第1節:偽りの揺り籠
灰色の街を背にして、どれくらい歩いたでしょうか。私たちは、汚水が流れ込む、暗い地下水路のほとりに出ました。ピチャ、ピチャ、という水の音に混じって、「歌声」が聞こえてきました。
それは、教団の兵士たちが叫ぶ勇ましい賛美歌ではありません。母親が子供を寝かしつけるような、甘く、優しい子守唄。
「……誰だ」
ヴェールさんが即座にランタンの光を絞り、短剣を構えました。私たちは息を殺して、水路の曲がり角を覗き込みました。
年齢は、私と同じくらいでしょうか。そこに、一人の女性がいました。
水草のように長く、色素の薄い藍色の髪が、湿った白い頬に張り付いています。ボロボロの修道服のような布を纏い、泥水を踏む裸足は、凍えるように青白い。
彼女の周りだけ、闇が濃くなっているようでした。私の白さがすべてを反射し拒絶する色なら、彼女の藍色はすべてを飲み込み、底へ沈める色……。
彼女は、壁に埋もれて砂になりかけている「死体」の前に跪き、その干からびた頬を優しく撫でていました。
「……優秀な検体。貴方の色は、すべて塔へ還った」
「……痛みは消失。残存するのは、名誉ある献身のみ」
女性――は、うっとりとした表情で、死体に語りかけていました。その顔には、慈愛と狂気が同居しています。彼女は本気で、この餓死した人々を「幸福だ」と信じているのです。
彼女がゆっくりと振り向き、私たちを見つけました。
その瞳は、深海のように暗い群青色。長いまつ毛の奥から覗く、感情の抜け落ちた冷たい視線が、私たちの方をゆらりと向きました。まるで、深海魚が獲物を見つけた時のような、静かで不気味な眼差しでした。
「……ん? 反応。……そこにいるのは、迷子の羊?」
彼女は、まるで古い詩を口ずさむような、抑揚のない声で続けました。
「……私はアズール。深き青の底で、安らぎを綴る者」
細められた目が、三日月のように歪みます。
彼女は汚れた地下水路を見渡し、悲しげに微笑みました。
「ここは『吹き溜まり』。光が届かず、絶望した魂の廃棄場。……だから私が、光を届けている」
「……孤独。恐怖。……さあ、貴方たちも」
「……っ」
私の腕の中で、リアがビクリと跳ねました。熱に浮かされていた彼女が、その声に反応して目を開けてしまったのです。
「……あず、さま……?」
その小さな声を、女は聞き逃しませんでした。彼女は音もなく立ち上がり、滑るようにこちらへ近づいてきました。ヴェールさんが私の前に立ちはだかりますが、彼女は気にする素振りも見せません。彼女が見ているのは、私に抱かれたリアだけでした。
「……哀れ。黄金の瞳に濁り。……痛みは? 苦しみは?」
「……こっちに。帰還。……父母も、塔で待機している」
甘い毒のような声。それが、リアのトラウマの蓋をこじ開けました。
「……か、えり……たい……」
「だめ! 聞いちゃだめ、リア!」
私は叫び、リアの耳を塞ぎました。けれど、アズールは憐れむように首を傾げました。
「……なぜ妨害する? 両親は、立派な『礎』になった。……最後の一滴まで絞り出し、塔と融合した。……それは、至上の幸福」
「ふざけないで!」
私が叫ぶより先に、ヴェールさんが短剣を投げました。
キンッ! 短剣はアズールの足元のコンクリートを砕きました。
「消えろ、カルト女。……俺のナイフは、女だろうが容赦なく色を奪うぞ」
ヴェールさんの殺気。それに気圧されたのか、あるいは「種」はもう蒔いたと判断したのか。アズールは口元に手を当て、くすくすと笑いました。
「……野蛮な狼。……記憶しなさい。色は奪うものではない。……捧げるもの」
「――待っている。黄金。……貴方が自ら、その身を献上しに来る日を」
言い残し、彼女は暗闇の奥へと消えていきました。残されたのは、甘い子守唄の余韻と、ガタガタと震え出したリアの嗚咽だけ。
「……ぅ、あ……ああぁ……っ!!」
「リア!?」
「いやだ……いやだぁ……おかあさん、しなないでぇ……ッ!!」
アズールの言葉が引き金になり、リアの中で過去が暴走を始めました。彼女の体温が急激に上がります。ここから先は、もう言葉では届かない。私は覚悟を決めて、自分の包帯を解きました。




