第37話 それ、私の知らない柊くんだ
翌日の昼休み、教室の空気はいつも通りに見えて、ほんの少しだけ落ち着かなかった。
席替えはまだだ。
朝の校門も、教室へ入る流れも、昼休みに朝倉ひよりが俺――柊真央の隣へ来ることも、昨日までとほとんど変わらない。
変わったのは、たぶん中身の方だった。
昨日の帰り道、俺はひよりに「おまえがしんどそうなの、見てられない」と言った。
好きだとは言っていない。
でも、ただのクラスメイトに向けるには、だいぶ重い言葉だったと思う。
そのせいか、今日のひよりは朝から少しだけ静かだった。
落ち込んでいるわけじゃない。
むしろ、少し嬉しそうですらある。
でも、嬉しいのをそのまま表に出すのが照れくさい、みたいな妙なぎこちなさがある。
「何だよ」
昼休み、ひよりが弁当箱を開いたままこっちを見ていたので、俺は言った。
「何が?」
「さっきからじっと見てる」
「見てないよ」
「見てる」
「……ちょっとだけ」
「何だその訂正」
「だって、昨日のこと思い出すから」
「……」
そこを昼の教室で言うな。
ひよりは少しだけ笑って、それから慌てたように卵焼きを箸でつついた。
耳が少し赤い。
やっぱりわかりやすすぎる。
「おまえ、最近どんどん顔に出るな」
「柊くんが出させるんでしょ」
「人のせいにするな」
「半分はほんとだもん」
その時、教室のドアが開いた。
嫌な予感しかしないタイミングで、七瀬澪が顔を出す。
「邪魔しまーす」
「するなら帰れ」
俺が即座に言うと、
「ひど」
と澪は笑った。
そのまま何でもない顔で教室へ入ってくる。
もうすっかりこのクラスの空気に混ざることへ遠慮がない。
ひよりの空気が、そこでまた少しだけ変わった。
昨日までより、今日の方がはっきりわかる。
警戒というより、意識。
しかも、その意識にほんの少しだけ“面白くなさ”が混じっている。
「七瀬さん、また来たんだ」
ひよりが言う。
「うん」
澪はあっさり答えた。
「今日ちょっと真央の昔の話しようかなって」
「おい」
「何で?」
「何でじゃない」
「だって朝倉さん、気になってるでしょ」
「……」
「図星」
ひよりがすぐには返せず、少しだけ視線を落とす。
やめろ。
そういうところを雑に突くな。
こっちはその一瞬の空気の変化まで拾って疲れるんだよ。
「澪」
俺が低く言うと、
「はいはい」
と澪は肩をすくめた。
「でも、知りたいならちょうどいいじゃん」
「何を」
ひよりが小さく聞く。
「真央の昔」
「……」
「今でこそだいぶマシになったけど、中学の時とかもっとめんどくさかったし」
「おまえ本当に余計なことしか言わないな」
「褒めてる」
「褒めてない」
蓮が向かいの席でパンを持ったまま笑っている。
「始まったな」
「おまえも黙ってろ」
「いや、でもこれは気になるだろ。真央の黒歴史」
「黒歴史扱いするな」
「違うの?」
「違わないかもだけど今おまえが言うな」
教室の何人かも、澪の登場に少しだけ視線を向けている。
ただ、前みたいに“何だ何だ”ではない。
もうある程度、“あの二組の幼馴染がまた来た”として認識され始めているのが嫌だった。
澪はそんな周囲も気にせず、近くの空席に座った。
「で」
澪が言う。
「真央って、昔から鼻いいじゃん」
「……」
「いや、よすぎるっていうか」
「……」
「人多い教室とか、体育のあととか、ああいうの苦手だったでしょ」
「へえ……」
ひよりが小さく相槌を打つ。
その“へえ”が、軽くない。
ちゃんと聞こうとしている声だ。
「まあな」
俺は仕方なく答える。
「中学の頃とか、たまに保健室逃げてたし」
「うわ、やっぱりあったんだ」
澪が言う。
「うるさい」
「だってほんとじゃん」
「それを今ここで共有するな」
「でもその頃から変だったよね」
「おい」
「人のこと見てるくせに、自分は人混みから逃げるし」
「……」
「でも困ってるやつは放っとけないから、結局関わるし」
「……」
「ほんと面倒くさい」
ひよりが、そこで少しだけ笑った。
笑ったが、そのあとに視線が揺れる。
「そっか……」
と、ひよりは小さく言った。
「何だよ」
俺が聞くと、ひよりは少しだけ首を振る。
「ううん」
「気になるなら言え」
「いや、なんか」
