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夢の意味

 香代は飛び起きた。

 周囲は暗く、まだ真夜中だ。香代は荒い呼吸を繰り返し、無意識に自分の腕をさすった。冷え切っているのに動悸は激しく、震えが止まらない。

 バドルは昼間に暑さに反して夜は冷えるのだが、そのせいではなかった。

 寝直すこともできず、寝間着のままベッドを抜け出す。


 夢の中の美織のような足取りで部屋を出た。

 じっとしていられなかったので、哨戒に立つ戦士たちに見つからない場所を行き先もなくさまよい歩いた。


 美織は玲司の死と恋人の裏切りをきっかけに精神の均衡を崩し、衝動的に自殺を図った。香代は彼女に突き飛ばされて線路に落ちたのだ。

 故意に行ったことではないが、香代を殺したのは美織だった。でも、恨む気持ちは沸かない。


(わたしは、だれ?)


 夢から覚めて、自分のことがよくわからなくなっていたからだ。

 彼女は斎藤香代という二十七歳の会社員。

 両親と兄と弟の三人きょうだいで、去年姪が生まれた。

 でも、生々しく思い出せる記憶はどれも美織ものだった。


(どうしよう。誰の顔もうまく思い出せない……)


 かつて走馬灯で見た祖母のように家族全員の顔が曖昧で、祖父のように声が滲んでいる。

 香代は誰もいない王宮を彷徨する。しかし、ここに彼女と関係するものはない。

 

 本当に、彼女は斎藤香代なのだろうか。


(そうだ……。わたしのお墓……)


