第2節:腐敗する楽園
「……ババアか?」
ヴェールさんが震える声で呟きました。
ライトの中に浮かび上がった老婆――木の幹に下半身を飲み込まれ、皮膚が樹皮のように変質したその人は、ギギギ……と軋むような音を立てて首を傾げました。
「忘れたのかい? お前を育ててやった、この森の長を」
「……忘れるもんかよ。夢にまで見たぜ、この湿気たツラは」
ヴェールさんは悪態をつきましたが、ハンドルを握る手は白くなるほど強く握りしめられていました。
老婆だけではありません。
鉄の柩の周囲の闇から、ズルリ、ズルリと気配が湧き出してきました。
苔むした岩だと思っていたものが、目を開きます。
垂れ下がった蔦だと思っていたものが、人の腕の形をしています。
この森の木々は、すべて「かつて人間だったもの」の成れの果てでした。
「どうして……こんな姿に」
私が窓越しに問うと、老婆は虚ろな瞳をこちらに向けました。
「『緑の恵み』だよ。お嬢ちゃん」
老婆は、自分の胸元に埋め込まれた、微かに脈打つ緑色の光を撫でました。
「外の世界は乾いていて、辛いだろう? 動けば腹が減る。歩けば足が痛む。……けれど、この森に根を張れば、母なる大樹様が養分を分け与えてくださる」
「動かなければ、腹も減らない。何も望まなければ、失うこともない」
老婆の周囲の「木人」たちが、さざめくように同意します。
――そうだ、そうだ。――ここは楽園だ。
誰も死なない、誰も傷つかない。
――ただ、静かに腐っていくだけの、永遠の安息。
「……きもちわるい」
リアが私の服を強く握りしめました。
彼女の本能が、この場所の異常さを拒絶しています。
生とは、変化することです。
けれど彼らは、変化を恐れるあまり、自ら植物になることを選んだ。
それは「生きている」のではなく、「死んでいない」だけの状態。
「……ヴェール。お前も戻っておいで」
老婆が、枯れ枝のような手を差し伸べました。
「お前のその病気……『色漏症』は、外では生き辛かっただろう? 常に何かが漏れて、足りなくて、寒くて、惨めで……。でも、ここなら大丈夫さ。みんなで分け合えば、お前の穴も埋まる。戻ってきて、お前の足も、お前の目も、この森の土へ差し出しなさい。みんなと『同じ』になりなさい」
「……」
ヴェールさんが、揺れました。
彼の瞳に、一瞬だけ弱々しい色が浮かびます。
常に「奪わなければ生きられない」という業を背負った彼にとって、「何もしなくても生きていける」という提案は、どれほど甘美な毒でしょうか。
「……ああ、そうだな。外はクソだ。どいつもこいつも俺を見下しやがる。……ここは静かでいい」
「ヴェールさん?」
私が名を呼ぶと、彼は夢遊病のようにドアノブに手をかけました。
「おにいちゃん、だめ!」
リアが叫びますが、彼の耳には届いていません。
老婆がにんまりと笑いました。
その笑顔は、慈愛ではなく――泥沼に引きずり込もうとする「粘着質な悪意」に満ちていました。




