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第七章 まほろば

 夕方の海へ向かう道は、思っていたよりも静かだった。


 真白町の夏祭りは、予定通り行われることになったらしい。

 けれど潮返しの儀はない。

 町内会として天宮家へ願いを求めることもしない。


 それでも商店街には提灯が灯り、遠くから祭囃子の音が聞こえていた。


 笛の音。

 太鼓の音。

 子供の笑い声。

 焼きそばの匂い。

 風鈴の音。


 何もかもが、いつもと同じ夏の夕方に見えた。


 けれど、真白町の夏はもう、昨日までとは違っていた。


 町の人々は、自分たちの後悔を自分たちで抱えようとしている。

 澄香は、娘の手を引いて外へ出ようとしている。

 リセは、自分の願いを忘れる前に、海へ向かっている。


 そして俺は、ノートを抱えてその後ろを歩いていた。


 リセは澄香に支えられながら、ゆっくりと坂道を下りていた。


 白いワンピース。

 薄い麦わら帽子。

 手首には、汐里の遺した小さな鈴。


 歩くたびに、ちりん、と鳴る。


 その音は弱々しくて、けれど確かだった。


 リセの顔色はまだ悪い。

 昨夜の高熱の名残があるのか、足取りも少し頼りない。


 それでも彼女は、自分の足で歩いていた。


 澄香はその横で、リセの手を握っている。


 強く握りすぎないように。

 でも、離してしまわないように。


 そんな手だった。


 ナツメは少し前を歩いている。


 時々振り返っては、何か言いたそうな顔をする。

 でも結局、何も言わずにまた前を向く。


 たぶん、泣きそうなのを見られたくないのだろう。


 俺も、何を言えばいいのか分からなかった。


 この道の先に海がある。


 リセがずっと行きたがっていた場所。

 汐里が最後に向かった場所。

 澄香がずっと恐れていた場所。


 そこへ、今、向かっている。


 リセは途中で立ち止まった。


 坂道の先に、青い光が見えたからだ。


 防波堤の向こう。

 夕陽を受けて、海がきらきらと光っている。


「……あれが」


 リセの声は小さかった。


 澄香がうなずく。


「海よ」


「海」


 リセはその言葉を、初めて口にするみたいに繰り返した。


「本当に、青いんですね」


「今日は少し、夕方の色が混じっているわ」


「じゃあ、青と夕方です」


「そうね」


「海は、青と夕方なんですね」


 澄香は泣きそうな顔で笑った。


「リセらしい言い方」


「そうですか?」


「ええ」


 リセは少し嬉しそうにした。


 そして、俺の方を見た。


「相良さん」


 名前を呼ばれた。


 一瞬、胸が詰まった。


「なんだ」


「今のも、書いておいてください」


「ああ」


「海は、青と夕方です」


「そのまま書く」


「お願いします」


 リセは満足そうにうなずいた。


 名前を呼べている。


 それだけで救われるような気持ちになる。


 でも、それがいつまで続くのかは分からない。


 だから、俺は覚える。


 書く。


 今のリセを。


 この瞬間のリセを。


 防波堤へ続く道に入ると、潮の匂いが強くなった。


 波の音が近い。


 ざあ、と寄せて。

 ざあ、と返る。


 何度も何度も。


 リセはその音を聞いて、少しだけ身体をこわばらせた。


 澄香が気づく。


「怖い?」


 リセは少し考えてから、うなずいた。


「少し」


「戻る?」


 澄香の声は震えていた。


 戻ってほしいのか。

 進んでほしいのか。


 自分でも分からないような声だった。


 リセは首を横に振った。


「戻りません」


「無理しなくていいのよ」


「無理は、少ししています」


 リセは正直に言った。


「でも、行きたいです」


 澄香は目を伏せた。


「そう」


「お母さんは?」


「私も、怖い」


 澄香は言った。


