第34話 今日だけは、俺から行く
翌朝、俺――柊真央は目覚ましが鳴る前に起きた。
起きた瞬間、自分でも少しだけ嫌になった。
理由はわかっている。
昨日、七瀬澪に言われた言葉が、まだ頭の中に残っていたからだ。
好きかどうかはまだ決めなくていい。でも、ちゃんと選びなよ。
あいつの言い方は昔から腹が立つ。
腹が立つくせに、変に図星なことばかり言う。
しかも今回は、逃げ道のないところを刺してきた。
朝倉ひよりが近くにいるのが当たり前になってきている。
いないと落ち着かない。
距離を取られると気になる。
戻ってくると安心する。
そこまで来ているのに、俺だけがまだ“何でもない顔”をし続けている。
それはたしかに格好悪いのかもしれない。
「……面倒だな」
呟きながら、制服に袖を通す。
窓の外はよく晴れていた。
春の終わりが近づいた朝の光は、前より少しだけ強い。風もそこそこあるらしく、庭木の葉がゆっくり揺れている。
ひよりは、今日もたぶん校門にいるだろう。
昨日までの俺なら、それを前提に少しだけ遅めに歩いていたかもしれない。
でも今日は違った。
考えるより先に、支度が早く終わっていた。
家を出る時間も、いつもより少し早い。
それに気づいた瞬間、自分で自分に呆れた。
「何やってんだ俺」
口に出しても、足は止まらない。
朝の道は静かだった。
通学する生徒の数もまだ少なく、空気は軽い。
洗いたての制服の匂い、開いたばかりのコンビニの空気、朝露の残る草の匂い。そういうものが、いつもよりはっきり感じられる。
校門が見えてきた。
まだ、ひよりはいなかった。
その事実に、少しだけ胸の奥が妙な感じになる。
ほっとしたのか、拍子抜けしたのか、自分でもよくわからない。
「……そりゃそうか」
俺の方が早く来るなんて、今までほとんどなかった。
校門の脇にある外灯のそばで立ち止まる。
通り過ぎていく他の生徒たちが少しだけこちらを見る。
そりゃそうだ。俺みたいなのが、朝から意味もなく校門近くで立っているのはそれなりに怪しい。
落ち着かない。
でも、今さらもう引き返すのも変だ。
数分もしないうちに、見慣れた姿が坂の下から上がってきた。
朝倉ひよりだった。
少し急ぎ足。
でも走るほどではない。
いつもの登校の歩幅だ。
そして、校門の近くに立っている俺を見つけた瞬間――
ぴたりと止まった。
「……え」
その顔が、あまりにも予想外そうで、俺は少しだけ視線を逸らしたくなった。
「おはよう」
何とか先に言う。
「……お、おはよう」
ひよりはまだ目を丸くしている。
それから、じわっと頬が赤くなった。
「え、どうしたの」
「何が」
「何がって、柊くんが先にいる」
「いたら悪いのか」
「悪くないけど! でも、え?」
「……」
「待ってたの?」
「……」
そこを真正面から聞くな。
数秒黙ったあと、もう誤魔化しても意味がない気がして、小さく言う。
「まあ」
「え」
「今日だけな」
ひよりの顔が、見る見るうちに赤くなる。
耳まで赤い。
わかりやすすぎる。
でも、そのわかりやすさが今は妙に胸にくる。
「……それ、ずるい」
ひよりが小さく言う。
「何が」
「だって、昨日まで私が待ってたのに」
「昨日までってほどでもないだろ」
「そういう問題じゃなくて」
「じゃあ何だよ」
「……すごい、嬉しい」
最後だけ少し小さかった。
風が吹く。
朝の光が、ひよりの髪を少しだけ揺らす。
その中で、俺はまた少しだけ言葉に困る。
澪の言う通りだった。
今のまま曖昧に流されているだけじゃだめなら、せめて一度くらい、こっちから動いた方がいい。
頭ではそう思った。
でも実際にやってみると、思っていたよりずっと破壊力がある。
主に俺の心臓に。
「……行くぞ」
それだけ言うと、
「う、うん」
ひよりが慌てて隣に並ぶ。
その並び方まで、いつもと少し違う。
ひよりの方が、少しだけ落ち着かない歩幅をしている。
「何だよ」
俺が言う。
「え?」
「今日はおまえの方が変だな」
「変にもなるよ!」
「何で」
「何でって……」
ひよりが言葉に詰まる。
「だって、柊くんが待ってるなんて思わないし」
「毎回待たせるのもあれかと思っただけだ」
「その言い方もずるい」
「ずるいずるいって、今日はそればっかだな」
「だってほんとにずるいんだもん」