 たったひとつ、彼女の死体があったことを思い出した。

 香代の亡骸は現在、仮に王家の霊廟に収められている。ほかの異世界人のように専用の霊廟を建設したらそちらに移す予定らしい。


 香代は自分の死体と対面する勇気がなく、ずっと避けて来た。しかし、今はそんなことを言ってられない。

 自分の顔を見れば、己が香代だと確信できる。

 このままでは――香代は美織に飲み込まれて消えてしまいそうだ。

 いや、そもそもこの体は美織のものだ。もしかしたら、斎藤香代という人物は心が壊れた美織の作り出した架空の人物かもしれない。


 そこまで考えて頭を振る。このままでは何もかもを疑ってしまう。今はとにかく何も考えず、自分の死体と向き合うのだ。

 霊廟には行ったことはないが、場所は教わっていたため、そちらに向かって歩き出す。


「香代様?」


 絹の声が香代を呼び止める。

 温かく大きな手が彼女の冷え切った腕を掴んだ。


「どうされました? そんな薄着で風邪をひいてしまいます」

「ターフィル……。離して。わたし、行かないと」


 香代が手を振り払おうとすると逆にターフィルは力を込めた。

 魔術師のターフィルは戦士たちに比べると細身だが、しっかり体を鍛えているので香代の力では太刀打ちできない。そのまま引き寄せられる。


「随分冷えています。部屋へ戻りましょう」

「だめ。わたし行かないと」

「朝になってからでは駄目ですか? 私でよければいくらでもお付き合います」

「今じゃないとだめなの」


 しばらく押し問答が続いたが、ターフィルが粘りに粘り、香代が折れた。

 その途端、体が芯を失ったように力が抜ける。

 ターフィルは動揺もなく以前のように香代を抱き上げた。


「私が運びますから、どうぞ楽になさってください」


 前のようにどぎまぎすることもなく、香代はぐったりと身を預けた。




 飛び出したときのまま乱れた寝具を整えてからターフィルは香代をそこへ横たえた。

 精神的にも肉体的にも疲れ切った香代はされるがままだ。

 でも、もう一度眠ることはできそうになかった。


 ターフィルは消してあったランプを灯した。

 香代の背中に枕やクッションを挟み上体を起こすと、水差しからグラスに水を注ぐ。

 しばらく両手でグラスを包むと香代に渡した。

 受け取るとほんのり温かい。手の熱ではなく、適温の白湯になっていた。


「温めるほうは苦手なのですが……」

「ううん、ちょうどいいよ。ありがとう」


 温かいものを飲むと糸のように張りつめていた何かが解れていく。

 ターフィルは香代の近くのベッドの上に座った。


「何があったのですか?」

「……」

「なんでも構いません。話せることを話してみてください。

 あなたは理性的すぎる。たまには衝動に任せて吐き出さないと疲れてしまいますよ」

「……夢を、見るの」


 ターフィルの包み込むような優しい声にぽろりと零していた。

 話し出すと少しだけ、と思っていたのに次々と言葉が溢れて止まらなくなる。

 結局、洗いざらい打ち明けてしまった。


 ターフィルは一切口を挟まず、真剣に話を聞いてくれた。

 彼に話すうちに香代の心の整理がついて冷静さを取り戻す。

 今となっては何をあんなに動転していたのかと恥ずかしく思う。

 香代は、香代だ。それ以外の何者でもない。まだ香代としての記憶は曖昧だが、それは動転しているせいで一眠りしたらまた思い出せる。


 そう思って、話を終わらせようとしたが、ターフィルは難しい顔をして考え込んでいる。

 何かを思いついたような表情を浮かべ香代を見た。


「……香代様は、美織様の内心について言及されませんね」

「えっ?」

「記憶はそれに付随して、そのとき感じたことや、思ったことも思い出すと思うのです。けれども香代様のお話ではそれらに一切触れられていなかった。

 ……いかがでしょう? そういったものも思い出せますか?」


 そう質問され、改めて美織の記憶を思い出す。

 夢の中ではいつも美織と同化していた。しかし、心の声というのは聞こえてこなかった。

 香代はいつも彼女の言葉と、周りの状況から美織の内心を推し量るだけだ。


 まさに目から鱗が落ちた気分だった。

 彼女の夢は、海馬から引っ張り出されたただの記憶に過ぎなかった。想念の伴わないただの映像でしかない。

 そして、どうして美織の記憶を夢に見たのかも予想がついた。


 あれは美織の走馬灯だったのだ。


 かつて香代が途中まで自分の走馬灯を見たように、美織にも自分の人生を初めから終わりまで振り返る時間があるはずだった。

 しかし、美織は走馬灯すら置き去りにして、魂が砕けてしまった。

 だから、美織の体を貰い受けた香代が見る羽目になったのだ。


 今も生々しく美織の最後が思い出せる。

 アナウンスに顔を上げ、熱心に反対側のホームを見つめ、走り出した。

 香代の目には電車を待つ人や、駅名の看板など、ごくありふれたものしか見えなかった。

 美織は何か別のものが見えたのだろうか。


 何故か今になってはっきりと最後に美織が言った言葉が耳に蘇る。


『れい』


 ほとほとと何かが落ちる音がして自分が泣いていることに気がついた。手に持ったグラスに涙が落ちていくつも波紋を作る。

 泣くつもりはないのに涙が溢れて止まらなかった。


 ターフィルは何も言わずに香代の手からグラスを抜き、肩を抱かれる。自然ともたれかかる体勢になった。

 いつもなら抵抗を覚える近さだが、今は気にならない。ターフィルの大きな手が肩を撫でていた。


 香代はしゃくり上げすぎてお礼も涙の訳も何も話せなかったが、ターフィルは特に質問することなく、黙って寄り添っていてくれる。

 人肌の暖かさが心地よかった。


 美織は何を聞いて、何を見ていたのだろう。

 記憶に残っているのは目で見た映像だけで、心で見たものは美織の中にしかない。

 ただ美織の体に収まっているだけの香代にはもう決して知ることはできない。そこに明確な隔たりを感じた。


 記憶も、生まれてからずっと共にあった体も。何もかも捨てて、美織は彼の岸へと走り去った。

 もはやどこにも『美織』はいない。




 もう二度と戻らないものを惜しんで、香代は泣き続けた。

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