「でも、行くわ」


 リセは母の手を握り返した。


「じゃあ、一緒ですね」


「ええ」


 二人はまた歩き出した。


 防波堤を越えると、視界が一気に開けた。


 海だった。


 真白町の海。


 夕陽を受けて、波の端が金色に光っている。

 遠くには小さな漁船が見えた。

 空は青から橙へ変わりかけていて、雲の縁だけが白く燃えている。


 砂浜は広くはない。


 町の端にある、小さな入り江のような海辺。


 けれど、リセにとっては世界の果てのように見えたのかもしれない。


 彼女は息を止めたまま、海を見つめていた。


 誰も何も言わなかった。


 ナツメも、俺も、澄香も。


 ただ、リセの最初の言葉を待っていた。


 長い沈黙のあと、リセは小さく言った。


「大きい」


 それだけだった。


 でも、その声は震えていた。


「こんなに、近かったんですね」


 澄香は何も言えなかった。


「神社から見えていたのに」


 リセはゆっくり歩き出す。


 砂に足を取られて、少しふらつく。


 澄香が支える。


 リセは笑った。


「歩きにくいです」


「砂浜だから」


「砂浜は、意地悪ですね」


「そうね」


「でも、柔らかいです」


「ええ」


 波打ち際まで、あと数歩。


 リセはそこで立ち止まった。


 寄せてきた波が、彼女の足元の少し手前で止まり、また引いていく。


 まるで、リセが来るのを待っているみたいだった。


「触ってもいいんですか」


 リセが聞いた。


 誰に、というわけでもなかった。


 澄香が答えた。


「いいのよ」


「怒られませんか」


「怒らない」


「本当に?」


「本当」


 澄香の声が震えた。


「私はもう、怒らない」


 リセは母を見た。


 それから、ゆっくりと波へ足を踏み出した。


 次の波が来る。


 白い泡が、リセの素足に触れた。


 リセはびくりと肩を震わせた。


「冷たい」


 そして、笑った。


「お母さん、海、冷たいです」


「そうね」


「びっくりしました」


「そう」


「でも、きれいです」


 その瞬間、澄香の目から涙がこぼれた。


 リセは波打ち際に立ち、海を見ていた。


 ずっと見たかったもの。

 ずっと見せてもらえなかったもの。

 ずっと母と一緒に来たかった場所。


 ようやく、そこに立っている。


 澄香はリセの隣へ進んだ。


 波が、澄香の足にも触れる。


 彼女は一瞬、目を閉じた。


 たぶん、汐里のことを思い出していた。


 この海へ向かった姉。

 戻らなかった姉。

 名前を忘れられた姉。


 そして今、自分の隣にいる娘。


「リセ」


 澄香が言った。


「はい」


「ごめんなさい」


 リセは少しだけ困ったように笑った。


「また謝罪セールですか」


「ええ」


「今日は何割引きですか」


「全部」


「大赤字です」


「そうね」


 澄香は泣きながら笑った。


「私は、あなたを守っているつもりだった」


「はい」


「でも、本当は怖かったの。姉さんを失ったみたいに、あなたまで失うのが怖くて」


「はい」


「だから、あなたの願いを見ないふりをした。海に行きたいと言うあなたの声を、聞こえないふりをした」


 リセは黙って聞いていた。


 波の音が、二人の沈黙を包む。


「守っていたんじゃない。閉じ込めていた」


 澄香の声は震えていた。


「ごめんなさい、リセ」


 リセは母の手を握った。


「お母さん」


「うん」


「わたし、寂しかったです」


 その言葉は静かだった。


 責めるようではなかった。


 ただ、ずっと胸にあったものをようやく外に出したような声だった。


「はい」


「お母さんが近くにいるのに、遠くにいるみたいでした」


「うん」


「海より遠かったです」


 澄香は顔を歪めた。


「ごめん」


「でも」


 リセは続けた。


