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3-3 光の航路 【ザラメ砂糖三代記】  作者: maki_senokouji


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第2話 甘いノイズ

 先ほどまでの、エス家の未来を背負う者の一人としての冷徹な宣言が嘘だったかのように、まさ子はふわりと、いつもの柔らかい空気へと戻っていた。


 凛と茜に抱きしめられながら、彼女は少しだけ照れくさそうに微笑む。その姿は、一国の暗部を掌握するハッカーでも、巨大な一族の変革者でもなく、ただ夫を亡くしたばかりの二十一歳の、少し童顔な「まあちゃん」そのものだった。

「お姉さま、大丈夫です。私、おかしくなったりしていませんから。……邦明さんは本当に、今も私のことを見守ってくれているんです。子供のころから、何も変わらない眼差しで」

「……見守っているって、まさ子。それは、思い出として、という意味よね?」

 凛がまさ子の肩から手を離し、心配そうにその顔を覗き込む。まさ子は首を横に振った。

「いいえ。……もっと、物理的で、確かな方法です。……お姉さまたちもご存じですよね? あの人が例のウイルスに感染して、自制心の防壁が崩れかけたとき。私は、あの人の意識の最深部まで潜りました。……そのとき、私は見てしまったんです。あの人の心の奥底にある、私への愛の本当の形を。……あの人は普段、あんなに冷たくて、厳しいことばかり仰っていたけれど、内側はもう、私のことで溶けきったザラメみたいにドロドロに甘くなっていたんです。……ちょっと、照れちゃうくらいに」

 まさ子は、赤くなった頬を両手で押さえて、くすくすと笑った。茜が呆れたように「……あの偏屈な叔父さまがねぇ」と呟く。

「そのときに、私自身も記憶を消去してしまっていた、あの人の精神の最初の危機、千鶴さんを失った戦いの直後のことを、思い出しました。なぜ私が叔父さまに尽くしているのか、いまさらですが納得しました」

「でも、潜ったのはそれだけが目的じゃなかったんです。……私、あの人の意識の中に『マーカー』を打ち込みに行ったんです。私の意識の断片を、あの人の論理回路の隙間に常駐させるため」

「……論理回路の隙間に常駐?」

 驚きのあまり、凛がオウム返しになる。

「はい。実はこれ、邦明さんの病気が分かる前からの、私たちの共同研究だったんですよ。……『もし身体が離れていても、携帯電話みたいにお互いの意識を飛ばして愛し合えたら、安心じゃない?』って。……あの人は最初、『そんな下らないことにリソースを割く奴があるか』って怒っていたけれど、結局、私のおねだりに付き合ってくれて。……余命がカウントダウンになってからは、もう二人とも必死でした。誰にでも可能な技術ではないかもしれないけれど、私たち夫婦という、世界で一番深く同期シンクロが取れている関係だからこそ、繰り返し実験できた末の技術なんです」

 まさ子は、窓際にある邦明の指定席だった椅子を、愛おしそうに見つめた。

「だから、私はあの人を、まさに私の膝の上で見送ることができた。……その後、この一ヶ月くらいは出産の方に意識が向いていて、あの人に『ごめんなさい、あなた♡』って謝って、少しお休みしていたんですけど。……でも、この部屋には、ずっと邦明さんの意識が留まっているのを感じていました。出産のときにも、あの人は一緒に本宅の方に来て、立ち会ってくれていたんです。……あの人が私の手を握ってくれている、あの独特の冷たい、でも芯の熱い感覚が、出産の間中、ずっとすぐ傍にありました」

 茜と凛は、言葉を失って顔を見合わせた。

 まさ子が語っているのは、心霊現象の類ではない。邦明とまさ子が極秘に開発し、命懸けで完成させた、「死の境界を越えるデジタルな実在」の話だった。

「今朝、体調が良かったので、久しぶりにその『マーカー』を呼び出してみたんです。……そしたら、問題なく作動しました。……交信も、できたんですよ」

「……できたの?」

「ええ。『まさ子、頑張ってるな。元気な子を産んでくれてありがとう』って。……あの人はいくつか名前の候補を考えていてくれていたみたいで、今は二人でこの子の名前を相談しているところなんです。……でもね、あの人はもう、自分の意識の中に私の一部が入り込んでいることを知っているから、隠し事もしてくれなくて。……これも良し悪しですね」

 まさ子は、再び顔を真っ赤に染め、身をよじった。

「いきなり、『俺、だいぶ欲求が溜まってるんだ』なんて言われて。問答無用って感じで、意識の中で私を裸にして……もう、久しぶりに、情熱的に愛してくれました。……キャー!」

「…………」

 リビングに、何とも形容しがたい沈黙が流れた。

 凛と茜は、ぽかんと口を開けたまま、目の前の「幸せそうな未亡人」を見つめるしかなかった。

 

 夫を亡くした妹を励まそうとした、感動的な姉妹の絆。

 それら全てが、この「超先端技術を用いたのろけ話」によって、どこか遠くへ吹き飛んでしまった。

「……ねえ、凛姉」

 茜が、引きつった笑みを浮かべて隣の姉に囁く。

「……あたしたち、何をそんなに心配してたのかしらね」

「……ええ。……この二人、最先端の技術を使って、死んでからもバカップルぶりを晒しているだけじゃない」

 凛もまた、呆れ顔を隠そうともしなかった。

 だが、その呆れ顔の裏側には、確かに深い安堵があった。まさ子は壊れてなどいなかった。彼女は、自らの知性と情念の全てを動員して、愛する人を「この世」に引き留めることに成功しているのだ。

「あ、お姉さま。……これ、理論上は外部に出力することも可能なはずなんです。いずれ、この子にお父様を会わせてあげたいですし、お姉さまたちにも、あの人とちゃんとお話ししてもらえるようにしますね。……世界一のわがままと、世界一の自制心が作った、私たちの愛の形なんです」

 まさ子は、誇らしげに胸を張った。

 それは、優にノーベル賞級の発見だろうが、エス家の者はそのような評価に興味を持たない。彼女たちは、自らの欲望を叶えるためだけに、世界の法則を書き換えてしまうだけ。

「……分かったわよ。もう、勝手になさい」

 凛は、ようやく苦笑いを浮かべると、台所へと向かった。

「茜、さっさと持ってきたカステラを切りましょう」

「そうね。お茶にしましょう。……もう、糖分を摂らないと、こっちの頭が追いつかないわ」

 茜もまた、まさ子の「沼」に毒気を抜かれたように立ち上がった。

 切り分けられたカステラの甘い匂いが、夕暮れのリビングを満たしていく。

 だが、まさ子の瞳は、笑い声のなかでふと、深い思索の色を帯びた。

 今、交信できている「あの人」は、果たしていつまで、そこに居てくれるのか。

 彼女が抱える、科学者としての冷徹な問い。

 それは、三姉妹のお茶会の締めくくりに、さらなる「希望」と「覚悟」を突きつけることになる。


(了)

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