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3-3 光の航路 【ザラメ砂糖三代記】  作者: maki_senokouji


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第1話 産声と宣戦布告

 千代田区、かつて「情報の要塞」と呼ばれたあのマンションの一室は、今、かつてない静寂に包まれていた。

 サーバーラックの駆動音は、あるじ亡き後、その役割を終えたかのように低く、代わりに部屋を満たしているのは、誕生したばかりの新しい命――邦明とまさ子の息子の、規則正しい寝息である。

 まさ子の出産前後を、臨時の病室となったエス家本宅の奥座敷に詰めっきりで手伝い、ようやく母子とともにまさ子のマンション帰ってきた姉、凛と茜は、疲労困憊しながらも、ようやく訪れた安穏な午後の光の中で、紅茶の香りを楽しんでいた。

 しかし、ソファに横たわるまさ子のまとう空気は、大仕事を終えて帰って来た直後だからか、いつもの柔らかさがない。

 その瞳は、普段の煙ったような、誰をも包み込むようなそれではなく、青くさえ見えるほど澄み渡っている。

 彼女は、腕の中で眠る赤子の小さな額を指先でなぞりながら、静かに、しかし誰にも抗いようのない力強さで、その唇を開いた。

「凛お姉さま、茜ちゃん。少し、お話があります。……この子には、あの人の『影』による支配も、私の『沼』も、受け継がせません」

 その第一声に、凛の手が止まった。

 まさ子の声は、いつもの「ほんわか」とした響きを湛えながらも、その奥底には、エス家という巨大な宿命を断ち切るための、鋭利な刃が仕込まれているように聞こえた。

「この子は、陽のあたる道を歩かせます。そのために必要なことは、すべて私が準備します。……もし、エス家という存在が、この子の未来にとって障害となるのであれば。……私は、全力でその障害を排除します」

「待って、まさ子……何を言って……」

 茜が絶句する。だが、まさ子の言葉は止まらない。

「そのために、私とこの子がエス家から除かれるのであれば、それもやむを得ません。……いずれお母さまの後を継ぐことになるお二人には、どうかこれを、あらかじめ念頭に置いておいてください」

 それは、実の姉たちに向けられた、余りにも清冽な宣戦布告に聞こえた。

「気持ちは分かるけれど……まさ子、少し先走りすぎじゃない?」

 凛が、絞り出すように言った。

「叔父さまとあなたに、これまで一族の汚れ仕事を一手に任せてしまってきたことは、私たちも申し訳ないと思っているわ。でも、お母様の御力は今がまさに全盛期。将来の組織がどうなるかなんて、今はまだ分からないとしか言いようがないのよ」

「……いいえ。私には、もう見えているんです。明確なロードマップが」

 まさ子は、伏せていた視線を上げ、姉二人を真っ直ぐに見据えた。

 その瞳は、二十一歳の童顔の娘のものではなく、夫・邦明が遺した世界の深淵を完全に掌握した、新しい「情報の女王」の光を宿していた。

「邦明さんの遺産を引き継いで、あの人がしていたことを改めて確認して、分かったんです。……あの人は、情報の改変と遮断、時には情報による鋭利な暴力によって、世界を影から統制し守ってきた。でも、私はそれを変えます。影から、沼へ」

 沼。

 それは、あらゆる異物を拒絶する「影」とは異なり、すべてを飲み込み、分解し、栄養へと変えていく圧倒的な受容のシステムだ。

「争うのではなく、多様性を認め合い、紛争になる前に『互譲』によって解決するシステム。私はすでに、統治の基盤をこれに移行させつつあります。……あの人の最後の数ヶ月、療養期間という名の、二人の大切な時間。その間に、私はあの人の了解を取り付け、すべての管理権限を私の下に置きました」

 凛と茜は、戦慄を覚えた。

 まさ子が、邦明を看病しながら、その裏側で進めていたのは、夫の職務の単なる継承ではなかったのだ。彼女は、夫が命を懸けて守り抜いた「影の統治」そのものを、根底から見直し、より高度で、より穏やかな「沼の統治」へと作り変えつつあったのである。

「すでに最先端の分野では、次の段階に進んでいます。管理よりも自主性を、抑圧よりも調和を。……これは太陽であるお母様の、本来の統治理念でもあります。でも、太陽だけでは抑えきれない暗部を、あの人は影で切り捨ててきた。……それを今、私の沼で包み込み、闇を浄化して、元の陽の差す場所へと戻しているんです」

 まさ子の言葉に、嘘はない。

 彼女の「沼」は、日々その範囲を拡大させ、世界の歪みを音もなく修正し続けている。

「新しいシステムへの反発は、従来のシステムで抑える必要があります。でも、私の見込みでは、この子が成人する頃には、私の作った『第三代システム』が社会の主流になっているはずです。……お母様とマキお姉様の了解は、すでに取り付けています」

 凛と茜は、顔を見合わせた。

 この末妹は、いつの間にこれほどまでの高みへと登り、一族の最高意志決定者たちを説得し、世界の未来をその小さな両手で書き換えてしまったのか。

「お二人にも、私は、この子がお腹に宿ったことで誓ったんです。この子を守るために、お母様とお姉さまたちを支えると。……お姉さまたちにも本当はもっと早くお話ししたかったのですが、色々と……それどころではありませんでしたから。申し訳ありません」

 まさ子はそう言って、いつものように「ほんわか」と微笑んだ。

 

 その微笑みの裏にある、夫を亡くした悲しみと、絶望的な重責に独りで立ち向かってきた日々の重み。凛はたまらず、まさ子を強く、強く抱きしめた。茜もまた、涙を堪えきれず、二人を外側から包み込むように抱きしめた。

「……ごめんね、まさ子。……本当に、ごめんね。あなた一人に、こんなに重いものを背負わせて……」

「私たち、この前はじめて、昔のあなたと叔父さまとのいきさつを、マキ姉さまから聞いたの。まさ子は小学生のときに1度、そして発症して死の淵に佇んだ叔父さまをもう1度、たったひとりで救ったのだって」

 凛の声は震えていた。

 夫の死病の療養、自身の妊娠、そして世界の再構築。二十一歳の娘が直面するには、余りにも残酷な現実の波。それらをすべて飲み込み、新しい世界の設計図を書き上げてみせた妹に対し、姉としてできることは、もはや安易な慰めではなく、ただその意志を支持することを、態度で示すことしかなかった。

 しばらくの間、三人の女性たちは、一つに重なり合って、静かに涙を流した。

 

 だが、その温もりの中に浸っていたまさ子は、不意にすっと身を引き、いつもの、どこか拍子抜けするような「ゆるふわ」な空気で部屋を満たした。

「……ふふっ、ありがとうございます、凛お姉さま、茜ちゃん。……でも、大丈夫です。私、一人じゃありませんから。……いつも、邦明さんが、私のことを見守ってくれているんです」

 えっ、と凛と茜が思わず顔を見合わせる。

 まさ子のその言葉は、単なる思い出話や、未亡人の感傷という風ではなかった。

 それは、エス家が誇る最先端の科学と、まさ子の執念が産み出した、もう一つの「奇跡」への序章であった。


(了)

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