第7節:非合理な証明
「……う、あ……」
頬についた涙の熱が、急速に広がっていきます。
それは「橙」の魔法的な熱とは違う、もっと泥臭くて、生々しい**「体温」**でした。
ドクン。
凍りついていた心臓が、無理やり動かされたように跳ねました。
(……私は、何をしようとしていた?)
視界の端で、雪に埋もれかけているヴェールさんが見えます。
彼は笑っていました。諦めと、自嘲と、そして少しの安堵を浮かべて。
まるで、「マシロが非情になれてよかった」とでも言うように。
――その顔を見た瞬間、私の脳内で「正しさ」の定義が逆転しました。
「……ちがう」
私は呻きました。
アイゼンは、私を「機能」で選んだわけじゃない。
私が「世界を救う鍵(部品)」だから守ったんじゃない。
何の役にも立たない、ただ泣いているだけの私を、彼は守ってくれた。
もし「効率」が全てなら、アイゼンはとっくに私を捨てていたはずです。
なら、私が今やろうとしていることは――アイゼンの否定だ。
「……うあああああっ!! 」
私は叫び声を上げ、車から飛び出しました。
雪の中を転がりながら、ヴェールさんの元へ走ります。
「マシロ……?」
彼が驚いた顔をする間もなく、私はその胸ぐらを掴み、力任せに引きずり起こしました。
「戻ってください! 乗ってください!」
「はあ? おい、お前正気か? 計算はどうした」
「計算なんか知らない! 間違ってました! ロジックが全部ボロボロです!」
私は彼を無理やり助手席に押し込みました。
涙が止まりません。寒いのか、悔しいのか、悲しいのか分からないけれど、ただ涙が溢れてきます。
「あなたは荷物です! お荷物です! 壊れかけで、口が悪くて、燃費も最悪です!」
私は泣きながら、ヴェールさんに怒鳴りつけました。
「でも! あなたがいないと、リアが泣くんです! リアが泣いたら、私が困るんです! だから……だから、連れて行きます!」
なんて非合理な理屈。
でも、それが今の私の出した、たった一つの**「解」**でした。
バタン! ドアを閉め、再び車内へ戻ります。
空気はまだ冷たいままですが、先ほどまでの「死んだような静寂」は消えていました。
リアが「よかったぁ」と泣きじゃくり、ヴェールさんが「……ったく、理屈の通じねえ魔女様だ」と苦笑いしながら頭を掻いています。
その時です。
猛吹雪が一瞬だけ、嘘みたいに静まりました。
空気が重く沈み、耳鳴りが止む。
――カチリ。
右腕の侵食の隙間で、何かが「結晶化」する音がしました。
右腕を見ると、どす黒い侵食の隙間に、深く、澄んだ「藍色」の結晶が輝いていました。
「……なんで」
私は呆然としました。私は「理性」を捨てたはずです。
感情に流され、非効率な選択をしました。なのに、なぜ?
脳裏に、静かな声が響きました。
『認証:深度ロジック』
『短期的な損耗を許容し、長期的な精神支柱を維持する選択を確認』
『それは、機械には導き出せない、人間だけの論理』
――ああ、そうか。
本当に賢いということは、損得だけで動くことじゃない。
「大切なものを守るために、あえて損をする」
それこそが、人が人として生きるための、一番高度な理性なんだ。
藍色の結晶が、静かに脈打ちます。
それはもう、私を凍らせたりしません。
深海の底のように静かで、けれど決して揺らがない**「覚悟」**の重さが、私の右腕に宿っていました。
「……行こう」
私は涙を拭い、推力桿を握りました。
「全員で、行くよ」
駆動炉が唸りを上げます。
鉄の柩は雪煙を上げ、藍色の氷原を切り裂いて進み始めました。
目指すは最後の色。
高貴で、残酷な**「紫」**が待つ洋館へ。
第20章 「涙の計算式、青の解」 完