ひよりは言葉を探すように、弁当箱の端を箸でつついた。
「私、柊くんの昔のこと、全然知らないんだなって思っただけ」
その言い方が、思っていた以上に静かだった。
そこに棘があるわけじゃない。
責めてもいない。
ただ、本当に“知らない時間があるんだ”と実感した時の声だった。
そしてたぶん、それが少しだけ寂しいのだろう。
俺は一瞬、返事に詰まる。
ひよりが知らないのは当然だ。
今まで話していないのだから。
でも、その当然をこんなふうに真正面から置かれると、妙に引っかかる。
「知る必要なかっただろ」
思わずそう言うと、
「それはちょっとひどい」
と、ひよりが返した。
あ、失敗した。
「いや、そうじゃなくて」
「じゃあどういう意味?」
「昔の俺なんて、知らなくてもいいって話だよ」
「何で」
「めんどくさいから」
「今もだいぶ面倒だけど」
ひよりが言う。
「……」
「でも、今の柊くんは知れてよかったって思ってるよ」
「……」
その言い方が、ひどく真っすぐで、少しだけ息が詰まる。
澪がこっちを見て、少しだけ口元を上げた。
何だその“ほら見ろ”みたいな顔は。
「朝倉さん」
澪が言う。
「何?」
「昔の真央、ほんと今よりもっと閉じてたから」
「閉じてた?」
「うん。人に気づきすぎて疲れて、ちょっと距離取ってた感じ」
「……」
「でも今は、だいぶ人の中にいられるようになった」
「何でだと思う?」
「おまえが聞くな」
俺が言うと、澪は平然と答えた。
「だってたぶん、あんた自身もそこ知りたいでしょ」
俺は答えない。
答えなくても、たぶん澪にはわかっている。
ひよりもまた、少しだけ黙った。
考えている。
しかも今度は、昨日までみたいな嫉妬っぽい揺れ方ではない。
もっと静かで、もっと深い方へ沈んでいる感じだ。
昼休みが終わる少し前、澪は立ち上がった。
「じゃ、私は戻る」
「勝手に来て勝手に帰るな」
「いつものこと」
「最悪だな」
「でも、ちょっとは役に立ったでしょ」
「何に」
「人間関係の濃度に」
「意味わからん」
澪は笑って、それからひよりの方を見た。
「朝倉さん」
「え?」
「今の真央が全部じゃないけど、今の真央が一番新しいのも本当だから」
「……」
「そこは自信持っていいと思うよ」
「何の話だよ」
「気にしないで」
「おまえが一番気になる言い方するな」
そう言い残して、澪は教室を出ていった。
残された教室の空気に、少しだけ静けさが落ちる。
蓮が「いやー、濃いな」と一言漏らしてから、空気を読んだのか今日はそれ以上は混ざってこなかった。
ひよりはしばらく黙って弁当を食べていた。
俺も何を言えばいいかわからない。
でも、その沈黙が重すぎる前に、ひよりがぽつりと口を開いた。
「……昔の柊くんにも、会ってみたかった」
「は?」
思わず間の抜けた声が出る。
「何だよそれ」
「いや、なんか」
ひよりは少しだけ笑った。
「今みたいに話せる前の柊くんって、どんな感じだったのかなって」
「面倒だったよ」
「それは今も聞いてる」
「じゃあ同じだ」
「でも、たぶん違うでしょ」
「……」
「だって、今の柊くんはちゃんとここにいるし」
その言葉が、思ったより胸に残った。
ここにいる。
それはたぶん、ひよりが思っている以上に重い言い方だった。
昔の俺は、教室の空気から少しだけ逃げていた。
今は逃げていない。
逃げきれないとも言うし、逃げたくないとも言える。
その違いの中心に、朝倉ひよりがいないとは、もう言えなかった。
放課後。
帰り道、ひよりは朝より少しだけ静かだった。
でもその静けさは暗いものじゃない。
何かを考えて、少しずつ自分の中へ落としている感じだ。
「何だよ」
俺が言う。
「何が?」
「また考えごとしてる」
「うーん……」
ひよりは少しだけ視線を上に向けた。
「今日は、知らない柊くんの話いっぱい聞いたから」
「おまえな」
「でも、なんか変に嫌じゃなかった」
「……」
「むしろ、ちょっとだけ嬉しかったかも」
「何で」
「だって、今の柊くんを知ってるのは、今の私だから」
その言い方が、昨日までより一段強い。
嫉妬だけじゃない。
ちゃんと自分の位置を見つけようとしている。
そういう感じがした。
そして俺は、それをまた見逃せない。
たぶんもう、そういうことなのだろう。




