夏の始まりはエロ漫画の香り
◇
あれから、合宿の日はすぐに迎えられた。
サークルメンバーは一人の漏れなく補習を免れ、補講期間という名の試験休みを経て、二泊三日の漫研にとっては毎年恒例の夏合宿初日を迎えた。
来週末には、夏コミの開催日も待ち構えていると言うだけあって、日常で目にする先輩たちの顔付きとは違うものを期待していいだろう。もちろん、代表の進捗具合も。この夏合宿でどれだけ遊べるかは全て、代表にかかっているのだから。頼むから半日だけでも遊べる時間を確保させてください。
「いやしかし、今回のテストは琉歌のお陰で助かったな」
最低限の荷物を背負って駅に向かう足は軽い。
今回のテスト、サークルメンバーの中で一番危うい成績をしていたのは俺自身であるというのは言わずもがな。正直、この大学に入学できたのも奇跡みたいなものだ。受験期の記憶を思い出そうとすると頭が痛くなる。あれはそう、エロ漫画の神が俺に『エロ漫画みたいな恋』をさせるためのバフをかけてくれたから乗り切れただけで、自分で言うのもなんだが俺の頭は相当に悪い。
そんな俺でもテストを乗り切れたのだから、琉歌にあれやこれやと条件を提示されながらテスト範囲の勉強を教えてもらった甲斐はあったというわけだ。
「後期からは頑張らないとだな……」
受験を乗り切れたのがエロ漫画の神様のお陰なら、今回のテストを乗り切れたのは琉歌のお陰。ということはつまり、琉歌は神様と同等……?
しかし、これ以上成績を落とすわけにはいかない。底辺を這いずり回るような成績が母さんに知られたら最後、バイト禁止を言い渡されるかもしれないからな。
「それにしても、あの人はどうやって乗り切ったんだ?」
ろくに授業に出もしないでサークル室に入り浸る代表。あの人がどうやって補講を免れているのかは、サークルメンバーの誰も知らない。代表に勉強方面の話を振るとあからさまに機嫌を悪くするため、漫研では暗黙の了解となっているため誰も聞けないのである。
琉歌への感謝を忘れずに抱いていると、どこからともなく声が聞こえてくる。噂をすればなんとやら、という奴だ。いや、ちょっと違うか。
「あ、来た来た。天音~!」
集合場所に指定された駅前で待っていたのは、涼し気なショートパンツにTシャツ、薄手のシャツを羽織った夏本番を迎えた今に相応しいファッション姿の琉歌が、俺を見かけて大きく手を振ってみせる。
男子が短いパンツを履くと全女子からブーイングが降り注ぐと言われているが、今の琉歌の恰好を見て非難を浴びせる奴なんていないだろう。
華奢な手足にムダ毛の一本すら生えていない綺麗な琉歌の体を見ると、同じ染色体を持っているのが馬鹿らしくなって申し訳なさすら感じてしまう。
世界を汚して申し訳ありません、ってな。
「今日も暑いねぇ」
パタパタと火照った顔を手で扇ぐ琉歌の頬を、一筋の汗が伝う。
その姿がどこか煽情的で艶めかしく見えてしまうのは、俺の頭も暑さでやられているというのだろう。今日は35度を超えるみたいだし。
それとなく目線を逸らした俺を目敏く見つけた琉歌は、口元が弧を描く。
「あ、もしかして見蕩れちゃった?」
「なにアホなこと言ってんだよ。これでも被ってろ」
「わっ」
確かにいつもとは違って今日はお出掛け用にばっちり決まったメイクをしているようだが、これまでも二人で出かけるときには何度も見てきた姿だ。そう易々と何度も見蕩れてたまるか。
俺が目を逸らしたのは、男である琉歌相手に変な想像を掻き立てさせるわけにはいかなかったからだ。男相手に発情したら最後、俺は男として大事な何かが欠ける気がするから。
「琉歌ちゃーん。八尋君来たー?」
「あ、はい! 来ました!」
そしてもちろん、サークル夏合宿の集合場所というわけで俺と琉歌以外にも面子が揃っていて、通行人の邪魔にならない柱の影から顔を覗かせた滝嶋さんと横山さんが琉歌とキャーキャー言い合っている。
俺はその輪に入るわけにも行かず、田貫さんと金井さんの男二人が待つ方へ会釈をして近寄っていく。
「おはようございます」
「お、おはよう。……きょ、今日はよろしく、ね」
「うーす。暑すぎて溶けそうだな。早く電車乗りてぇよ。ほら、塩飴舐めるか」
先輩たちは退屈そうに壁に背を預けていて、女子たちのように駆け寄ってきたりはしない。むしろ駆け寄って来られても怖いだけなんだが。
俺はサークルに友達がいないだけで、孤立しているわけではない。先輩たちも挨拶をすれば返してくれるし、中身のない四方山話くらいなら付き合ってくれる。
どもりがちな田貫さんも、見た目だけならチンピラの金井さんも、冷たい人というわけではない。田貫さんは同じ授業を受けた経験から先駆者として教授の傾向と対策を教えてくれるし、金井さんはよくお菓子をくれる。二人とも良い人だ。