「今日、一緒に来てくれました」


 澄香はリセを見る。


「だから、全部じゃないです」


「え?」


「寂しかったことが、全部消えるわけじゃないです」


 リセは海を見ながら言った。


「でも、今日のことも、ちゃんと残ります」


 澄香は泣きながら頷いた。


「うん」


「だから、お母さん」


「なに」


「わたしのこと、忘れないでください」


 澄香の息が止まった。


「忘れない」


「本当ですか」


「忘れない。何があっても、忘れない」


「わたしが、わたしのことを忘れても?」


「忘れない」


「相良さんの名前を忘れても?」


 俺は少し苦笑した。


 澄香はうなずいた。


「忘れない」


「ナツメちゃんのアイス泥棒未遂も?」


「それも忘れないわ」


「ちょっと待って、私の罪状が母娘の誓いに混ざってる」


 ナツメが声を上げた。


 リセが笑った。


 澄香も泣きながら笑った。


 それは、初めて見た母娘の笑い声だった。


 海辺に、短く、でも確かに響いた。


 俺はその光景を見ていた。


 書かなければ、と思った。


 でも今は、ペンを取らなかった。


 まず覚える。


 紙に残す前に、自分の中に残す。


 リセの笑顔。

 澄香の涙。

 ナツメの涙声の抗議。

 夕方の海。

 リセの手首で鳴る、汐里の鈴。


 全部。


 リセは波打ち際を少し歩いた。


 澄香が支える。

 ナツメが「転ぶなよ」と言いながら、結局自分が砂に足を取られた。

 リセはそれを見て笑った。


 弱々しいけれど、楽しそうだった。


 そのうち、リセは小さな貝殻を見つけた。


 白くて、欠けた貝殻。


 彼女はそれを拾い上げ、手のひらに乗せた。


「短い命だったんでしょうか」


「貝殻が?」


「はい」


「どうだろうな」


「でも、ここまで来たんですね」


 リセは貝殻を見つめた。


「海にいたものが、砂浜まで来た」


「そうだな」


「じゃあ、えらいです」


 リセはそう言って、貝殻を大事そうに握った。


 その時、手首の鈴が鳴った。


 ちりん。


 リセは鈴を見た。


「これ」


「汐里さんのものだ」


 俺が言うと、リセは首をかしげた。


「しおりさん」


 まだ、思い出せないようだった。


 けれど、その名前を聞いて嫌な顔はしなかった。


 むしろ、懐かしい音を聞いたような表情をした。


「知ってる気がします」


 澄香が息を呑む。


「リセ」


「覚えてはいません」


 リセは申し訳なさそうに言った。


「でも、知ってる気がします。あたたかい名前です」


 澄香は目を閉じた。


「そう」


「お母さんの大事な人ですか」


「ええ」


「じゃあ、わたしも大事にします」


 リセは鈴にそっと触れた。


 ちりん。


 その音に混じって、波の奥から声が聞こえた気がした。


 澄香。


 それは幻だったのかもしれない。


 風の音かもしれない。

 波の音かもしれない。

 澄香の心がそう聞いたのかもしれない。


 けれど、澄香は確かに顔を上げた。


 海を見つめる。


「姉さん」


 小さく呼んだ。


 リセが母を見る。


 澄香は海へ向かって、ゆっくり頭を下げた。


「ありがとう」


 それから、長い沈黙のあと。


「ごめんね」


 波が寄せる。


 澄香の足元を濡らす。


 そして引いていく。


 まるで、何かを受け取って返っていくように。


 リセは母の手を握ったまま、海を見ていた。


 夕陽が、少しずつ水平線へ近づいている。


 空の色が濃くなる。


 青と橙と薄紫が混ざり合い、真白町の海を、見たことのない色に染めていく。


「相良さん」


 リセが言った。


「なんだ」


「わたし、今のこと、忘れちゃいますか」


 答えに詰まった。


 忘れないとは言えなかった。


 もう大丈夫だとも言えなかった。


 潮返しの夜を越えても、リセの記憶は戻らなかった。

