第1節:帰るべき場所、還るべき土
修理を終えた鉄の柩は、驚くほど静かに荒野を駆けていました。
以前はガタガタと悲鳴を上げていた車体のバネは滑らかになり、動力炉の唸りも、猛獣の咆哮から規則正しい心音へと変わっています。重く鈍い振動だけが、ゆりかごのように私たちを揺らしていました。
けれど、その快適さがかえって私を不安にさせるのです。
あまりに静かすぎて、自分の心臓の音まで聞こえてしまいそうでしたから。
ふーっ、と小さな吐息が聞こえました。
後部の居住スペースで、リアが鉄枠の窓ガラスに顔を近づけ、白く息を吹きかけています。彼女は曇ったガラスに指先で小さく丸を描き、その円の中から外を覗き込んでいました。
「……おねえちゃん、みて。おはな、さいてる」
リアが私の袖をちょんちょんと引きました。
彼女の指先は、地下都市の煤汚れがすっかり落ちて、マシュマロのように真っ白です。
私はその小さな手を、壊れ物を扱うようにそっと握り返しました。
「本当。……赤い花。なんて名前なのかな?」
「わかんない。でも、きれい」
リアが花のように笑います。
その笑顔を見るだけで、胸の奥がきゅうと締め付けられました。
アイゼンがいなくなって、世界はただ広く、寒々しい場所になったと思っていました。
けれど今、私の手の中には、確かに温かい体温があります。
この子が笑うなら、私は何だってできる。
たとえ、この右腕が炭になるまで灼かれたとしても――絶対に、この温もりだけは手放しません。
ふと、視線を自分の右腕に落とします。
袖の下には、二つの色相結晶を取り込んだ代償――黒い痣が、二の腕から肩の付け根まで這い上がっていました。
恐怖がないと言えば嘘になります。
けれど、リアの頭を撫でている間だけは、その浸食も「必要な代償」だと割り切ることができました。
アイゼンが私を守るためにその身を錆びつかせたように、私もまた、何かを削らなければ大切なものは守れないのだと、そう自分に言い聞かせます。
その時、車体が小さく跳ね、車輪が泥を踏みました。
窓の外で、茶色い水が跳ねて装甲に張りつく。
煤を落としたばかりの鉄の肌が、また汚れていくのが、なぜか許せませんでした。
「……少し、止めてください」
「は? 今?」
ヴェールさんが面倒そうに減速しました。
外は冷えていました。
けれど車の脇には、どこから湧いたのか浅い水たまりがあり、私は備えの布と水筒を掴んでしゃがみこみました。
泥を拭う。こびりついた汚れを、何度も水で伸ばして落とす。
――アイゼンの装甲を磨く時と、同じ手つき。
「マシロおねえちゃん……それ、すきなの?」
リアは胸元をそっと押さえ、橙の宝物が落ちていないのを確かめてから、また私の隣にしゃがみました。
リアが不思議そうに覗き込むので、私は笑ってしまいました。
「……うん。綺麗にしておくと、帰ってきた時に、迷わないでしょう」
言ってから、自分の胸が少しだけ痛みました。
「チッ……」
穏やかな空気を切り裂くように、操縦席から大きな舌打ちが聞こえました。
ハンドルを握るヴェールさんが、振り返りもせず、鉄枠のガラス越しに鋭い視線を投げています。
いいえ、彼が見ているのは私たちではありません。
地平線の先に現れた「森」を睨みつけているのです。
「おい、マシロ。本当にこのまま進むのか?」
「……ええ。結晶の反応は、この森の奥から出ています」
「俺は反対だ。悪いことは言わねえ、ここで引き返して、別のルートを探そうぜ」
ヴェールさんの声には、いつもの皮肉めいた余裕がありませんでした。
革巻きのハンドルを握りしめる指が、白くなるほど力を込めています。
彼の視線の先にあるのは、荒野の真ん中に突如として現れた、異常なほど鬱蒼とした森林地帯でした。
木々の緑は鮮やかすぎるほど濃く、遠目にも蔦が生き物のように絡み合っているのが見て取れます。
美しいというよりは、何か巨大な内臓の中に入っていくような、生理的な嫌悪感を催す緑。
「どうしてですか? ただの森に見えますけれど」
「ただの森ならいいさ。だが、あそこは……」
ヴェールさんは言葉を濁し、吐き捨てるように言いました。
「……空気が、腐ってやがる」
車が進むにつれ、その言葉の意味がわかってきました。
外気遮断のフィルタを通しているはずなのに、車内に甘ったるい腐敗臭が漂い始めたのです。
熟れすぎた果実と、生乾きの雑巾を混ぜたような臭い。
リアが「変なにおい」と言って鼻をつまみ、私の胸に顔を埋めました。
私は彼女を抱き寄せ、ヴェールさんの背中に問いかけます。
「知っている場所なのですか?」
「……ああ。俺が生まれ、そして捨てた場所だ」
ヴェールさんは速度を落ぼしましたが、車を止めることはしませんでした。
やがて、道は乾いた荒野からぬかるんだ泥地へと変わり、左右から迫り出した巨大なシダ植物が、鉄の装甲を爪のように引っ掻き始めます。
日差しは木々に遮られ、昼間だというのに薄暗い。
ここが、「緑の森」。そして、ヴェールさんが「捨てた」という故郷。
「ようこそ、色漏症の掃き溜めへ」
ヴェールさんが自嘲気味に呟いたその時です。
ライトが照らし出した道の真ん中に、人影が立っていました。
いいえ、それは「人」と呼べるのでしょうか。
半身が木の幹に取り込まれ、皮膚からは苔が生え、それでもなお、虚ろな瞳でこちらを凝視している「何か」。
キキィーッ!
ヴェールさんが、鉄の柩を急停止させました。
リアが小さく悲鳴を上げ、私はとっさに彼女を抱きかかえて衝撃に備えます。
振動が止まると同時に、森の静寂が戻りました。
けれど、その静寂はすぐに破られます。
「……ヴェール?」
ガラガラに枯れた、けれど聞き覚えのある声が、その「木の人」から響いたからです。
ヴェールさんの肩が、ビクリと跳ねました。
「おやまあ、ヴェールじゃないか。……生きていたのかい? 私たちを置いて、お前だけが」
その「人」が、ゆっくりと首を傾げました。
首筋の樹皮がミシミシと裂け、その隙間から、ドロリとした濃緑色の液体が涙のように溢れ出しました。