かと言ってそれ以上の会話が繰り広げられるということもなく、俺たち男三人衆の間にはすぐに沈黙が漂い、三人の視線は自然とキャイキャイ騒ぐ別の三人に向く。
「千崎ちゃん、その帽子って……?」
「えへへ」
「は~? かわいいかよ、このこの」
「朱理ちゃん先輩。私、一生見てられるよこれ」
「分かりみが深い。感覚としてはウミガメの出産と同等かそれ以上。あたしらのために、永遠にこのままでいてくれない?」
「こ、このままじゃ嫌だから相談してるんですけど……」
俺たちの視線の先、横山さんと滝嶋さんの二人が琉歌を囲んで楽し気に会話を繰り広げている光景というのは、お姉さん二人に囲まれる美少年の図だ。
実にけしからん。琉歌、その場所俺と変わってくれないか。
その光景を見て分かる通り、サークルに入会して早々、琉歌はサークルの女子面子を引っ掛けた。どれだけ手が早いんだと思わざるを得ないが、琉歌のヘタレっぷりを知っているからその線は無いというのだけは分かる。
だが、琉歌の放つ隠し切れない美少年っぷりに横山さんと滝嶋さんがやられたのだとすれば、俺が琉歌を紹介した手前、琉歌を止めるために俺が動かなければならないという覚悟を決める。
何せ、滝嶋さんは俺の隣で「アヂ~」と項垂れている金井さんの彼女。そして、公言こそされてはいないが横山さんは田貫さんと恐らく付き合っている。そうでなければコスプレイベント後に二人で消えたりしないだろう。二人には前科があるのだ。
其れ即ち。琉歌が今サークルクラッシャーの動きをしているのだとすれば、あいつを止められるのは俺だけというわけだ。
二次元でも三次元でも、寝取られだの不倫だのは許してはならない。
確かに背徳感や罪悪感がエロのスパイスになるのは否定しないが、その先にあるのは破滅だけなのだ。誰かが悲しむエロなど、俺は絶対に認めない。
入会して早々に先輩二人に興味を持たれた琉歌を妬んでいるとか、断じてそう言うんじゃない。俺はエロの正義のために動くのだから。
とは言え、左右にいる男先輩たちの様子を横目で窺ってみても、猜疑心のこもる目線を向けているどころか微笑ましいものでも見るかのような目線を送っている。
もしや、こんな考えをする俺だけが汚れているとでも言うのか。
俺が、俺だけが、童貞だと言うのか……?!
「悪い、遅くなった。俺たちが最後か」
「ううう……朝が、朝が憎い……」
そんな最中、俺が暗黒面に落ちそうになるのを防いだのは、目の下に分厚い隈を作った代表を引きずって現れた、龍丘さんであった。
この世に恨み節を放つ人は数あれど、半分くらい失神しながら恨み言を呟き繰り返す人はどれくらいいるだろう。それが却って代表が本気と書いて本気と読むくらい危なげを放っているのだが、龍丘さんはそんなこと知ったことかとばかりに恨み言を垂れ流す代表を壁に寄り掛からせる。この人は荷物か何かだろうか。
「それじゃ、出発するか」
「え、っと……代表は大丈夫なんですか?」
疲れ果てた様子で白目を剥く代表は、半開きの口から魂が抜けていくのが見える。
一体、なにをどうしたらこんなことになるのか。
考えるだけでも恐ろしいものだが、聞かないわけにはいかない。だって恐らく、いや間違いなく、このままだと代表を運ぶ足が龍丘さんから俺に変わることになるだろうから。
呆然自失のような代表とは反対に、静かな怒りを腹に据えかねている様子の龍丘さんに恐る恐る尋ねると、泣く子も黙るような眼光が声の主である俺を貫く。
すぐに普段の落ち着いたやれやれ系イケメンの目つきに取り繕われるが、あの目には今、確かに殺意の波動が宿っていた。俺の目がまだ寝惚けていないのであれば、サブリミナルに見えた光景を見間違えるはずがない。
「……昨日、というか今日だな。深夜一時頃にこいつから連絡があってな。それからついさっきまで同人誌の手伝いさせられてたんだよ。お陰で俺は二時間睡眠の上に、出発の時間になってこいつ、まだ準備できてないとか言い出しやがったんだからな。しかも、家出た瞬間に朝日を浴びて気絶しやがった。……俺は、電車で寝る。決定事項だ。悪いがそいつの世話は八尋、お前に任せる」
「えぇ……」
話を聞く限り龍丘さんは完全なる被害者であると分かり、俺は断ることができなかった。同じ被害者の会である以上、俺と龍丘さんは運命共同体。それに、龍丘さんには代表のわがままにほとほと困り果てたときに何度も助けられてきたからこそ、今回は甘んじてそれを受け入れるべきだと判断したまで。
決して、マジで機嫌の悪そうな龍丘さんが怖いから頷くことしか出来なかったとか、そんな情けない理由ではない。
間違っても龍丘さんの圧に敗北したわけじゃないんだからね!