そう言って、ひよりは少しだけ顔を伏せた。
でも、その表情は明らかに嬉しそうだった。
困っている。照れている。落ち着かない。
その全部の奥に、ちゃんと喜んでいる感じがある。
それがわかるから、余計にこっちも落ち着かない。
校門をくぐる。
今日は周囲の視線が、いつもより少しだけ強く感じた。
たぶん気のせいじゃない。
校門近くで待っていた俺を見ていた生徒が何人かいるのだろう。
「あれ、珍しく逆じゃない?」
「今日は柊の方が待ってたっぽくない?」
「うわ、進んでる」
すれ違った女子たちの声が小さく聞こえる。
「……」
「……」
俺とひよりが同時に少し黙る。
こういう時、前ならひよりが笑って何か言っていた。
今日はそうじゃない。
たぶん今のこいつは、それどころじゃない。
自分が嬉しいことと、周りに見られていることが一気に重なって、処理が追いついていない。
それがまた、変に可愛い方向へ転ぶから困る。
「おまえ、ほんとわかりやすいな」
思わず言うと、
「今日は柊くんにだけは言われたくない」
ひよりが返した。
「何でだよ」
「だって今日のこれ、私の方がずっと不意打ちなんだけど」
「……」
「心臓に悪いよ」
「おまえがそれ言うのか」
「言うよ!」
その返しで、少しだけいつもの調子が戻る。
教室へ入った瞬間、案の定、蓮が反応した。
「うわ」
その一言に、クラスの数人までつられてこっちを見る。
「何だよ」
俺が言う。
「何だよじゃないだろ」
蓮が完全に面白がっている顔で言う。
「今の、校門から一緒に来た?」
「いつももそうだろ」
「違う違う」
蓮が首を振る。
「今日は朝倉さんの顔が違う」
ひよりがぴたりと止まった。
「え」
「何その反応」
「いや……」
「で、真央」
「何だ」
「それ、おまえ今日先にいたな?」
「……」
「図星だ」
「おまえ、そういうのだけ本当にうるさいな」
「うわ、マジか」
蓮が笑う。
「今日だけは、俺から行く的な?」
「タイトルみたいに言うな」
教室の何人かが「え、何それ」「ほんとに?」と面白がる。
ひよりは完全に真っ赤だった。
後ろの席へ鞄を置きながらも、動きが少しぎこちない。
でもそれを見て、俺は妙に後悔しなかった。
たぶん、これでよかったのだ。
「……柊くん」
ひよりが小さく言う。
「何」
「今日のは、あとでちょっと文句言う」
「何でだよ」
「嬉しかったから」
「文句じゃないだろ」
「そういう意味の文句」
その返しに、蓮が腹を抱えそうになる。
「やばいな」
「何が」
「朝からだいぶ強いぞ今日」
「うるさい」
前方では、白瀬凛香がノートを机へ出しながら、静かにこちらを見ていた。
その視線は相変わらず意味深だ。
でも、前みたいな冷たさだけではない。
何かを確認するような、少しだけ考えるような目だ。
ひよりの方は、その視線に気づいたのか、一瞬だけ背筋を伸ばす。
それでも今日は、昨日までみたいに引かない。
そこが大きかった。
朝、俺が待った。
それだけで、ひよりの中でも何かが少しだけ変わったのだろう。
昼休み。
ひよりはいつも通り隣へ来た。
でも今日は、座る前に一瞬だけこちらを見て、少しだけ笑う。
「何だよ」
「ううん」
「絶対何かあるだろ」
「だって、今日のこと思い出すとちょっとにやけそうで」
「やめろ」
「無理だよ」
「俺まで落ち着かなくなる」
「じゃあ一緒だね」
そう言って笑う顔が、朝よりだいぶ自然になっていた。
その変化に、俺は小さく息を吐く。
結局、澪の言う通りだったのかもしれない。
言葉にできないなら、せめて動く。
そういう一歩が、今のひよりには必要だったのだろう。
そしてたぶん、俺自身にも。
放課後、帰り道。
「……今日だけって言ってたけど」
ひよりが言う。
「何が」
「朝のやつ」
「……」
「またある?」
「知らない」
「その“知らない”は、ちょっと期待していい方?」
「都合よく解釈するな」
「する」
ひよりはそう言って笑った。
その笑顔を見ながら、俺はまた小さく息を吐く。
今日は一歩動いた。
たったそれだけなのに、昨日までとは少し違う景色に見える。
たぶん、こういうのを“関係が進む”というのだろう。
まだ恋と言い切るには少しだけ怖い。
でも、もうただ並んで歩いているだけの距離ではなかった。




