第3節:冷めた紅茶と空席
リアが戻ってこない。
5分、10分……。
カップの紅茶が完全に冷え切り、表面に薄い膜が張り始めた頃、私の胸の奥で小さな警鐘が鳴り始めました。
「……リア?」
私は席を立ち、店の奥にある化粧室へ向かいました。
重厚な木の扉をノックします。返事はありません。
嫌な汗が背中を伝います。私は失礼を承知で、ドアノブを回しました。
誰もいませんでした。
狭い個室のドアは全て開いています。
ただ一つ、突き当たりの「搬入用」と思われる勝手口だけが、半開きになっていました。
床には、小さな靴が片方だけ転がっています。
ついさっきまで、あんなに嬉しそうに足踏みをしていた、見慣れたボロボロの靴。
そこから吹き込む風は、パンケーキの甘い匂いをかき消し、路地裏の生ゴミと排気ガスの臭いを運んできていました。
「……嘘」
私は店の中へ戻り、近くにいた蝶ネクタイの店員――さっき銀貨を見て笑顔になった彼――に詰め寄りました。
「あの子は!? 連れの女の子、見ていませんか!?」
「はあ……? ああ、あのお子様なら、裏口から出て行かれましたよ」
店員は、グラスを拭きながら億劫そうに答えました。
その目には、先ほどの愛想の良さは微塵もありません。
あるのは、この地下街特有の「無関心」という名の冷たさだけでした。
「出て行ったって……あの子が勝手に行くわけない! 誰か一緒じゃなかったですか!?」
「さあね。……お客様、ここは『オーラム・ヴァレー』ですよ。迷子のガキが一人で歩いていたら、掃除業者に回収されるのがルールだ」
「回収……?」
「商品価値のありそうな迷子は保護して、然るべき場所に卸す。この街の治安維持です。……お連れ様、見た目は汚れているが、上玉のようでしたから」
店員はグラスを置き、薄ら笑いを浮かべて私を見下ろしました。
「高く売れるんじゃないですかね……まあ、貧乏なあなたには関係のない話でしょうが」
カッ、と頭に血が上りました。
ドクン!!
右腕の血管が熱く脈打ちます。
(※設定参照:痣は既に肩口まで到達しており、激しい拍動が服の上からでも視認できる状態)
殺意が、視界を赤く染め上げようとしました。
罠? いいえ、違います。私がこの店を選び、私がこの席に座らせたのです。
さっきまで、私たちが「美味しいね」と笑い合っている間、この男はずっと品定めをしていたのか。
リアが「ごちそうさま」と手を合わせたあの瞬間も、この男には「商品」の値踏みにしか見えていなかったのか。
あの甘い時間も、温かいパンケーキも。
全部、この街の欲望の前では、ただのゴミ屑だったのです。
「……ふざ、けないでっ!!」
私はテーブルに置かれた冷めた紅茶をなぎ倒し、店を飛び出しました。
ガシャンッ! とカップが割れる音が、私の理性が砕ける音のように響きました。
「リア!!」
大通りに出ても、そこにあるのは光の洪水と、仮面をつけた人々の波だけ。
誰も私を見ません。誰も立ち止まりません。
少女が一人消えたくらい、この街では日常茶飯事なのです。
「リア! どこ……っ!」
右往左往する私の腕を、誰かが強い力で掴みました。
「――おい、落ち着けバカ女!」
「っ、離して! リアが、リアが……!」
「俺だ! 静かにしろ、目立つとまた狩られるぞ!」
頬を張られるような低い声。
涙で滲んだ視界に、帽子を目深に被ったヴェールさんの顔が映りました。
彼は私の腕を引き、強引に路地裏へと引きずり込みました。
「ヴェールさん……! ごめんなさい、私、油断して……リアが……!」
「……チッ。あの店に入っていくのが見えたから嫌な予感はしてたんだ。この街で『迷子』は一番の金ヅルだぞ」
ヴェールさんは舌打ちし、震える私の肩を乱暴に揺さぶりました。
「泣いてる場合か。……あいつの『黄金の瞳』だ。普通の売春宿や労働施設には流されねぇ。もっと値がつく場所へ運ばれたはずだ」
「値がつく場所……?」
「ああ。この街の心臓部――『ゴールデン・パレス』だ」
ヴェールさんが顎でしゃくった先。
街の中央にそびえ立つ、巨大な黄金の塔が、威圧するように輝いていました。