「天音、ほら見て。自然がいっぱいだよ!」
「あー、はいはい。みかん食うか?」
「うん、食べる。あーん」
「自分で食え」
「ぶぅ。ケチんぼ」
電車旅と言えば冷凍ミカン。というわけで皮をむいたみかんを琉歌に差し出すと、その小鳥のようにちいさな口を開いて向けてくるのを無視して手に乗せてやる。
ちなみに俺は知覚過敏なので半解凍になるまで食べられない。
冷たいまま放り込んで俺の熱で溶かすといった、口の中でもごもごと転がすようなみっともない真似は家でしかしないのだ。
「……俺の熱で、ってなんかエロイな」
「うん?」
「なんでもない。ってか帽子返せよ」
「嫌だって言ったらどうする?」
「なんだそのめんどくさい返しは。宿に着いたらでいいからちゃんと返せよな」
「うん。ありがと」
冷凍ミカンで膨れた頬のままこちらを向いた琉歌を軽く誤魔化しつつ、車窓から見える後ろに流れていく自然の風景を眺める。
琉歌が褒め千切るからどんなものかと思えば、そこらにありふれた見慣れた田舎の景色。
俺とは違って、きらきらと目を輝かせながら過ぎていく景色を眺めるこいつは、かつて転校した先が大都会だったらしく、すっかり目に馴染んだ都会の風景とは違う地元の発展途上の風景が未だに真新しいらしい。
向こうでの生活を聞くとあまり良い顔をしないため深くは詮索しないが、何気なく見過ごしている地元の風景が好きだと言う人を見ると嬉しく思えるのは、俺の胸に多少なりとも地元愛と言うものが存在しているからだろうか。
この場所も嫌いじゃない、と言いたくなるのは俺がまだまだ子供だからか。
「うう、来ないで……来ないで、締め切り……」
向かい合う四人席では、俺の隣に琉歌が。その向かいに代表が座っている。代表の隣は荷物置きだ。
悪夢にうなされている代表を、俺と琉歌が心配そうに見つめるが、彼女が締め切りの悪夢に追われているのだと分かってすぐに意識を代表から切り上げる。問題無いと判断したからだ。
龍丘さんから世話を頼まれたとはいえ俺に出来ることは、ほとんどない。
代表本人とその荷物。と言う二つの荷物を担いで電車に乗り込んだ後は、適当に席に座らせて寝かせておくだけでどうにかなる。
幸いにも琉歌にも手伝ってもらえたのでこれと言った苦労は無かった。
強いて言うなら、代表の眠りがレム睡眠に突入する度にうなされるので、見守っている側は気が休まらないくらいだろうか。
「そう言えば、来週に迫ったコミケだけど、琉歌も行くのか?」
「天音も行くんでしょ? なら、行こうかな。どこでやるの?」
「どこでってお前な……東京だよ。東京」
「えぇッ?! け、県内じゃないの?!」
「逆にどこでやると思ってたんだよ」
「市内センター、とか。なんか一回だけ漫画のフリーマーケットみたいなことやってるの見たことあるし」
「ああ、漫画のイベントっていうか、作品のオンリーイベントだな。結構頻繁にやってるぞ」
「で、でも東京かあ。それなら、天音に色んな所案内出来るよ。なんてったって僕、住んでたことあるしね」
何を勘違いしていたのか、何も知らない様子の琉歌が自信ありげに胸を張る。
楽し気にスマホ片手に東京の名所を調べ出した琉歌だが、俺が言いたいのそういうことじゃない。
「いや、ホテルの話だよ。泊まるとこあるのか、って話」
「ホテル……? 普通に取ればいいんじゃないの?」
「いや、この時期のホテルはもうどこもいっぱいで取れないぞ。みんな一か月以上前とか半年前から予約とってるし」
「え……」
目の前で人目も気にせず口をかッ開いて眠りこける代表も、向こうで瞑想でもしているのかと思うくらい静かに目を閉じて佇んでいる龍丘さんも、男女ペアでいちゃこらしてる四人も、既にホテルは確保済みである。
もちろん俺も取っているため、新入会員の琉歌だけが東京で迷子になっている状態であった。
それを理解したのか、琉歌はいっぱいまで涙を湛えた目をこちらに向けてSOSを訴える。
「ど、どどど、どうしよおおお! 僕だけ置いてけぼりってこと?! あ、天音ぇ……」
「お、落ち着けよ。泣いたって解決しないだろ」
「ううう……」