 むしろ、こぼれ落ちる速度は増しているのかもしれない。


 これから先、今日の海のことも、澄香の涙も、ナツメの声も、俺の名前も、失われていく可能性がある。


 だから俺は、嘘をつかなかった。


「分からない」


「そうですか」


「でも、書く」


 リセは俺を見る。


「忘れても、読めるように書く。読んでも思い出せないかもしれない。でも、今日ここに来たことは残る」


「残る」


「ああ」


 俺はノートを軽く叩いた。


「ここにも。俺の中にも。澄香さんの中にも、ナツメの中にも」


「町の中にも?」


 リセが聞いた。


 俺は少し考えた。


「今度は、町にも残させる」


 リセはきょとんとしたあと、笑った。


「相良さん、たまに偉そうですね」


「今日くらいはいいだろ」


「許します」


「神様に?」


「神様見習いに」


「降格してる」


「定休日が多すぎました」


 リセはくすくす笑った。


 その笑い声を、俺は覚えた。


 波打ち際に座って、しばらく四人で海を見ていた。


 澄香とリセ。

 ナツメ。

 俺。


 何か特別な会話をしたわけではない。


 ナツメが祭りの屋台の話をした。

 リセが綿あめを雲の死骸と呼んで、ナツメに「食欲なくなるからやめて」と怒られた。

 澄香が、リセの帽子が飛ばないように何度も直した。

 俺はそれを見ていた。


 たったそれだけの時間だった。


 でもたぶん、リセが本当に欲しかったのは、そういう時間だったのだ。


 奇跡ではなく。

 伝承ではなく。

 誰かの声を返すことでもなく。


 母と一緒に海を見て、くだらない話をして、少し笑う。


 それだけ。


 それだけのことが、こんなにも遠かった。


 夕陽が沈む頃、リセは眠たそうに目をこすった。


「眠いか」


 俺が聞くと、リセはうなずいた。


「はい。海は、思ったより体力を使います」


「ほとんど座ってただろ」


「見るのに体力がいります」


「それは分かる気がする」


 澄香がリセの肩に薄い上着をかける。


「そろそろ帰りましょう」


「はい」


 リセは立ち上がろうとして、少しふらついた。


 澄香が支える。


「大丈夫?」


 その言葉に、リセは一瞬いつものように笑いかけた。


 大丈夫です、と言おうとしたのだと思う。


 けれど、途中で止めた。


「少し、疲れました」


 澄香は目を細めた。


「そう」


「あと、少し怖いです」


「うん」


「でも、楽しかったです」


 澄香はうなずいた。


「うん」


 リセは母の手を握った。


「お母さん」


「なに」


「また、来られますか」


 澄香はすぐには答えられなかった。


 また。


 その約束が果たせるかどうかは分からない。


 リセの記憶がどこまで残るのか。

 体調がどうなるのか。

 この海がまた何かを呼ぶのか。


 何も分からない。


 でも澄香は、今度は逃げなかった。


「来よう」


 リセは微笑んだ。


「約束です」


「約束」


 その約束が、どれほど確かなものかは分からない。


 でも、少なくともその瞬間、二人は約束した。


 帰り道、リセは何度も振り返った。


 海が見えなくなるまで。


 防波堤を越え、坂道に入る前に、最後にもう一度だけ振り返った。


 夕闇の中で、海は暗く沈み始めている。


 波の音だけが聞こえる。


 リセは小さく手を振った。


「また来ます」


 海に向かって言った。


 そして、少し考えてから付け加えた。


「たぶん」


 ナツメが笑う。


「そこは絶対って言いなよ」


「絶対は、少し重いです」


「まあ、分かる」


「でも、たぶんは、けっこう強いです」


「そうなの?」


「はい。たぶん」


「そこもたぶんなんだ」


 そんな会話をしながら、俺たちは神社へ戻った。


 その夜、リセはまた熱を出した。


 けれど昨日ほどではなかった。


