8:名前のない白
その夜。ガサリ、と小さな音がした。崩れかけた壁の隙間から、月明かりと共に小さな影が滑り込んできた。テオだった。
「……起きてるか?」
彼は周囲を警戒しながら、懐から布包みを取り出した。中には、石のように固い黒パンと、少しの水が入った水筒。
「これ……食っていいよ。俺、もう食ったから……。親父にバレたら面倒だけど」
少女はパンを見つめ、それからテオを見た。どうすればいいのか分からない。テオは苛立ったようにパンを割り、少女の口元に押し付けた。
「食わなきゃ死ぬぞ……。いいから、食えって」
その言葉に、少女の生存本能が反応した。彼女はパンにかじりつき、水を貪るように飲んだ。味なんて分からない。ただ、胃の腑に落ちた固形物が、消えかけた命の火を強引に焚きつけるのを感じた。
「……へへ、腹減ってたんだな。よかった」
テオは呆れたように笑い、そして膝を抱えて彼女の顔を覗き込んだ。
「なぁ、お前。名前は?」
少女はパンを食べる手を止めた。名前。呼ばれていた「何か」ならあった気がする。でも、それは思い出せない。
「……ない」
「ない……? じゃあ、どこから来たんだ? 覚えてないのか?」
「……わからない」
「記憶喪失……? マジかよ……。じゃあ……うーん」
テオは唇を尖らせ、少女の透き通るような銀髪を指先でつまんだ。月明かりの下、その髪だけが、汚れた世界で唯一、雪のように白く輝いている。
「……じゃあ、『マシロ』だ」
「マシロ?」
「……『マシロ』だ。髪が真っ白だから。変かな……でも、綺麗だろ?」
少年はニカっと笑った。その笑顔は、灰色の世界には似つかわしくないほど無防備で、残酷なほど無邪気だった。
「マシロ……」
少女は舌の上でその音を転がした。空っぽだった器に、最初の一滴が落ちた気がした。悪くない響きだった。
「私は、マシロ」
「おう。俺はテオだ。よろしくな、マシロ」
テオは彼女の手を取り、力強く握った。その手はザラザラしていて、少し汗ばんでいて――塔のガラス越しには決して感じられなかった「人間の温度」がした。




