第2節:深海の水族館
螺旋階段を降りると、そこは呼吸を忘れるほど美しい「青」の世界でした。
ドームの内部は、水漏れ一つしていません。
古代の技術なのか、あるいは結晶の力が働いているのか、完璧に密閉された空間です。
天井も壁も、すべてが強化ガラスで覆われていました。
水に沈んでいるはずなのに、呼吸もできる。不思議な世界。
ガラスの向こう側――つまり湖の中には、太陽の光が届かない群青色の闇が広がっています。
ゆらり。
窓の外を、見たこともない巨大な影が横切りました。
退化した目を持つ深海魚たちです。
彼らが放つ淡い燐光だけが、この図書館を照らす明かりでした。
「すげぇな……。まるで水の中にいるみたいだ」
ヴェールさんが感嘆の息を漏らしました。
見渡す限り、本、本、本。
何万、何億冊という書物が、螺旋状の書架にぎっしりと詰め込まれ、どこまでも下の階層へと続いています。
ここは、滅びる前の文明が残した記憶の貯蔵庫。
そして、今は誰も訪れることのない、言葉の墓場。
「……しずかだね」
「ええ。静かすぎて、耳が痛いくらい」
リアが私の手を強く握りました。
私たちの足音だけが、コツ、コツと反響して吸い込まれていきます。
埃ひとつない床。カビの匂いもしない。
ここでは「時間」そのものが、標本のように止まっているようでした。
ヴェールさんが周囲を警戒しながら先へ進む中、リアがふと、一箇所の書架の前で足を止めました。
「……ねぇ、おねえちゃん。これ、きれい」
リアが指差したのは、背表紙が黄金色の糸で綴じられた、一冊の古い絵本でした。
私は足を止め、彼女の隣に並びます。
本来、ここは「塔」の管理区域。勝手に物に触れるのは危険ですが、その本には不思議と「毒」の気配がありませんでした。
むしろ、迷子の子供を招き入れるような、温かな誘惑が。
「……読んで、いい?」
「うん……少しだけなら……。すぐに出発するわよ」
リアは慎重に、けれど嬉しそうにその本を棚から引き抜きました。
その瞬間、どこかで『カチリ』と、小さな時計の針が動くような音が響いた気がしました。
リアは本を胸に抱きしめ、熱心にページをめくり始めます。
まだ文字が完璧には読めないはずなのに、彼女は食い入るように挿絵を見つめていました。
「……あとで。これ、もってかえってもいい? おねえちゃん、これ、かりたい」
「……借りる? 誰に?」
「わからない。でも、ここにだれか、もちぬしさんがいるきがするの。……いい?」
彼女の黄金の瞳に宿った、純粋な好奇心。
困惑する私を余所に、前を歩いていたヴェールさんが足を止め、肩越しに鼻で笑いました。
「ケッ、律儀なガキだな。……そんなに借りたいなら、その裏表紙に挟まってるカードに名前でも書いとけ。そいつが『借りた』って証拠になる。泥棒扱いされるよりはマシだろ」
「カードに……なまえ?」
リアはヴェールさんに言われた通り、本の裏表紙にある小さなポケットから、真っ白な厚紙を引き出しました。
「……お、ー、れ、り、あ……。かけたよ、おねえちゃん!」
たどたどしい筆致で書かれた、彼女の本名。
リアは満足そうに微笑むと、そのカードを元のポケットへ戻し、本を大切に自分のカバンへと仕舞い込みました。
その時でした。
耳を澄ますと、聞こえてきたのです。
本の森の奥深く、最下層の広場から。
誰かが、何かを朗読しているような、穏やかで優しい声が――。