 澄香は慌てず、ナツメも泣かなかった。


 俺は神社の縁側で、ノートを開いた。


 今日のことを書き始める。


 海は、青と夕方だったこと。


 リセが波に触れて、冷たいと言ったこと。

 澄香が、私はもう怒らないと言ったこと。

 リセが、守られているのに寂しかったと伝えたこと。

 母娘が泣きながら笑ったこと。

 ナツメのアイス泥棒未遂が、なぜか母娘の誓いに混ざったこと。

 汐里の鈴が鳴ったこと。

 リセが、また来ます、たぶん、と海に手を振ったこと。


 書きながら、何度も手が止まった。


 これで救われたのか。


 分からない。


 リセは記憶を失っている。

 透の名前も、ナツメの名前も、明日にはまた分からなくなるかもしれない。

 海へ行ったことさえ、忘れるかもしれない。


 潮返しの儀は止まった。


 でも、代償が完全になくなったわけではない。


 失われたものは戻らない。


 汐里は帰ってこない。

 リセの記憶も、すべて元通りにはならない。

 澄香が娘を閉じ込めてきた年月も、なかったことにはならない。


 それでも。


 今日、リセは海を見た。


 母と一緒に。


 それは確かだった。


 たとえリセが忘れても、澄香が覚えている。

 ナツメが覚えている。

 俺が書く。


 町にも覚えさせる。


 奇跡を求めた町ではなく、ひとりの少女が自分の願いを選んだ町として。


 俺は書いた。


 ――まほろばとは、完璧な楽園のことではない。


 少し考えて、続ける。


 ――失ったものを抱えたまま、それでも帰りたいと思える場所のことだ。


 ペン先が止まる。


 潮騒が聞こえた。


 神社の境内にいても、海の音はかすかに届く。


 まるで町全体が、静かに呼吸しているようだった。


 数日が過ぎた。


 夏祭りは予定通り行われた。


 潮返しの儀はなかった。


 潮見神社の鈴は、祭りの始まりを告げるためだけに鳴らされた。

 死者の声を返すためではなく、生きている人たちが集まるために。


 町の人たちは、ぎこちなかった。


 天宮家を見る目も、リセを見る目も、以前とは違っていた。

 感謝と後ろめたさと、どう接すればいいか分からない戸惑い。


 それでも、白石はリセにたこ焼きを差し入れた。

 橘の祖母は汐里の名前を何度も口にした。

 喪服の女性は、澄香に頭を下げ、それから静かに祭りの提灯を飾る手伝いをした。


 すべてがすぐに変わったわけではない。


 でも、少しずつ変わろうとしていた。


 リセは、祭りの途中で俺の名前を忘れた。


「えっと」


 いつものように首をかしげる。


「あなたは、ノートの人ですか」


「雑な覚え方だな」


「すみません。でも、ノートの人はいい人な気がします」


「相良透」


「さがら、とおる」


「そう」


「相良さん」


 名前を伝えれば、リセは呼ぶ。


 でも、その名前に積もっていた時間は、少しずつ薄れている。


 それでも俺は、そのたびに名乗った。


 ナツメもそうだった。


「橘ナツメ。幼なじみ。アイス泥棒未遂犯」


「罪が自己紹介に入ってます」


「忘れないようにね」


「それは忘れたいです」


「だめ」


 リセは笑った。


 澄香も、リセが忘れるたびに、丁寧に伝えた。


 これはナツメちゃん。

 これは相良さん。

 これは潮見神社。

 これはあなたが好きなバニラアイス。

 これは、汐里さんの鈴。


 そして、これは海。


 あなたが、お母さんと一緒に見に行った海。


 リセはそのたびに、少し不思議そうな顔をした。


「わたし、海に行ったんですか」


「行ったわ」


「お母さんと?」


「ええ」


「きれいでしたか?」


「とても」


「わたし、何て言いましたか?」


 澄香は微笑んだ。


「きれいだね、って」


 リセは嬉しそうに笑った。


「いいこと言いましたね、わたし」


「ええ」


「また行けますか」


「行きましょう」


