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第83話 何、この空気


「藤原君寝た?」


「うん」


 ウッドデッキに入ってきた夕夜が、私を見てふっと笑う。

 足湯に浸かってる私の隣に来て、あぐらをかいて座った。


「入らないの?」


「まあ興味はないよね」


「なにそれ。気持ちいいよ?」


「足だけ濡れるのやだよ」


 変なこと言う夕夜に笑うと、夕夜も小さく笑った。


「藤原君、バーベキューまでに回復するかな」


「起きれても肉はきつそう」


「鏡夜、気の利いたもの買ってくればいいけど」


「あいつには無理だよ」


 即答。

 兄、全然信用されてない。


「……でも斎藤さんもいるし大丈夫だよね」


「そうだね」


 夕夜があぐらに頬杖をついて、じっと私を見る。


「な、なに?」


 夕夜は答えず、私が足で作った波紋に視線を落とした。


「な、なに……?」


「ふっ、別に」


 口元にわずかに笑みを浮かべている。

 変な夕夜。

 

 少しして夕夜がふと顔を上げる。


「藤原ってさ⋯⋯」


 夕夜が少し眉を寄せる。


「……あれ僻覚絵(ひがおぼえ)?」


「え……ううん、“空蝉未(うつせみ)” って言ってた」


「だよね。あの倒れ方、僻覚絵じゃないよな」

 

「夕夜は、やっぱり “空蝉未” 知ってたの?」


 なんとなくそんな気がしていた。

 少し間を置いてから夕夜が答える。


「……うん、一度見てる」


「それって、私に?」


 夕夜が視線を逸らした。


「もしかして、私も何か、見られてるかな?」


「いや、たぶん華のことは見なかったか⋯⋯見れなかったんだと思う」


「なんで?」


「あいつ、華のことも、鏡夜とか名竹のことも、何も知らなかったから」


「え、それって一番最初のとき?」


「うん」


 夕夜が小さく息を漏らす。

 落ち込むように頭をさげる。


「俺たちの中学のときのこと話し出して。まあ、いつもの感じで悪気なく」


 視線を遠くに向ける。


「隠し通すのは無理なのも分かってたけど、あのときではなかったから。藤原がそのときの会話を “空蝉未” で消してくれたんだ」


「夕夜……」


 あの頃にはもう夕夜はずっと一人で……守ってくれてた。

 私はやっぱり、何も知らない。

 胸の奥が少し痛んだ。

 

「藤原、あのお爺さんに使ったんだよね?」


「うん⋯⋯でも、あのお爺さんの記憶は消したというより」


「引き出した?」


「そう! そんな感じ」


 お爺さんは急に鷹野先生のことを思い出したように話し始めていた。


「記憶を出したり、しまったりしてる感じかな」


「出して、しまう?」


「うん、今のところこれが一番しっくりくる」


 夕夜は小さく肩をすくめた。


「藤原、起きたら問い詰めるか。今なら弱ってるしね」


 夕夜がわざとらしく悪い笑みを浮かべるから、つられて笑ってしまう。


 笑ってる私を見て、目を細めた夕夜が思い出したように口を開く。


「あとさ、言おうか迷ってたんだけど……」


「何?」


「華、でこ出てる」


「はっ?!」


 おでこを押さえる。


 前髪が! いないっ!


 あっ!


 おでこの上に大きなヘアクリップ。

 さっき顔洗ったときに前髪あげてそのままだった!


 夕夜が吹き出して笑う。


「いつ言おうか迷ってたら、真面目な話になっちゃって……」


 は、恥ずかしい!

 夕夜、笑ってる……。


 慌てて外した拍子に、クリップは勢いよく跳ね、そのまま足湯の中に落ちていく。


「あ!」


 前髪を直しながら視線で追う。


「そんなに嫌?」


 夕夜がくすくすと笑いながらお湯の中に腕を突っ込み、クリップを探す。

 私も一緒に覗き込む。


「待って華、影になって見えない」


「あ、こっちだ」


 私の足元にぶつかったクリップを拾おうと、夕夜がさらに身を乗り出す。


 そのとき、頬に夕夜の前髪がわずかに触れた。

 反射的に顔を向けると夕夜と目が合う。


 あ、近い⋯⋯。


 動いたら、ぶつかる、かもしれない距離⋯⋯


 でも、私も……夕夜も引かない。


 呼吸が止まりそうになる。

 心臓の音で、震える。


 なんかもう、このまま⋯⋯。

 わざとなら、いいんだよね。


 ずるい考えが頭をよぎる。


 たぶん、私も⋯⋯。

 我慢できなくなっている、のかも。


 迷いながら視線を下げた。

 わずかに俯くと、夕夜の視線がついてくる。


 夕夜が床に片手をついて、身を乗り出す。

 濡れたままの手を私の頬に伸ばしてくる。


 その手に引き寄せられるように、わずかに身体を寄せた。


 夕夜が息を呑む。


 咄嗟に濡れた手で私の口元を押さえてきた。


「っぶね」

 

