第4節:壊れた硝子の沈黙
どれくらいの時間が経ったのか。アイゼンの足元から響いていた慟哭は、次第に嗚咽へと変わり、やがて糸が切れたような寝息へと溶けていきました。アイゼンの眼に灯った青い光が、眠るリアの頬を優しく撫でるように揺れました。その光は、私が注いだ命の色。彼が私の代わりに、リアの絶望を鎮めてくれているようでした。
彼がゆっくりと、その巨大な体を起こします。そこには、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしたリアが、泥のように眠っていました。熱は完全に引いています。けれど、その寝顔には以前のような無邪気な安らぎはありません。眉間に深い皺を寄せ、何かから逃げるように体を小さく丸めています。
「……おい」
低い声が、静寂を破りました。ヴェールさんです。一瞬だけ、リアの寝顔に視線を走らせてから、真っ直ぐに私だけを睨みつけていました。その瞳には、恐怖と、軽蔑と、理解しがたいものを見るような色が混ざっています。
「お前、あいつに何をした?」
「熱を下げ、砂の毒を中和しました。それだけです」
私は淡々と答え、アイゼンの影に隠れるようにして、震える体をさすりました。寒い。骨の髄まで凍りつきそうです。リア一人分の「色」を補うために、私の体温の半分以上を持っていかれた気分でした。
「『それだけ』なわけあるかよ」
ヴェールさんが一歩、詰め寄ります。
「あいつは叫んでたぞ。親に捨てられたとか、笑顔がどうとか……。お前が色を入れた瞬間、あいつの中で『何か』が弾けたみたいにな」
「……彼女が忘れていた真実が、毒と一緒に吐き出されただけです」
「真実だぁ?」
ヴェールさんは呆れたように鼻を鳴らし、自分の乱れた髪を乱暴にかき上げました。
「お前……自分でも気づいてないのか? お前がやってるのは『治療』じゃねぇよ。無理やり傷口をこじ開けて、中の膿をぶちまけてるだけだ。……確かに命は助かったかもしれねぇが、ありゃあ見てて気分のいいもんじゃねぇな」
彼の言葉は、ナイフのように的確でした。救済=暴力。ヴィオラさんが言いたかったことの一端を、私は今、自らの手で証明してしまったのです。
「それでも、生きていなければ意味がありません」
私は、眠るリアを抱き上げました。予想以上に軽く、そして温かい。私が失った熱が、この子の中で脈打っている。その事実だけが、今の私を支える唯一の理屈でした。
「行きましょう。……ここに留まれば、また彼らが来るかも……」
私は彼に背を向け、歩き出しました。アイゼンが、無言で私の後ろに続きます。ヴェールさんはしばらくその場に立ち尽くしていましたが、やがて「チッ、これだから魔女は」と悪態をつき、重い足取りでついてきました。
暗渠の先。微かに風の流れが変わりました。湿った空気の中に、錆びた鉄と、どこか懐かしい雨の匂いが混じっています。長い闇の道を進むうちに、リアの瞼が微かに震えました。
「……ん……おねえちゃん?」
小さな声。私は歩みを止め、彼女を見下ろしました。熱は下がっていますが、その黄金色の瞳はどこか虚ろで、焦点が定まっていません。
「起きた?……大丈夫、私がいるわ」
「……ここ、どこ?……おかあさんたちは?」
「……」
彼女の記憶は混濁しているようです。先ほどの絶叫を覚えているのか、それとも忘れてしまったのか。私は彼女を地面に降ろしましたが、リアは力なく私の服の裾を握りしめ、縋るように体を預けてきました。まるで、離れたら二度と戻れないと恐れるように。
「……こわいよぉ……おねえちゃん……」
「大丈夫。私が守るから」
私は彼女の小さな手をぎゅっと握り返しました。その手は温かいけれど、震えています。私が与えた「真実」の棘が、まだ彼女の心に深く突き刺さっているのです。
やがて、私たちは分厚い鉄の隔壁の前に辿り着きました。ヴィオラさんの言う「境界層への入り口」です。分厚い鉄の扉には、警告の赤い文字が錆びついたまま残っています。その時、耳の奥でジジ、と雑音が走りました。
『――聞こえるかしら?』
私は思わず耳に手を当てました。ヴィオラさんの声です。
『そんなに驚かないの。……骨董品だから、動作確認くらいさせなさい』
彼女の声は、いつもの紫煙混じりのだるそうな調子でした。
『いい、マシロ。ここから先は私の管理圏外よ。境界層に入れば通信が途切れる。……聞こえなくなったら、アイゼンを信じなさい』
「……はい」
『ヴェールも聞きなさい。チビ(リア)の面倒はあんたの仕事よ。マシロは自分のことで手一杯だから、足手まといにならないように』
「ケッ、うるせぇな」
ヴェールさんが舌打ちしますが、素直に頷いています。しばしの沈黙。紫煙を吐き出す音が、微かに聞こえた気がしました。
『……それと』
ヴィオラさんは、らしくもなく言葉を探しているようでした。
『――壊れて戻ってきても、いいわよ。部品が足りないなら、また拾ってきてあげる』
それは命令ではなく、不器用な許可のように聞こえました。
『じゃ、せいぜい死なない程度に頑張りなさい。……ほら、さっさと行きなさい』
プツリ、と通信が切れました。照れ隠しのような、ぶっきらぼうな切り方でした。
第8章 「痛みの羽化」 完




