺は途中で疲れて、もう歩けないと泣いている。


 祖母は笑って、俺を背負う。


 背中は小さくて、あたたかかった。


 石段を上りきると、海が見えた。


 真っ青な海。


 その海の向こうから、誰かの声が聞こえた。


 泣いているような。

 笑っているような。

 何かを呼んでいるような声。


 俺は祖母に尋ねる。


 あれは何の声なの、と。


 祖母は答える。


『あれはね、帰ってきたかった人の声だよ』


 そこで目が覚めた。


 部屋は暗かった。


 開けっぱなしの窓から、潮風が入ってくる。

 カーテンが揺れている。


 遠くで、鈴の音がした。


 からん。


 俺は布団の中で、じっと耳を澄ませた。


 もう一度、鈴が鳴る。


 からん。


 それは夢の続きのようでもあり、現実の始まりのようでもあった。


 翌朝。


 俺は机の上に置いた、子供の頃の絵を見つめていた。


 青い空。

 赤い太陽。

 羽の生えた人間。


 その裏に書かれた祖母の字。


『透、六歳。空の話を書くと言っていた日』


 俺は引き出しから古いノートを取り出した。


 祖母の家に置きっぱなしになっていたものだ。

 表紙は黄ばんでいて、角は丸くなっている。


 開くと、幼い字で物語の断片が書かれていた。


 空から落ちてきた何か。

 遠い町。

 帰れない誰か。

 名前のない少女。


 どれも拙くて、どこかで見たような話だった。


 けれど、不思議と捨てる気にはなれなかった。


 俺はペンを持った。


 何を書くつもりなのか、自分でも分からない。


 ただ、昨日出会った少女のことを、忘れる前に書いておこうと思った。


 天宮リセ。


 海を知らない少女。


 夏に生まれたものは短命だと、溶けたアイスを見ながら言った少女。


 俺はノートの最初の空白に、ゆっくりと文字を書いた。


 ――夏は、空から落ちてくるものだと思っていた。


 そこまで書いて、手が止まる。


 違う。


 この町の夏は、空から落ちてくるんじゃない。


 海の底から、浮かび上がってくる。


 忘れたはずのものを連れて。

 失くしたはずの声を連れて。

 そして、まだ名前のない物語を連れて。


 俺はペンを握り直した。


 窓の外で、風鈴が鳴った。


 真白町の夏が、始まろうとしていた。

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