「約束ですか」


「約束」


 その会話は、何度も繰り返された。


 そのたびに澄香は、初めて約束するように答えた。


 約束。


 何度忘れられても、何度でも結び直す約束。


 夏の終わり。


 俺は祖母の家の遺品整理を終えた。


 捨てるもの。

 残すもの。

 持って帰るもの。


 その仕分けは思っていたより時間がかかった。


 祖母の家には、俺が忘れていたものがたくさん残っていた。


 子供の頃の絵。

 古いノート。

 祖母が書き残したメモ。

 潮見神社の写真。


 そして、真白町で過ごしたこの夏の記録。


 俺は最後に仏壇の前に座った。


 線香を立てる。


 煙が細く上っていく。


「遅くなって、ごめん」


 最初に来た日と同じ言葉を言った。


 でも、響きは少し違っていた。


「それと、ありがとう」


 祖母がこの町にいてくれたから、俺はここへ来た。

 リセに会った。

 澄香の痛みを知った。

 ナツメの涙を見た。

 汐里の名前を書いた。


 そして、初めて自分の言葉で何かを書こうと思った。


 俺は仏壇に手を合わせた。


 願い事は、少しだけあった。


 どうか、忘れませんように。


 俺が、この夏を。


 この町を。


 天宮リセを。


 忘れませんように。


 真白町を出る日、リセは神社の石段の上まで見送りに来た。


 澄香とナツメも一緒だった。


 リセの体調は少し落ち着いていたが、記憶はまだ不安定だった。


 俺を見ると、彼女は一瞬だけ考える顔をした。


 そして言った。


「相良さん」


 名前を呼ばれた。


「覚えてたのか」


「今日は覚えてます」


「今日は、か」


「はい。今日は勝ちです」


「何に?」


「忘れるやつに」


 リセは得意げに笑った。


 その笑顔は、初めて会った日の神様を名乗る少女と同じだった。


 でも、もう同じではない。


 俺は彼女のことを知っている。


 彼女が忘れてきたこと。

 覚えていたいと願ったこと。

 海を見て笑ったこと。

 少しだけ怖いと言えたこと。


 その全部を、俺は知っている。


「相良さん」


「なんだ」


「ノート、見せてくれますか」


 俺は少し迷った。


 持っていたノートを差し出す。


 リセは両手で受け取り、ゆっくり開いた。


 文字がびっしり詰まったページ。


 リセが忘れていった日々。


 リセが残した言葉。


 リセはそれを、少しずつ読んだ。


 完全に理解できているのかは分からない。


 でも、時々笑い、時々困った顔をし、時々目を潤ませた。


 やがて、海へ行った日のページで手を止める。


 ――海は、青と夕方だった。


 リセはその一文を指でなぞった。


「これ、わたしが言ったんですか」


「ああ」


「いいですね」


「自画自賛多いな」


「忘れてるので、他人の言葉みたいに褒められます」


「便利だな」


「少しだけ」


 リセは笑った。


 それから、ノートを閉じて俺に返した。


「相良さん」


「うん」


「これ、物語にしてください」


 俺は息を止めた。


「物語に?」


「はい」


 リセは海の方を見た。


 神社から見える海。

 彼女がずっと遠くから見ていた海。


「わたしが忘れても、誰かが読めるように」


 澄香がリセを見る。


 ナツメも黙っている。


「町の人たちも、忘れないように」


 リセは続けた。


「汐里さんのことも。お母さんのことも。ナツメちゃんのアイス泥棒未遂も」


「だからそれ入れる必要ある?」


 ナツメが言う。


「あります。歴史なので」


「最悪の歴史認識」


 リセは笑った。


 そして、俺を見た。


「相良さんは、書く人でしょう?」


 その言葉が胸に刺さった。


 昔は、そうなりたかった。


 でもなれないと思っていた。


 何を書いても、どこかで見た話になる。

 自分の中には、自分だけの物語なんてない。


