第19話 日常は始まらない
「おはよう、玲香」
下駄箱で、眠そうにしている玲香と会った。
「あ、おはよう華。昨日、大丈夫だった?」
そう言いながら、玲香は私の後ろにいる夕夜を見てニヤついている。
「⋯⋯おはよう、瀬戸」
靴を履き替えながら、夕夜が横目で玲香を見る。
「あぁ、大伴。おはよー。あんま詰めすぎないであげてよ」
「⋯⋯分かってるよ」
小さく呟くと、夕夜はそのまま先に教室に向かった。
「で、何があったの?」
玲香がすぐに食いついてくる。
「いきなり “明日一緒にいて” なんて言うくらいだから、大伴と何かあったんでしょ?」
「なんか夕夜が、知らない間に大人になっちゃってて⋯⋯」
思い出しただけで、胃がひっくり返りそうになる。
「大人? 告られたの?」
「ま、まさか」
「え、じゃあ浮気?」
「っ、違うよ! そもそも付き合ってないし」
「え⋯⋯浮気なの? ちょっと見損なったんだけど、大伴」
「違う違う! 本当にそういうんじゃなくて⋯⋯私のレベルが低いだけで⋯⋯」
「まぁ。さっきの感じだと解決してるんでしょ?」
「そう見える?」
「うん。大伴の方は平常運転じゃない? 私がいるから先に教室行っただけで、それまではがっちりガードしてたじゃん」
「ガード?」
「⋯⋯そういうとこだと思うよ、華」
「おはよう、名竹さん」
教室に入ろうとしたところで、後ろからご機嫌な声。
振り向くより早く、私はその腕を掴んで壁際へ押しやった。
「え、華?!」
玲香の方が驚いている。
「おはよう、藤原君?」
「あれ? どうしたの、名竹さん」
壁に押さえつけられてるのに、藤原君は余裕の笑みで私を見下ろしてくる。
……あぁ、今日も顔がいい。
……じゃなくて。
「ああいうのやめてくれる?」
「え? あぁ、何? 大伴君に押し倒されたとか? おめでとう」
「夕夜がそんなことするわけ……ないでしょ」
「マジかよ、大伴君。聖人すぎん?」
「手が早いらしいあなたとは違うのよ」
「えー。それは名竹さんに魅力が足りないんじゃない?」
「あなたねぇ!」
「おい、裏番」
ぱこん、という軽い音と一緒に頭を小突かれた。
振り向くと、例のイケメン先生が立っていた。
「先生?!」
「名竹……校内で暴力沙汰はやめとけよ?」
「え!」
違うと言おうとして、私は美しい少年を壁に押さえつけていたことに気づく。
慌てて手を離した。
「で何してんの、お前たち」
「別に。遊んでただけ」
藤原君がさらっとフォローしてくれる。
「まぁ、今回は見逃すが……変な遊びはやめとけよ」
「はい、すみません」
呆れた目の先生も、やっぱりかっこいい。
……でも暴力女認定は普通に悲しい。
「そう、それで。名竹、お前に用があったんだ」
「え?」
さっき私の頭を叩いたプリントを差し出した。
「これ、来月の歩行会のしおりと承諾書。兄貴の分な」
「歩行会?」
「新入生行事だよ。お前のクラスでも説明あると思うけど、保護者のサインいるから今週中に俺に持ってこい」
「あ、はい」
「じゃあ、早く戻りな」
そう言って先生は隣の教室に入っていった。
「そういえばさ、掲示板」
先生が去ると同時に、藤原君が小声で言う。
「え。うん」
「あんたと同じ中学の林瑠香。そいつが、たぶん関わってる」
「林さんが?」
「一個だけ混ざってた」
「何が?」
「入学前っぽい話」
「ま。大方、あんたの兄か大伴君狙いでしょ。潰してほしいならやってあげるけど?」
……潰すって何。
この王子、たまに物騒だ。
「いいよ。今度、林さんと話してみる」
「あんまりおすすめしないけど。ちゃんと大伴君に相談しなよ?」
口は悪いけど、面倒見が良い。
「ありがとう、魔術師様」
「それ学校では言うな」
「……華」
離れたところで見ていた玲香が、呆気に取られている。
「あんた、すごいね。いつの間に藤原光輝と仲良く?」
「昨日ばったり会ってね。なんか夕夜と意気投――」
扉を開けたとたん、教室の空気が止まった。
女子の冷たい視線。
……はともかく、男子まで目を逸らす。
「やっぱあんたすごいよね、華」
玲香がくすくすと笑う。
「あ、あれ?」
そりゃそうだ。
藤原光輝を相手にあれだけ廊下で騒ぎを起こせば、目立つどころの騒ぎじゃない。
夕夜がこちらを見る。
呆れたように、少し目を細めて口だけ動かす。
『何やってんの?』
ため息を吐いた。
藤原君は頬杖をついて笑いを堪えている。
⋯⋯どうやら私は、ヤバい奴として認識されたらしい。
兄より先に。
***
「今日から古典を担当する鷹野です。まぁ、今日は当てないから気楽に⋯⋯」
鷹野先生は黒板に自分の名前を書いた。
鷹野貴満。
名前まで渋くてかっこいい。
そして字まで達筆なんてずるい。
「古典って言うと苦手な人も多いと思いますが、昔の人も今の人も、考えること、悩んでることなんてだいたい同じです」
気だるげな喋り方は相変わらずだ。
でも、中庭での見た姿からは想像できないくらい、真面目で穏やかな授業だった。
敬語まじりの抑揚のない低い声が静かに教室に響く。
「中学で『平家物語』、祇園精舍の鐘の声ってやつな。あとは『竹取物語』の今は昔、竹取の翁といふ者ありけり。春は曙の『枕草子』⋯⋯と、この辺りはやって来てると思いますが」
先生の口から『竹取物語』という言葉が出てきてドキッとした。
わざとではない、よね。
先生をちらりと盗み見る。
無機質な表情は変わらない。
眼鏡の奥の感情は読めなかった。
「高校では暗唱ではなく、古文を“読んで”、“読み解く”ことをやります。今日は『徒然草』を少し。教科書八ページ⋯⋯」
教科書を開く音が、教室に広がる。
「つれづれなるままに日暮らし硯にむかひて⋯⋯なんとなく、することもなく、朝から晩まで机に向かって……要は暇だったんですね、この人」
先生の言い方に教室に少しだけ笑いが起きた。
「千年前の言葉でも、そこにあるのは“誰かの想い”です。読めるようになるっていうのは、それをちゃんと受け取るってことです」
先生は少しだけ柔らかく笑う。
初めて見る穏やかな表情に、少し気を取られた。
「さて、さっそく品詞分解しますか。ナリ活用から――」
先生の落ち着いた声。
チョークを持つ手。
眼鏡をあげる仕草。
心をときめかせながら授業を受けていた。
――そのとき。
一瞬だけ、ふっと身体が浮くような感覚が走った。
え、今のなに?
誰も気にしてない?
「華!」
突然、夕夜が立ち上がる。
みんなが夕夜を見る中、彼は廊下の方を睨み、臨戦態勢に入っていた。
「え、どう――」
次の瞬間。
教室が、いや――
窓の外が一気に暗転する。
空間が揺らぐ。
これって……結界?
教室中がざわめく中、夕夜が私のところへ来て腕を引いた。
「……何か、来てる。廊下から離れて」
この日。
満月の夜にしか現れないはずの無貌が、学校を襲撃してきた。




