第36話 ただのクラスメイトには、もう戻れない
人はたぶん、一度“当たり前”になったものを、そう簡単には手放せない。
それが物でも習慣でもなく、誰かの気配だったなら、なおさらだ。
翌朝、目が覚めた時点で、俺――柊真央の頭の中にはもう朝倉ひよりの顔があった。
昨日の帰り道。
「もっと頼っていい?」と聞いてきた時の顔。
照れているくせに、ちゃんとこっちを見ていた目。
“特別なやつだった”と言ったあとに笑った、あの少しやわらかい表情。
ああいうのを見せられた翌日に平然としていられるほど、俺はできた人間じゃない。
「……寝起きから重いな」
小さく呟きながら、制服に袖を通す。
窓の外は今日もよく晴れていた。
春の終わりが近づいて、朝の光は前より少しだけ強くなっている。風もあるらしく、電線の向こうで木の葉が静かに揺れていた。
朝倉ひよりは、今日もたぶん校門にいる。
そう思うのがもう自然になっている時点で、だいぶまずい。
でも、その“まずさ”に少しずつ慣れ始めている自分もいて、なおさらまずい。
家を出て、通学路を歩く。
朝の空気は軽い。洗いたての制服、開いたばかりの店、花壇の湿った土、登校中の生徒たちのざわめき。いろんなものが混ざる中で、校門が見える頃には、もう無意識に目がいつもの場所を探していた。
いた。
校門の少し手前。
外灯の下の、今ではすっかり“あの場所”になってしまった辺り。
ひよりが立っている。
俺を見つけると、すぐに顔がほころぶ。
その笑い方に、昨日までより少しだけ迷いがなかった。
「おはよう」
「……おはよう」
「今日もちゃんと会えた」
「学校だからな」
「そうだけど、ちょっと意味が違う」
「どう違うんだよ」
「んー……」
ひよりは少しだけ考えるみたいに視線を上げて、それから笑った。
「今日は、待ってるのがもっと自然だった」
「……」
「前より、ちゃんと自分でここに来てる感じ」
「そうかよ」
「そうです」
言い切るのが、前より少しだけ強い。
それを聞きながら、俺はまた小さく息を吐く。
ひよりはもう、自分が俺の近くにいたいと思っていることを、前ほど曖昧にしなくなってきている。
まだ全部を言葉にしているわけじゃない。
でも、“何となく近い”ではなく、“選んで近くにいる”へ変わってきている。
そこまで来ているのに、俺だけがまだ“それをどう呼ぶか”で足踏みしている。
「何その顔」
ひよりが言う。
「何が」
「ちょっとだけ考え込んでる顔」
「おまえも最近それよく言うな」
「柊くんに言われ慣れたから」
「余計なところだけ学習するな」
「えへへ」
笑う。
その笑顔が、朝の光の中でやけに自然に見えた。
校門をくぐる。
今日も何人かの視線はある。
けれど、ひよりは前みたいに気にした顔をしなかった。
もちろん、まったく意識していないわけではないだろう。
でも、もうそれで止まるほどではなくなっている。
教室へ入っても、その流れは変わらなかった。
ひよりは自分の席に鞄を置く。
少ししてから、当然みたいに俺の机の横へ来る。
蓮がそれを見てにやつく。
俺がうるさいと返す。
その一連が、前よりもっと“クラスの日常”になっていた。
「はいはい、おはようございます」
蓮が机に肘をつきながら言う。
「今日も朝から安定してんな」
「何が」
「校門、教室、席横」
「単語だけ並べるな」
「でももう定番だろ」
「だとしても言うな」
「言われたくないなら隠せよ」
「隠せるか」
「お、開き直った」
「違う」
「違わないよね?」
蓮がひよりに振る。
「うーん」
ひよりが少しだけ考える。
「もう今さら感はあるかも」
「何その最強ワード」
蓮が笑う。
「朝倉さん、最近だいぶ強くなったな」
「強くなってないよ」
「なってるだろ」
「そうかな」
「そうだよ」
俺が言うと、ひよりが一瞬だけ目を丸くした。
「え」
「いや、何だよ」
「今の、ちょっと嬉しい」
「何でだよ」
「だって、柊くんがそう言うって珍しいし」
その会話に、近くの席から小さな笑いが起きる。
「もう完全にそういう空気じゃん」
「付き合ってるって言わないだけのやつ」
「うるさい」
俺が言う。
「最近それ言うの、前より弱いよね」
と別の男子が言った。
「うるさい」
「ほら、また」
ひよりがそこで少しだけ笑う。
前なら、この手のやりとりのあとに微妙な固さが残った。
今日は、それがあまりない。
昨日の帰り道で、“もっと頼っていい”と言えたこと。
俺がそれを完全には拒まなかったこと。
その積み重ねが、少しだけひよりを強くしているのかもしれない。
昼休み。
ひよりはいつも通り俺の隣へ座り、弁当箱を開いた。
もうこの動きに、誰も本気で驚かない。
代わりに、「あ、今日もだな」くらいの認識で受け流されるようになっている。
それが良いことなのかどうかはわからない。
でも少なくとも、“いちいち全部がイベント”だった頃よりは、俺の心臓に優しい。
