第3節:道化師の休息
書斎を出て、サロンへ移動した直後でした。
「……っ、くそ」
ヴェールさんの膝が、音もなく折れました。
雪原での無茶が、今になって彼の体を蝕んでいるのです。
彼は倒れ込むように、そばにあった紫色のベルベットの長椅子に体を預けました。
「ヴェールさん!」
「騒ぐな、ちょっと目眩がしただけだ……。座り心地のいい椅子じゃねえか」
彼は強がりましたが、その左腕からは、まだ制御できない「色」が漏れ出しています。
ポタリ、ポタリ。
包帯の隙間から、濁った絵の具のような雫が滴り落ちます。
それは、高貴な紫の布地に落ち、見るも無惨な黒いシミを広げていきました。
「……あーあ。やっちまった。国宝級の椅子が台無しだ」
ヴェールさんが自嘲気味に笑い、慌てて体を起こそうとしました。
この館の完璧な美しさを、自分の「汚れ」が侵してしまったことへの、彼なりの引け目なのでしょう。
私は、その痩せた肩を強い力で押しとどめました。
「そのままでいいです。休んでください」
「おい、汚れるぞ。ここは貴族様の別荘だぜ? 俺みてえなのが寝ていい場所じゃ……」
「いいえ」
私は首を横に振りました。
かつて、ブランシュはこれを「汚物」だと断じました。
この館の住人たちも、きっと眉をひそめるでしょう。
けれど、私には分かります。
「その汚れは、貴方が私を守るために戦って、生きて、流してくれた色です。
……この館にある、どんな綺麗な調度品よりも、そのシミはずっと価値がある」
私はポケットからハンカチを取り出し、彼の額に浮かんだ脂汗を拭いました。
紫の椅子に残る、どす黒いシミ。
それは、300年間止まっていたこの館に刻まれた、最初の「生きた痕跡」でした。
永遠に変わらない紫の世界に、私たちが確かに爪痕を残したのです。
「……へっ。お前も随分と悪趣味な女になったな」
ヴェールさんは呆れたように目を閉じ、深く息を吐き出しました。
その顔には、皮肉の色は消え、少しだけ安らかな色が戻っていました。




