第18話 夕夜と華
華は知らない。
――俺たちに、二人の時間があったことを。
***
「え、いいの?」
「何が?」
「あ、いや……えっ? だって……」
鏡夜が煽ってキスなんかしてくるから、華の方が動揺している。
「そ、その、初めてとかじゃないの?!」
……聞くかな、普通。
「あぁ……」
華は覚えてないから。
「別に」
知ったら、どんな顔するだろう。
まぁ、言うつもりはないけど。
華の表情で、また変なことを考えているのが分かる。
――俺は、華だけなのに。
鏡夜が怒る理由も、分かってる。
――分かってるから、水族館には誘わなかったのに。
水槽のガラスに映る、二つの影。
嫌でも気づく。
変装のつもりなのか、華の髪は長かった。
……あれでバレてないつもりなのか。
いや、鏡夜は分かってるよな。
声をかけてこないだけ、まだマシか。
そこから先は、魚なんて目に入らなくて。
ガラスに映る華に、思い出ばかりが重なっていく。
『ねぇ、フグはどう? 致死量の猛毒だって!』
『天人がわざわざ食べてくれると思う?』
中三の夏、二人きりでこの水族館に来た。
付き合って一年くらい経ってたけど、あれが最初で――最後の遠出だった。
目的は “天人と戦うための魚探し”。
なんて色気のない理由。
ずっと手を繋いで、水の光に揺らめく華を眺めてた気がする。
……ほら、また囚われてる。
ガラスに映った長い髪の華に、振り切ったはずの感情が蘇る。
別に、黒くて長い髪が好きだったわけじゃない。
それでも――
華の中から俺への気持ちが消えて。
華が長かった髪を切ったとき。
あの頃の華がいなくなったことに安心して。
ーー同時に、焦った。
栗色の髪が、何かを切り捨てたみたいに軽やかに揺れていたから。
――ああ、ほんとダサくて嫌だな。
一人になった途端に声をかけられた華を見て、気づけば近くに駆け寄っていた。
苛立ちが募る。
華の自覚のなさに。
髪型がどうとか言ってる、その鈍さに。
それを許容できなくなってる自分に。
『イルカ出せたらすごくない?!』
『イルカ、魚類じゃないけど』
『やってみようよ』
『やだ。戻せなかったら、シャレにならないし』
――そんな、どうでもいい会話まで思い出す。
「あ。ここに来たのも小6ぶりだよね。前はおじさんに――」
あのときと変わらない顔で、隣にいる華が無邪気に話す。
――残酷だな。
「……うん」
違う。
「⋯⋯そうだね」
違うんだ。
胸が、潰されそうになる。
確かにあったあの時間を。
あの華を。
取り戻したくて。
触れたくて。
ただ、縋った。
――俺のものだったんだ。
華に触れるあいつが嫌いだ。
あの教師も嫌いだ。
この先に出会う誰かも、全部。
誰にも渡したくない。
――苦しい。
「ふざけてるでしょ?」
「いや、わりと本気だよ?」
「やっぱり今日の夕夜、なんか意地悪」
「本気だって言ってるのに」
――華には伝わらない。
前とは違う距離。
近づけば、逃げる。
話せば、息を詰める。
困った顔も、戸惑う声も。
そんな顔、前は見せなかった。
一つひとつに、心臓がうるさくなる。
――困るな。
怖がらせてるのは分かってるのに。
思ってしまう。
それでもいい――もっと俺を意識すればいい。
欲が出てしまう。
水族館で買った小さなイルカのぬいぐるみを渡した。
これが、最後の悪あがき。
「あれ、これ……前のと色違い?」
「うん、黒いのがあったから」
「わぁ、ありがとう。並べて飾ろう」
華の部屋には、
あのときに買った水色のイルカがすでに並んでいる。
三つ目のイルカ。
すべてを忘れた君への――仕返し。
――【焦るなよ】
帰りの電車で、鏡夜から届いたメッセージ。
まだ返してなかったな。
⋯⋯うん。
大丈夫。
――今度こそ守るから。