たぶん。
「今日のそぼろ、昨日と違う?」
俺が聞くと、
「え」
ひよりが目を瞬く。
「今、柊くんから聞いた?」
「聞いた」
「珍しい」
「そうか?」
「うん」
ひよりは少し笑った。
「でも嬉しい」
「何でだよ」
「こういうの、前は私からばっかりだったし」
「……」
「最近ちょっとずつ、柊くんから来るようになった気がする」
「そうかもな」
「認めるんだ」
「事実だろ」
「……うわ」
ひよりが少しだけ顔を赤くする。
「何だよ」
「今の、さらっと認めるのずるい」
「ずるいって何だ」
「何かもう、最近そればっかり」
そう言って笑う。
その笑い方に、もう不安の影はほとんどなかった。
前方から視線を感じる。
白瀬凛香だ。
今日も変わらず姿勢がいい。ノートの横に弁当箱をきっちり置き、箸の置き方まで整っている。
でも、その視線の温度は前と少し違う。
警戒はまだある。
たぶん完全には消えない。
けれど、そこに“認めざるを得ないものを見る”ような静けさが混じっていた。
最近の凛香は、前ほどすぐに刺してこない。
むしろ、いったん見て、考えて、それから必要な時だけ言葉を置く。
その変化もまた、今の教室の空気の一部になり始めている。
「白瀬さん」
ひよりが前を見ながら小さく言う。
「何ですか」
凛香が答える。
「今日も見てるね」
「見ています」
「隠さないんだ」
「隠す必要があるんですか」
「それはそれで強いなあ」
軽いやりとり。
でも前ほど尖っていない。
凛香はひよりを見て、少しだけ目を細めた。
「朝倉さん」
「何?」
「今日はずいぶん落ち着いていますね」
「え?」
「昨日までより、ずっと自然です」
「……」
「それはいいことだと思います」
ひよりが一瞬だけ驚いた顔をする。
そして少しだけ、嬉しそうに笑った。
「ありがと」
「礼を言われることではありません」
「でも、うれしい」
「そうですか」
凛香はそれだけ言って視線を戻す。
そのやり取りを見ながら、俺は小さく息を吐いた。
教室の空気は、前よりずっと濃くなっている。
ひより。
凛香。
蓮。
澪。
みんなそれぞれ違う方向から、俺の周りの距離感を変えてきた。
でもその中心にいるのは、やっぱり朝倉ひよりだった。
放課後。
帰る支度をしながら、蓮が俺の肩を小突いてきた。
「なあ」
「何だよ」
「もう半分ラブコメのメインルート入ってるだろ」
「意味わからん」
「いや、今日見てて思った」
「何を」
「朝倉さん、もう“隣にいていいかな”じゃなくて“ここが私の位置”って顔してるし」
「……」
「おまえもそれ、だいぶ受け入れてるし」
「……」
「で、白瀬さんは見てるし、澪さんはたまに爆弾投げるし」
「おまえ、楽しそうだな」
「そりゃな」
「最悪だ」
「でも事実だろ?」
「……」
返せなかった。
だって、その通りだったからだ。
ひよりは前よりずっと自然に俺のそばにいる。
俺もそれを拒まず、むしろそれがないと少し落ち着かない。
凛香はそれを見ている。
澪はそれを知った上で、時々余計なことを言う。
そういう関係の中で、もう“ただのクラスメイト”という言葉だけでは足りない。
足りないのに、まだその先の名前は出てこない。
でも、出てこないからと言って、元の位置へ戻れるわけでもない。
「帰ろっか」
ひよりが言う。
「……ああ」
二人で教室を出る。
夕方の廊下。
窓から差し込む光。
少し冷え始めた風。
その全部の中で、ひよりの歩幅は俺の隣にぴたりと合っていた。
もはや偶然じゃない。
そうなるように歩いているのだ。
校門を出る。
住宅街へ入る手前で、ひよりが少しだけこっちを見る。
「ねえ」
「何」
「今日、なんかよかった」
「何が」
「いろいろ」
「雑だな」
「雑でいいの」
「そうかよ」
「うん」
ひよりは笑って、それから少しだけ真面目な顔になる。
「前はね」
「何だよ」
「ここにいていいのかなって、ちょっと思ってた」
「……」
「でも最近は、ここにいたいの方が強い」
「……」
「それって、だめ?」
その問いに、昨日までの俺ならもう少し時間がかかったかもしれない。
でも今日は、前より少しだけはっきり言えた。
「だめじゃない」
「……」
「少なくとも、俺は困らない」
「それ、かなり嬉しい」
「そうかよ」
「うん、かなり」
ひよりがまた笑う。
その笑顔を見た瞬間、思う。
まだ恋と呼ぶには少しだけ臆病だ。
でも、朝倉ひよりが俺の毎日に入り込んでいることは、もう疑いようがない。
朝の校門。
昼休みの隣。
放課後の帰り道。
そのどこからひよりが抜けても、たぶん今の俺は、前みたいには平気でいられない。
つまり、そういうことなのだろう。
近いから困る。
近いから落ち着く。
放っておけない。
でも、手放したくもない。
そんなの、ただのクラスメイトに向ける感情ではなかった。