 ずっとそう思っていた。


 でも今なら、少しだけ分かる。


 物語は、完全に新しい設定から生まれるわけじゃない。


 誰かの痛みを見た時。

 誰かの言葉を忘れたくないと思った時。

 自分の中で鳴り続ける声に、どうしても形を与えたくなった時。


 そこから始まる。


 俺はまだ、うまく書けないかもしれない。


 間違えるかもしれない。

 綺麗にしすぎるかもしれない。

 誰かを傷つけるかもしれない。


 それでも。


 書きたいと思った。


 この夏を。


 この町を。


 リセを。


「書くよ」


 俺は言った。


「ちゃんと書く」


 リセは嬉しそうに笑った。


「では、タイトルも必要ですね」


「タイトルか」


「はい。大事です。神様ポイントが上がります」


「まだそれあるのか」


「あります」


 リセは少し考えるように空を見上げた。


 夏の終わりの空。


 白い雲。

 遠くの海。

 潮風。


 そして言った。


「潮騒のまほろば」


 俺は黙った。


 その言葉が、あまりにも自然に胸へ落ちてきたから。


「どうですか?」


 リセが聞く。


「いいと思う」


「ほんとですか」


「ああ」


「じゃあ、それで」


 リセは満足そうに笑った。


「相良さんが書く物語のタイトルです」


 澄香が静かに微笑んだ。


 ナツメは少し照れくさそうに鼻をこすった。


「私、美少女幼なじみ枠でよろしく」


「自分で言うな」


「現実より少し盛って」


「検討する」


「そこは即答してよ」


 リセは楽しそうに笑った。


 その笑い声を聞きながら、俺は思った。


 この瞬間も、いつか失われるかもしれない。


 リセの中から。

 町の中から。

 俺の中からさえ。


 でも、失われるからこそ、書くのだ。


 短い命だったね。


 そう言って笑えるものたちを、少しでも長く残すために。


 俺は真白町を出た。


 無人駅のホームに立つと、初めて来た日のことを思い出した。


 錆びた駅名標。

 色あせた観光ポスター。

 潮の匂い。

 遠くの波の音。


 あの日の俺は、ただ祖母の遺品整理に来ただけだった。


 何も書けない。

 自分には物語がない。

 そう思っていた。


 でも今、鞄の中には一冊のノートがある。


 天宮リセの夏が書かれたノート。


 澄香と汐里の痛みが書かれたノート。


 ナツメの涙と、町の後悔と、海の色が書かれたノート。


 列車が来る。


 古い車両が、ゆっくりホームへ入ってくる。


 乗り込む前に、俺は町の方を振り返った。


 丘の上に、潮見神社が見える。


 その向こうに、海が光っていた。


 潮騒が、ここまで聞こえた気がした。


 俺は小さくつぶやいた。


「また来る」


 誰に言ったのかは分からない。


 祖母にか。

 リセにか。

 澄香にか。

 汐里にか。

 この町そのものにか。


 列車のドアが閉まる。


 真白町が、窓の向こうで少しずつ遠ざかっていく。


 けれど、不思議と離れていく感じはしなかった。


 あの町はもう、俺の中にある。


 帰りたい場所として。

 戻れない場所として。

 それでも、忘れたくない場所として。


 まほろば。


 たぶん、そういう場所のことを言うのだと思った。


 数年後。


 俺は、一本のノベルゲームを書き上げた。


 タイトルは、


 『潮騒のまほろば』


 海沿いの田舎町。

 町の願いを背負わされた少女。

 娘を守りすぎた母。

 幼なじみの駄菓子屋の少女。

 そして、自分の物語を失った青年。


 完璧な救いは書けなかった。


 少女の記憶がすべて戻る奇跡も、死者が蘇る奇跡も、町の罪が一夜ですべて清算される結末も。


 そんなものは書けなかった。


 でも、海へ行く場面だけは、何度も書き直した。


 青と夕方の海。


 母の手を握る少女。


 手首で鳴る小さな鈴。


