第2節:『雪解けの甘さ』
しばらくして運ばれてきたのは、湯気を立てる幸せの塔でした。
お皿の上でフルフルと揺れる、分厚い三枚のパンケーキ。その頂上から、熱で溶けたバターが雪崩のように滑り落ち、琥珀色の蜂蜜と混ざり合って、お皿の海へと広がっていきます。
甘い。匂いだけで、脳が痺れるほど甘い香りがしました。
「おねえちゃん、これ、ほんとうにたべていいの?」
「もちろん。全部、リアのだよ」
私がナイフとフォークを取り分け皿に乗せて渡すと、リアはごくりと喉を鳴らしました。
そして、震える手でケーキを一切れ切り出し、大きな口を開けて頬張ります。
「……んぅっ!!」
リアの目がまん丸に見開かれました。次の瞬間、その頬がとろけるように緩みます。
「おいしい……っ! なにこれ、とけちゃう! 雲みたい!」
「ふふ、雲を食べたことあるの?」
「ないけど! でも、きっとこういう味がするの!」
リアは足をバタバタさせて喜びました。その笑顔には、昨日までの怯えや影は微塵もありません。ただ純粋に、甘いものへの感動だけが輝いています。
ああ、よかった。私はその様子を見て、ようやく、心臓に刺さっていた氷柱が溶けたような気がしました。
「マシロおねえちゃんも! はい、あーん!」
リアがフォークに刺した切れ端を、私の口元に差し出してきました。私は少し躊躇いましたが、彼女のキラキラした瞳に押されて、口を開けました。
ぱくり。温かいスポンジが、舌の上で解けました。卵の風味と、蜂蜜の濃厚な甘さ。
それは、私の疲弊した心に一つ一つに染み渡るような、優しくて温かい味でした。
「……うん。美味しいね」
「でしょ! えへへ、あまいねぇ」
クリームで口の周りを白くしたリアが、ケラケラと笑います。私もつられて、小さく笑いました。笑ったのは、いつぶりでしょう。
窓の外では、黄金色のネオンが煌めき、仮面をつけた人々が欲望を求めて彷徨っています。けれど、この小さなテーブルの上だけは、世界で一番平和な場所でした。
アイゼンはいません。車も壊れています。それでも、こうして温かいものを食べて、笑い合うことができる。
(……焦らなくて、いいのかもしれない)
ふと、そんな思いがよぎりました。アイゼンを治すのは大切です。でも、そのためにリアの笑顔を潰してしまったら、アイゼンはきっと悲しむでしょう。少し休んで、またゆっくり進めばいい。ヴェールさんも、車も、そして私も。
私はカップを持ち上げ、甘いミルクティーを一口飲みました。温かさが喉を通り過ぎていきます。
「……」
ふと見ると、最後の一切れを平らげたリアが、フォークを置いてモジモジと身体を揺らしていました。さっきまでの笑顔が消え、顔を真っ赤にして、膝をすり合わせています。
「リア? どうしたの。お腹痛い?」
「う、ううん……ちがうの」
リアは消え入りそうな声で首を振り、私の袖をちょんちょんと引っ張りました。そして、誰にも聞かれないように、内緒話をするように囁きます。
「……あのね。……おトイレ、いきたいの」
リアの可愛らしい内緒話に、私は思わず頬を緩めました。
「ああ……そっか。お手洗いね」
私が小声で尋ねると、リアはコクンと頷き、恥ずかしそうに肩をすくめました。なんて可愛いんでしょう。こんな小さなレディの慎みを、私は微笑ましく思いました。
「ごめんね、気づかなくて。……一緒に行こうか?」
「ううん。お店の中だもん、へいき」
リアは椅子から飛び降りると、小走りで店の奥にある化粧室へと向かっていきました。
「ふふっ、可愛い……」
私は小さい後ろ姿を見送りながら、カップに残った紅茶を飲み干しました。店内は明るく、店員さんの目もあります。ここなら安全でしょう。
そう。ここなら安全だと、油断していました。この街が「強欲」の坩堝であり、輝くもの――黄金の瞳は、誰かの所有物として常に狙われている場所だということを、甘いパンケーキの味ですっかり忘れてしまっていたのです 。




