第5節:硝子越しの共犯者
食後、私たちは出発の準備に取り掛かりました。
ヴィオラさんは「塔」へ行くという決断と共に、工房の設備を停止させました。
しかし、彼女には致命的な問題がありました。
「私の体は、この工房の調整槽に浸かってないと、三日でガラクタになる」
彼女は自分の首筋にある、古びた接続端子を指差しました。
「だから、これを持っていくわ」
彼女が指差したのは、工房の隅にある巨大な金属の箱。
生命維持装置と冷却ファンがついた、移動式のメンテナンスポッド。
それはまるで、鋼鉄の「棺桶」でした。
「これを鉄の柩に積みなさい。移動中は私がこの中で眠る。……やれやれ、これじゃ私もお荷物ね」
ヴィオラさんが自嘲気味に笑いました。
「そんなことないです! ヴィオラさんがいないと、始まりませんから!」
リアが元気よく言いました。
「うん! おひるねマシーンだね! かっこいい!」
ヴェールさんと私が協力して、重たい「棺桶」を車の後部スペースへ積み込みました。
これで、役者は揃いました。
あとは、主役を連れていくだけです。
工房の最奥。
あの時、別れを告げた場所。
巨大な円筒形の水槽は、薄暗い闇の中に沈黙していました。
分厚いガラスの向こう、冷却液の中で、彼は眠っています。
錆びついた装甲。欠けた指先。
ボロボロの、私の騎士。
「……あ」
その光景を見た瞬間、私の脳裏に、遠い記憶が蘇りました。
既視感。
いいえ、これは私の始まりの記憶。
――そこは、世界で最も鮮やかで、最も冷たい場所でした。
天を衝く塔の最上階。
かつての私は、今こうして彼が眠っているように、無数の管に繋がれ、淡い光液の中でまどろんでいました。
塔を維持するための「部品」。自我など不要な「器」。
けれど、私は目を開けました。
ガラスの向こうに、白銀の巨像が立っていたからです。
守護騎士・アルジェント。
彼は直立不動で、呼吸する彫像のように、決して私から視線を逸らしませんでした。
言葉はいらない。
互いが互いを「部品」ではなく「命」として認識している――その秘密の共犯関係だけが、あの無機質な世界で唯一の救いでした。
(……逆だね、アイゼン)
私はガラスに手を添えました。
あの日は、私が中。貴方が外。
でも今は、貴方が中で、私が外。
冷たいガラスの感触だけが、あの日と同じです。
でも、一つだけ違うことがある。
「……もう、見ているだけじゃない」
私は、ガラスに額を押し当てました。
右腕が、胸が、全身が熱い。
集めてきた、七つの色。
あの日の私が持っていなかった、怒りも、悲しみも、欲望も、愛も。
私たちが人間として生きてきた「熱」が、今、指先から溢れ出します。
(届いて)
祈るように、念じました。
私の体の中にある虹色が、硝子越しに、彼の中へ染み込んでいく幻覚を見ます。
それは魔法でも技術でもなく、あの日ガラス越しに重ねた掌の、その続きでした。
――ドクン。
水槽の中で、何かが跳ねる音がしました。
凍りついていた冷却液に、ポコポコと気泡が生まれます。
ギィ……。
錆びついた関節が、悲鳴のような音を立てて動きました。
眠っていた巨人が、ゆっくりと、本当にゆっくりと、硝子の向こうから私を見下ろします。
その瞳に、弱々しい、けれど確かな青い光が灯りました。
「……あ……」
パキ、パキパキ……。
内側からの熱で、強化ガラスに亀裂が走ります。
彼はもう、ガラス越しに見つめるだけの騎士ではありませんでした。
パリーンッ!
破砕音と共に、冷却液が濁流となって溢れ出しました。
私はヴェールさんに背中を掴まれ、とっさに後ろへ引かれました。
床に広がる水たまりの中、巨体が膝をつきます。
シューッ……と、全身から白い蒸気を上げながら、その鉄の塊は震えていました。
治ってなんていません。
装甲は剥げ、配線は切れかけ、油と水の混じった黒い液体がボタボタと滴り落ちています。
それでも、彼は顔を上げました。
そして、軋む右腕を、ゆっくりと私の方へ差し出したのです。
「……馬鹿な」
背後で、ヴィオラさんが息を呑む気配がしました。
「魂の定着層は崩壊寸前のはず。論理的には、動くはずがない……!」
でも、私には分かります。
彼は「機能」で動いているんじゃない。
あの日、ガラス越しに交わした「約束」だけで、その体を支えているのです。
「……うん」
私は水たまりの中へ踏み出し、差し出されたその手を、両手で包み込みました。
冷たくて、ゴツゴツして、錆びた泥だらけの手。
でも、あの日の白銀の騎士よりもずっと温かい。
「行こう、アイゼン」
私が言うと、彼は言葉を発することなく、ただ一度だけ、強く握り返してくれました。
その感触だけで、十分でした。
純正炉は、遥か頭上。
塔の頂きにある、すべての始まりの場所。
そこへ辿り着くのが先か、この体が壊れるのが先か。
私たちは泥だらけの足を上げ、最後の階段へと向かいました。
第23章 「硝子越しの共犯者」 完




