第3話 芍薬の約束
切り分けられたカステラの甘い香りが、夕闇の迫るリビングに満ちていく。
茜が淹れ直した三杯目の紅茶は、これまでになく深い飴色をしていた。凛と茜は、先ほどまでの「死者との通信」という、倫理と科学の境界線を軽々と飛び越えたまさ子ののろけ話に、毒気を抜かれたように寄り添っていた。
だが、まさ子の瞳は、カステラの断面を見つめながら、ふと、科学者としての冷徹な色を帯びた。
「……でもね、お姉さま。私、大きな問題があることも分かっているんです。今、私と交信できている『あの人』が、果たして何者なのかという問題」
「何者かって……。叔父さま、なんでしょう?」
茜が不思議そうに首を傾げる。まさ子は静かに、けれど明確に言葉を紡いだ。
「今ここに滞留している邦明さんの意識が、単に生前のデータの残照に過ぎないのか。それとも、肉体という器を失ってもなお、独立して思考を続ける『魂』のようなものなのか。……もし、ただの録音された蓄積データなら、いつか薄れて、消えてしまうでしょう? 私は、それが怖いんです」
「……」
「でも、期待もしているんです。邦明さんが亡くなった後に起きた問題や、この子のことについて相談しても、あの人はちゃんとその場で考えて、答えをくれる。……単なる過去の再生なら、こんなことは起きないはずなんです」
まさ子は、紅茶を一口啜ると、頬を微かに赤らめ、けれど決然とした表情で姉たちを見つめた。
「だから私、今度、あの人におねだりしてみるつもりなんです。……今まで一度もしたことがないことを」
「……したことがないこと?」
茜が、嫌な予感と好奇心が混ざった声で聞き返す。まさ子の唇から零れ落ちたのは、数年前のあの放課後、三姉妹が真っ赤になって語り合った、一族の「秘密」の言葉だった。
「『私の芍薬を、絹糸できつく束ねて下さい』って。……あの日、お姉さまたちが教えてくれたおばあさまの伝説。あの人は、私のことをずっと大切に、大切に守ってくれていたから、一度もしてくださらなかった。……でも、もし、あの人が私のために、あの人にとっても『未知』であるその行為を、新しく工夫して、愛を持って施してくれたなら」
まさ子の瞳に、熱い湿り気が宿る。
「……もし二人の間に、生前にはなかった『新しい思い出』が作れたら。それは、あの人がただの残り香みたいな存在ではなく、私と共に歩む『未来』を持っているという、何よりの証明になるでしょう?」
「……まさ子……」
「大丈夫です。私も科学者の端くれです。……もし私の仮定が間違っていたと分かったら、その時はちゃんと絶望します。……ないものを、あるように振る舞うようなことはしません。その時は、またお二人に抱きついて、思う存分、泣かせてください」
先ほどまでの科学的考察が嘘のように、まさ子は再び「ほんわか」とした、二十一歳の穏やかな顔に戻った。そのギャップの激しさに、凛も茜も、もはや呆れることさえ忘れて溜息をつくしかなかった。
この妹は、世間的には狂っていると言われるのかもしれない。
けれど、その狂気こそが、エス家という血脈を、そして孤独だった邦明という男を、この世の誰よりも深いところから救い上げたのだ。
「……本当、あなたたちバカップルには、死という概念すら無力ね」
凛がようやく、諦めたように微笑んだ。
「そうよ。あたしたち、あんたの心配をするだけ無駄だったわ。……さあ、カステラを食べましょう。せっかく持ってきたんだから」
「ふふ、ありがとうございます。……あ、これ、糖質フリーカステラですね? 流石お姉様、よく分かってらっしゃる」
まさ子は嬉しそうにフォークを動かし、幸せそうにカステラを口に運んだ。その姿は、先ほど世界のシステムを書き換えると宣言した女とも、死者と睦み合う魔女とも思えない、ただの甘いもの好きな少女に見えた。
窓の外では、千代田区のビル群に灯りがともり、宝石を撒いたような夜景が広がり始めていた。
かつて邦明が、世界から自分を隔絶するために立てこもっていた「影の要塞」。
今は、まさ子の「沼」がすべてを包み込み、新しい命を育むための、静かで温かな聖域へと変わっている。
「……邦明さん。カステラ、とっても美味しいですよ」
まさ子が誰もいない空間に、そっと呟く。
その視線の先には、姉たちには見えない、けれど確かな「温度」を持った影が、微笑みながら彼女の肩を抱いているかのようだった。
「凛お姉さま、茜ちゃん。……私、この子を、あの人が憧れた『光』のなかで育てます」
三姉妹の夜は、穏やかに更けていく。
新しく書き換えられた世界のシステムは、すでにまさ子の胎動と共に、静かに、確実に社会の暗部を浄化し始めていた。
愛する男の死さえも「愛のアップデート」として飲み込んだ、二十一歳の女王。
彼女が次に「芍薬を束ねる」とき、そこには果たして、デジタルの海を超えたどのような「未来」が立ち上がるのか。
糖質の抑えられた、けれど最高に甘いカステラの余韻を楽しみながら、エス家の女たちは、まだ見ぬ明日への一歩を、静かに踏み出したのである。
(光の航跡・完)




