第5節:黄金の余熱
鳴り止まない警報と、遠ざかる崩落の音。
私たちは地下都市の裏路地、湿った蒸気が立ち込める配管の影でようやく足を止めました。
「……はぁ、はぁ……。お前ら、マジでいい加減にしろよ……」
ヴェールさんが膝に手をつき、肺を焼くような荒い息を吐き出しました。
その腕の中では、リアがまだ小刻みに震えています。
私は、掌に残る黄金の結晶の重みを感じながら、ゆっくりとリアに歩み寄りました。
「リア、怖かった……ですよね。ごめんなさい」
私の手が届く前に、リアはビクッと肩を揺らし、私の顔を盗み見るように見上げました。
その瞳には、先ほどまでの異常な輝きは消えていましたが、代わりに「知らない人を見るような怯え」が混ざっていました。
私の声が、さっきまで男を灰にしようとしていた、あの冷酷な響きを孕んでいたせいかもしれません。
「……チッ、いつまで突っ立ってんだ。私兵が来る前にずらかるぞ。……幸い、あそこ(カジノ)と仲の悪い『鼠』の宿に知り合いがいる。金さえ積めば、軍隊が来ても口を割らねえ場所だ」
ヴェールさんは奪ってきたカジノの換金チップの束をジャラリと揺らし、昏い笑みを浮かべました。
*
案内されたところは、カジノの騒乱が嘘のように静かな、上層階の宿屋でした。
部屋に入るなり、私はリアに着せられていた豪奢なドレスを、まるで汚物でも触るかのように脱がせました。
シルクの感触は滑らかですが、それは彼女を「商品」として包むための包装紙でしかありません。
「……気持ち悪い匂い。全部、洗い流しましょう」
染み付いた香水の匂い。男たちの視線の記憶。
それらを一刻も早く消し去りたくて、私たちは備え付けの浴室へと駆け込みました。
あたたかい湯気。
リアの細い体を石鹸の泡で包んであげると、彼女はくすぐったそうに、ようやく小さな声を立てて笑いました。
「ふふ……おねえちゃん、泡がいっぱい」
「……ええ。綺麗にしようね、リア。痛いところはない?」
お湯の中で、彼女の体から地下都市の煤と、あの忌まわしい「聖女」の残り香が剥がれ落ちていきます。
髪を乾かしてあげると、銀灰色のボブは驚くほど柔らかく、日向のような匂いを取り戻しました。
リアが先に上がり、私は一人、揺れる湯面に自分の体を沈めました。
温かいはずのお湯が、右腕の痣に触れた瞬間だけ、氷を押し当てられたように冷たく感じました。
(……っ)
指先から始まった「黒い点」は、今や二つの色相結晶を取り込んだ代償として、肘を越え、肩に向かってどす黒い蔓のように這い上がっていました。
(『赤』の怒りに身を任せ、『黄』の強欲を掴み取った代償……)
鏡に映った自分の肩先を、私は震える指でなぞりました。
さっきまでリアを優しく洗っていた手が、今は自分自身を、得体の知れない化物のように拒絶している。
「……おねえちゃん? まだ入ってるの?」
扉越しに聞こえたリアの屈託のない声に、私は慌ててタオルで腕を隠しました。
「今上がるね。……待ってて、リア」
*
湯上がり、ヴェールさんがどこからか調達してきたのは、新しい着替えでした。
「サイズが合うかは知らねえ。……ちょろまかした金で買ってきただけだ」
ぶっきらぼうに投げ出したのは、混じり気のない白のハーフコートと、丈夫なトラウザー。
そして、編み上げの小さな革靴。
さっきまで着ていた高級なシルクに比べれば、生地は厚く、ゴワゴワとしています。
けれどリアは、まるで宝物を見るような目でそれを見つめ、新しい靴にそっと足を通しました。
「……ぴったり。……ねえ、おねえちゃん。リア、これも着ていいの?」
「ええ。とっても似合ってる、リア。服も着てみましょう?」
それは「商品」としての衣装ではなく、家族から贈られた「人間」の服。
リアは嬉しそうに、何度も白いスカートの裾を揺らしました。
「リアとってもうれしい。えへへっ。ありがとう、おにいちゃん!」
「……ケッ、どうせ俺の金じゃねぇ。礼はいらねぇよ」
そして私には……一点の曇りもない、雪のような白のコート。
丈夫な生地で仕立てられた、旅人のための服。
私が今まで着ていたのは、灰の村でテオが貸してくれた、古びた巡礼者のような灰色のローブ。
記憶のない私に、「これでも着てろ」とパンと一緒に投げ与えてくれたあの日以来、何度も繕い、私の背丈にはもう合わなくなっていました。
私はそれを丁寧に、シワを伸ばして畳み、鞄の底へしまいました。
何度も洗って、もうあの村の埃や、テオがくれたパンの匂りはしなくなっていました。
人間だった私。……さようなら。
袖を通し、鏡に映った自分の姿は、まだ見慣れません。
けれど、白く清潔な袖口から覗く、侵食された黒い痣。
そのコントラストが、今の私そのものでした。
ひらりと揺れる白い裾の重みが、今は「一人で歩かなければならない」という私の背中を支えてくれているような気がしました。
*
お部屋に届いたのは、蜂蜜たっぷりのパンケーキでした。
リアはそれを一口食べるたびに、幸せそうに頬を緩ませました。
「ふふっ……リア、美味しい?」
「……! うんっ、マシロおねえちゃん、あまーい!」
リアが満面の笑みで抱きついてきました。
その温もりに、私の心もようやく解けていくのを感じました。
今度こそ、本当の温かい時間。
誰にも邪魔されない、私たちだけの甘い味。
「……おい、マシロ」
隅で酒を煽っていたヴェールさんが、不意に私を見ました。
窓の外では、崩れ落ちたカジノの粉塵が、雪のように舞っています。
「次は『緑』か。……この先の『嫉妬の森』。俺の故郷だ」
彼の瞳に、一瞬だけ鋭い「棘」が宿ったのを、私は見逃しませんでした。
(16.5章 「強欲の女王、盤上の蹂躙」 完)