 きれいだね、と言う声。


 そこだけは、絶対に嘘にしたくなかった。


 作品が完成したあと、俺は真白町を訪れた。


 夏だった。


 真白駅は、相変わらず小さな無人駅だった。

 商店街は相変わらず半分以上閉まっていた。

 橘商店の暖簾は、さらに色あせていた。


 でも、店先にはナツメがいた。


「遅い」


 第一声がそれだった。


「何年ぶりだと思ってるの」


「久しぶり」


「久しぶりじゃないよ。もっと感動的な再会あるでしょ」


「美少女幼なじみ枠はまだ健在だな」


「よろしい」


 ナツメは少し大人びていた。


 けれど、目つきと口の悪さは変わっていなかった。


「リセは?」


「神社」


「体調は」


「日による」


 ナツメは少しだけ表情を柔らかくした。


「記憶も、日による」


「そうか」


「でも、海には何回か行ってるよ。澄香さんと一緒に」


 それを聞いて、胸の奥が静かに温かくなった。


「そっか」


「うん」


 ナツメは店の冷凍ケースから、バニラアイスを一本取り出して俺に渡した。


「持ってきなよ」


「リセに?」


「自分にも買いな。仲良くなった気がするらしいから」


 俺は笑って、二本分の代金を払った。


 潮見神社への石段を上る。


 何年経っても、やはり長い。


 息を切らしながら上りきると、境内には昔と同じ潮の匂いがあった。


 提灯。

 楠の木。

 拝殿。

 海の見える場所。


 その楠の下に、リセがいた。


 白いワンピース。

 手首の鈴。

 少し長くなった髪。


 彼女はアイスを食べていた。


 俺に気づくと、首をかしげた。


「こんにちは」


「こんにちは」


 リセは俺の顔をじっと見た。


 覚えているのか。

 覚えていないのか。


 それは分からなかった。


 やがて彼女は、手元のアイスを見て言った。


「短い命ですね」


「そうだな」


「でも、幸せそうです」


「アイスが?」


「はい」


 リセは笑った。


 あの日と同じように。


 俺は持ってきたもう一本のアイスを差し出した。


「食べるか」


「賄賂ですか?」


「神様ポイント狙いだ」


「なるほど」


 リセは受け取って、嬉しそうに袋を開けた。


 そして、ふと俺を見た。


「あなた」


 心臓が少しだけ止まる。


 リセは笑った。


「夏って、落ちてくると思いますか?」


 俺はしばらく何も言えなかった。


 その問いを、彼女が覚えているのか。

 ただ同じように感じただけなのか。

 分からない。


 でも、どちらでもよかった。


 俺は海の方を見た。


 真白町の海は、今日も青く光っている。


 潮騒が聞こえる。


 遠く、懐かしい場所から呼ばれるように。


「たぶん」


 俺は答えた。


「もう落ちてきてるよ」


 リセは少し驚いたように目を開いた。


 それから、嬉しそうに笑った。


「そうですか」


 風が吹く。


 手首の鈴が鳴る。


 ちりん。


 潮騒の中で、その音は小さく、けれど確かに響いた。


 失われたものは戻らない。


 忘れた記憶は、すべて元通りにはならない。


 それでも、残ったものがある。


 名前。

 言葉。

 約束。

 海の色。

 アイスの甘さ。

 誰かを覚えていたいと願う気持ち。


 それらが、夏の終わりの光の中で、静かに息づいている。


 俺はノートを閉じた。


 物語は、ここで終わる。


 でも、潮騒は続いている。


 帰りたい場所として。


 もう戻れない場所として。


 それでも、何度でも思い出す場所として。


 真白町の夏は、今日も海の底から浮かび上がってくる。


 忘れたはずの声を連れて。


 失くしたはずの願いを連れて。


 そして、まだ消えない、小さなまほろばを連れて。


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