ひとまずティッシュを差し出して涙と鼻水を拭わせる。
何も琉歌の不安を煽るためだけにこの話題を口にした訳じゃないのだから。
チーン、と鼻をかんだ琉歌が落ち着きを取り戻したのを見てから、俺は一つ咳払う。
「そんなことだろうと思って、俺の部屋をアップグレードしておいたわけだ」
「あ、天音ぇ……!」
さっきまでの弱々しい発音とは違って、尻上がりに上擦っていく希望を見出した発声と見上げてくる琉歌の視線。
頼りの視線を向けられる心地。これが存外、気持ちの良いもので。
「ほら、送っておいたフォームに個人情報入力してくれ。あ、もちろんホテル代は割り勘だからな」
「当たり前だよ! むしろ僕が全部出したいくら、い……。って、ちょっと待って。同じ部屋に泊まる、ってこと……? 僕と、天音が?」
「ああ、そうだが?」
俺と一緒は嫌だとか贅沢なこと抜かされてもお前に選択肢は無いけどな。
そもそも、アップグレードに応対してくれただけでも奇跡なんだ。
初参戦のコミケを少しでも楽しんでもらおうという俺の粋な心遣いに感謝してほしいくらいだ。
まぁ、実を言うと俺もコミケは初参加なんだけど。
「その……、天音は、平気なの? 僕と一緒でも」
「何言ってんだ。大体今回泊まるところも同じ部屋だろ。一緒に風呂に入るって訳でもないし、いちいち気にすることじゃねえっての」
「そ、そうだよね! あはは、僕、何言ってんだろ」
「昔は普通にお互いの家に泊まったりしてただろ。それと同じだよ」
昔は特に、母さんの仕事が忙しいことが多い俺の方が琉歌の家にお世話になることが多かった。
その時には琉歌の弟も含めて三人で川の字になって寝たりしてたし、遊びで俺の家に泊まりに来た時には二人で寝てたって言うのに、今更何を恥じらうことがあるのか。
「……昔と同じじゃ、ないよ」
冷房の効いた涼しい車内で頬を赤くした琉歌が小さく呟いたのが聞こえる。
琉歌も恥じらいを覚えたのか、そういう年頃なのかもしれない。だからと言って、俺が譲る訳にもいかないしな。今度は俺が泊まるホテルを探さなくちゃいけなくなるし。今からだと事前予約の倍近い値段とられるし。
「我慢してくれ。嫌だったら、寝るときだけ部屋に戻るようにするから」
「ッ! ち、違っ……! 嫌じゃない! 全然嫌じゃないから! うぅ~……」
琉歌とのやり取りの傍ら、ようやく解け始めたみかんを口に運ぶ。
いまどき冷凍ミカンなんて古臭いとも思えるが、こういうのは雰囲気だ。
ぐに、という触感と共にひんやりと冷たい空気が喉を過ぎて胃に落ちていく。
頭を抱える琉歌を横目で見ながら、みかんを食む。
言葉につかえた琉歌の様子は、俺が琉歌の言葉を詰まらせたとも言える。
「ま、まあいっか。一緒に泊まるだけだしね。うん、泊まるだけ、泊まる、だけ……うへへ」
「朝食付きだけど、そこまで期待するようなところじゃないぞ。今回泊まる宿の方がずっとグレード高いみたいだしな」
「そんなことないよ。僕は天音と一緒ならどこでも楽しめるしね」
「……」
「え、ちょっと。なんで無言なの。って、何、おわ、うわ、ぉわあ~」
柔らかな笑みは燦然と煌めいていて、俺は無性に撫で回したくなる衝動を押さえきれなくなって、目の前の小動物みたいな琉歌の頭から帽子を奪い、その頭をわしゃわしゃと撫で回す。
同じ男とは思えないほどにサラサラで細い髪が舞い踊る度に、帽子の中で蒸された純度の高い琉歌の匂いが鼻孔をくすぐる。
だが今はただ、この一見して頼りないように見えるけれども、俺が逆立ちしたって敵わないような目の前の親友を不器用な方法で感謝を伝えることでいっぱいだった。
幸いにも、琉歌の奴は俺の手を振り払うことはせず、「やめてよぉ」と口では言いながらも心地よさそうに細めた目でされるがままに、親友同士はしゃぎ合うのであった。
「あ、悪い。ミカン触ったまんまだったわ」
「ええッ! う、嘘でしょ?!」
「いや、マジ。大マジ。琉歌の頭からほんのりミカンの香りするわ」
「~~ッ、天音の、バカーーッ!」
これだけ騒いでいても、代表は到着まで目を覚ますことはなかった。




