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何度でも(香代の兄視点)

 彼は困っていた。もうすぐ二歳になる愛娘がまったく彼の言うことを聞いてくれないからだ。


「佳奈、今日はその子にお留守番をして貰おう」

「いーやっ!」


 なるべく優しく言い聞かせたのだが、返ってきたのは全力の否定だった。

 最近、文節を繋げて話せるようになってきたのだが、一言だけで、そっぽを向く。

 交渉する気はないと態度で示している。


 佳奈は腕の中に収まりきらないほど大きなマレーバクのぬいぐるみを抱えていた。

 去年、初めての誕生日プレゼントとして贈られたものの中で一番のお気に入りだ。

 毎日出かけるときも寝るときも片時も離さない。

 しかし、今日は流石にまずい。

 佳奈はまだ諦めていない彼の気持ちに気づいているのか油断なく睨みつけている。


「あら、佳奈。今日も一緒にお出かけするの?」

「うんっ!」


 身支度を整えた妻がリビングに来て、佳奈に訊くと、力強く頷いた。

 母親を味方にしたいらしい。

 もうこの年で父親は母親に逆らえないと知っているようだ。

 実際、現れた妻を見て「どんな格好をしても綺麗だな」と見惚れていたので否定できない。


「今日は駄目だよ。ほら、ここに置いて日向ぼっこをさせてあげよう」

「いやっ!」

「ふふ……。どうしても嫌みたいよ。いいじゃない。連れて行きましょうよ。香代ちゃん、きっと喜ぶわ」


 妻がそう言ったので、ぬいぐるみは許された。

 我が家の正義は妻にあるのだ。

 飛び跳ねて喜ぶ娘を尻目に彼は粛々と外出の準備を進めた。行き先は実家で、今日は泊まる予定になっている。旅行鞄や土産などを車に詰めて、はしゃぐ娘をチャイルドシートに固定する。


 実家へは車で三十分ほどだ。道も空いていたので時間通りに到着した。いつもの場所に駐車して、いつもとは異なる様子の実家を訪ねる。

 スーツを着た人々が準備に忙しなく動いていた。


 今日は、妹の香代の一周忌だ。


 香代は一年前、線路に落下した女子高生に突き飛ばされる形で一緒に落下し、電車に轢かれて亡くなった。

 まだ二十七歳だ。

 元気で病気知らずの香代を襲った不幸に家族全員呆然とした。

 特に両親の憔悴は激しく、香代が亡くなった当時、彼は様々な手続きを代行した。

 忙しく、香代の死を実感したのは娘の誕生日プレゼントが届いた一カ月後のことだ。


 呑気な顔のぬいぐるみを喜ぶ娘の姿を見て、怒りが沸いた。

 香代が生きていれば今頃テレビ電話で直接この娘の姿を見せられたのに。何故香代が死なねばならなかったのか。

 彼はまず、香代が死ぬ原因となった女子高生を調べることにした。

 SNSで検索すれば彼女の名前はすぐ出て来た。山口美織という名で裕福な家庭で何不自由なく育ったらしい。


 未成年の情報がこうも簡単に出て来ることを不審に思い、さらに詳しく調べると、美織はあの事件のあと行方不明になっているということがわかったのだ。

 本当か嘘かはわからないが、電車と接触する前に美織だけが消えたという目撃者の投稿があった。


 さらに、美織の行方不明をネタにした怪談や異世界転移しただなんて与太話がゴロゴロ出て来たところで調べるのをやめた。

 こんなことを調べても香代が亡くなった事実は変わらないと、冷静になったのだ。

 幸い香代は美織のようにプライベートが公開されたり、怪談のネタにはなってはいなかった。


 美織の家族はこの現状をどう思っているのだろうか。

 この混沌とした有様を知らないのか、知っていてももう対処できないのか。

 どちらかわからないが、遺族の心を傷つけるだろう。

 生きているのか、死んでいるのかまだわからない上、知らない他人におもちゃにされているのだ。


 香代は亡骸だけでも彼らの元に戻って来てくれたが、そうでなかったら家族はどうなっていただろう。

 両親は、きっと見つかるまで探し続ける。彼と弟もきっと協力するに違いない。

 探して結果が出ればいいが何も得られないまま時間だけが過ぎるというのは想像だけでも苦しい。


 現実は二度と香代に会えないことが確定してしまって悲しいし、苦しいし、思い出すと涙が出る。だからどちらの苦しみがましかと訊かれてもわからない。

 ただ、一年経った今、穏やかな気持ちで香代の思い出話ができる。


 親族だけの催しは、葬儀社の采配でつつがなく日程が進んでいく。

 実家から墓まで徒歩で行ける距離なので、全員で墓参りに出た。


「香代、みんな来てくれたよ」


 先祖代々の墓を撫でて、母が語りかける。一時は窶れる一方だったが、家族で励まし合ってなんとか復調してくれた。

 どこを見ているかわからない、虚ろだった眼差しも柔らかく、穏やかだ。


「かよちゃんはここ!」


 そんな母に娘がそんなことを言う。

 誰もが首を傾げる中、佳奈はマレーバクを掲げて「かよちゃん!」と誇らしげだ。


「その子、香代なの」

「うん! かよちゃんなの」

「そう……。かわいいね」


 母はそれが香代からの最後の贈り物だと知っている。堪えきれずに涙を零した。

 いつの間にそんな名前をつけたのだろう。プレゼントを贈られた当時の佳奈はまだ簡単な単語しか話せなかった。人を呼ぶのも「パパ」、「ママ」くらいだ。

 当然、香代の名前など覚えていない。そのはずだ。


 もしかして、覚えているのだろうか。

 なかなか懐いて貰えなかった彼に代わってあやしてくれたことを。

 妻が息抜きできるようにと全力で遊んでくれたことを。

 香代の弾くピアノが大好きで、ピアノの音を聞けばいつもご機嫌だったことを。


 そうだとしたら、とても嬉しい。


 香代がいなくなって一年。どんな声をしていたか、思い出せなくなっていることに気づいた。

 こうしてどんどん誰もが香代を忘れていく。佳奈もきっと、ぬいぐるみの名前が誰のものだったかを忘れるだろう。


 そのたびに、彼が香代の話をしようと思う。

 忘れないでほしいから。忘れたくないから。

 頼まれなくとも、何度だって。

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