 小さく声を漏らす。

 力が抜けバランスを崩した夕夜が、私の肩に頭を預けるように寄りかかってくる。


 夕夜の息が耳元にかかる。

 これは、これで近いのだが⋯⋯。


 夕夜の手から、ぽたぽたと水滴が垂れる。

 口元を塞がれたまま、夕夜の肩にそっと触れる。


「あっ、ごめん」


 夕夜の身体と手が離れていく。

 視線を逸らした夕夜に、少しだけ罪悪感を覚える。


「なんで、私の方を押さえるの?」


 手元に置いていたタオルで顔を拭きながら、思わず笑った。


「⋯⋯」


 夕夜が呆れたようにため息を吐く。


「今のは華じゃない?」


「⋯⋯え?」


「俺のこと試した」


「へ?」


()()()()()()んじゃなかったっけ?」


「あっ……えと⋯⋯」


「⋯⋯順番飛ばすの?」


「〜〜っ!」


 タオルに顔を埋める私に、夕夜が意地悪な笑みを浮かべた。



 ***



「何、この空気」


 あれから三十分くらい経った頃。


 藤原君がダルそうにリビングに入ってきた。

 ソファで並んで座る、黙りこむ私と笑みを浮かべる夕夜を交互に見る。


「名竹さん、今度は何したの」


「な、私?!」


「まあいいけど」


 身体を引きずるようにしてキッチンへ向かう藤原君を、夕夜が追いかける。

 夕夜の視線からやっと離れられ、少しほっとする。


「水?」


「うん」


「やるから座ってなよ」


「どうも」


 藤原君はそのまま一人掛けのソファに腰を下ろし、身体を倒した。

 夕夜が心配そうに水を差し出す。


「一時間も寝てないんじゃない?」


「脳が興奮して」


「……そう」


「考えたいのに頭が動かない。マジ気持ち悪い」


 私もそばに移動して藤原君の向かいに座る。

 力ない視線が向けられる。


「大丈夫? 羊でも数えてあげようか?」


「そんな凄惨な現場イメージして寝れるとは思えない」


「羊に何してんの……じゃあ子守唄は?」


「ノイズでしかない」


「えー、夕夜は即落ちだよ」


「華いつの話してんの……」


「俺は何を聞かされてるんだ」


 藤原君が深く息を吐く。


「とんてんとんてん鍛冶屋のつーちー」


「しかも何その歌」


 藤原君の顔が歪む。


「うちはなぜかこの歌が子守唄だったの」


「……知らない歌は脳が動くからやめて」


「もーりーから聞こえてきます」


「続けるのかよ……」


 藤原君は迷惑そうに身体を背け、腕に顔を伏せる。

 私が短いその曲を何度も繰り返すのを、夕夜は呆れながらも止めなかった。


 藤原君は時々うなり声を上げながら、いつの間にか眠っていた。



「……で、なんでこいつはこんなとこで寝てんの?」


 買い物から帰ってきた兄が、抑えた声で訊ねる。


「華の歌で落ちた」


「はは、あれ魔鏡生物にも効くんだ」


 そう言ってカゴに入った果物の盛り合わせを藤原君の前のテーブルに置く。

 メロンやら桃やらが入った、やたら高そうなセット。


 でも……。


「これ、お供物じゃ」


「豪華だろ?」


「今の藤原には不謹慎じゃ……」


「カットフルーツもあったんだけど、ホスト感がな」


「ふふっ」


「⋯⋯だからって供えるなよ」


 藤原君が重そうに身体を起こす。

 兄が置いたフルーツ盛りを見ると、気恥ずかしそうに目を逸らす。


 兄がソファに寄りかかる元気のない藤原君をじっと見る。


「何?」


「俺の霊力やろうか?」


「⋯⋯どういう意味?」


「コーキ、霊力使い切ってるから」


「……」


「足りない分入れればマシなんじゃね?」


「……嫌な予感しかない」


「なんでだよ」


「……どうやって霊力入れんの?」


「え、知らんけど。セオリーは口移しじゃね?」


「却下」


「俺は気にしねーぜ?」


 き、気にしないんだ……。


「そこまでの仲じゃない」


 そ、そういう問題なんだ……。


「まあそれは冗談だけど、霊力補給は石上でも無理だと思うぞ? 自然回復待つしかない」


「……今回は取りすぎたか」


 藤原君が舌打ちして、諦めたようにため息を吐く。


 兄はそんな藤原君をじっと見て、密かに笑った。



 明日の朝、藤原君に起こることなど誰も知らなかった――。


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