第33話 幼馴染は、背中くらい押してやる
七瀬澪という女は、人が目を逸らしたいところほどよく見ている。
そして見つけたら、たいてい遠慮なく踏み込んでくる。
それがわかっていたから、俺――柊真央は、その日の放課後、教室のドアのところに澪の姿を見つけた瞬間に小さくため息をついた。
「……何だよ」
「何だよ、じゃないでしょ」
澪は壁にもたれたまま言う。
「話ある」
「帰る」
「じゃあ帰りながらでいい」
「断る」
「断れてない時点で、もう負けてるよ」
こいつは本当に昔からこうだ。
しかも今日は、からかう時の顔ではない。
半分くらい本気で、何か言うつもりの目をしている。
教室の中では、ひよりが女子たちと話しながら帰る支度をしていた。
白瀬凛香は前方でノートを整えている。
蓮は俺と澪を交互に見て、明らかに面白がっている顔だ。
「行ってこいよ」
蓮が言う。
「おまえは黙れ」
「いや、今の澪さん、絶対軽口だけじゃないやつだろ」
「わかるのか」
「そりゃな」
「余計なところだけな」
澪は俺の返事なんか待たずに、さっさと廊下へ出た。
追わないと、あとでさらに面倒になる。
それも長い付き合いの中で学習済みだった。
仕方なく鞄を持って後を追う。
廊下には夕方の光が差し込んでいる。
教室のざわめきから半歩外れただけなのに、空気が少しだけ静かになる。
窓の外では運動部の声が遠く響いていて、春の終わりの風が細く通っていた。
澪は階段の踊り場まで行ってから立ち止まった。
「で」
俺が言う。
「何だよ」
「その入り方で本当にわからないの?」
「わからないから聞いてる」
「へえ」
澪は少しだけ笑ったが、その笑い方も今日は浅い。
「朝倉さんのこと」
まっすぐだった。
「ちゃんと選びなよ」
「……」
「ほら、黙る」
「急に何言い出すんだよ」
「急じゃないでしょ」
「急だろ」
「全然急じゃないって。ここ最近ずっと同じとこで詰まってるじゃん、あんた」
反射的に言い返しかけて、少しだけ止まる。
たしかに、同じところで詰まっている。
朝倉ひよりは近い。
それが当たり前になってきている。
俺もそれを拒まない。
むしろ、いなくなると落ち着かない。
でも、その関係にまだ名前はつけられない。
つけようとすると、どこかで怖くなる。
「……選ぶって何だよ」
ようやくそれだけ返すと、澪は少しだけ眉を上げた。
「そこから?」
「そこからだろ」
「いや、もうちょっと自覚あるかと思ってた」
「勝手に決めるな」
「じゃあ言い方変える」
澪は壁から背を離し、腕を組んだ。
「朝倉さん、あんたの曖昧さで削れてるよ」
「……」
「それは見えてる?」
「……」
「見えてないわけじゃないでしょ」
「見えてる」
「じゃあ話早いじゃん」
話は早くない。
見えているからこそ、簡単に動けないところもある。
俺の一言で、ひよりとの距離が変わるかもしれない。
今のままの近さも、笑いながら隣に来る感じも、壊れるかもしれない。
そう考えると、どうしても慎重になる。
いや、慎重じゃないのかもしれない。
白瀬に言われた通り、ただ臆病なだけで。
「……おまえさ」
俺が言う。
「何」
「簡単に言うなよ」
「簡単に言ってないよ」
「言ってるだろ」
「言ってない」
澪の声は、意外なほど静かだった。
「私、あんたのこと長く見てるから言ってんの」
「……」
「昔からそうじゃん。大事なとこだけ黙る」
「そんなことない」
「ある」
「ない」
「あるって」
即答だった。
こいつは本当に、ここだけは迷わない。
「どうでもいいところでは普通に喋るくせに」
澪が続ける。
「一番肝心なところで、急に黙る」
「……」
「それで、自分では“ちゃんと考えてる”つもりになる」
「……」
「でも周りから見ると、ただ逃げてるだけなんだよ」
痛いところばかりを刺してくる。
しかも、全部少しずつ図星なのが最悪だった。
「朝倉さん、わかりやすい子じゃん」
澪が言う。
「近いし、明るいし、隠すの下手だし」
「おまえ、ひよりのこと好き勝手言うな」
「ほらそういうとこ」
「何が」
「そこだけ反応早い」
言われて、口を閉じる。
たしかに、そうだった。
ひよりのことになると、言葉より先に反応してしまうことが増えている。
それを蓮にも、白瀬にも、澪にも見抜かれている時点で、だいぶ終わっている。
「……じゃあどうしろって言うんだよ」
少しだけ投げるように言うと、澪はそこで初めてほんの少しだけ表情をやわらげた。
「好きかどうかはまだ決めなくていい」
「は?」
「だって、そこまではまだ自分でも整理ついてないでしょ」
「……」
「でも、ちゃんと選びなよ」
「だから何を」
「曖昧でいる方が楽だからって、そこに逃げ続けるかどうか」
夕方の風が、階段の窓から細く吹き込む。
踊り場の空気が、少しだけ冷える。
「朝倉さんのこと、放っておけないんでしょ」
澪が言う。
「……」
「近くにいないと落ち着かないんでしょ」
「……」
「だったら、せめてそこから逃げるなって言ってる」
返せなかった。
好きかと聞かれると、まだ少し怖い。
でも、ひよりが特別かどうかで言えば、たぶんもう答えは出ている。
そのことを、自分で一番わかっているからこそ、言葉にするのが怖いのだ。
澪はしばらく俺を見ていた。
そして、小さく息を吐く。
「別に今すぐ告れって言ってるわけじゃないよ」
「……」
「でも、“わからないから何もしない”はもうだめ」
「……」
「だってもう、何もしなくてもあの子はあんたに揺らされてる」
その言葉が、一番重かった。
ひよりは、たぶんもう戻れないところまで来ている。
俺が近くにいることを前提に毎日を組み立て始めている。
そして俺もまた、ひよりがいない朝に落ち着かなくなるところまで来ている。
それなのに、俺だけが“まだ名前がつけられない”で止まっているのだとしたら。
たしかに、それはずるいのかもしれない。
「……面倒だな」
思わず漏らすと、
「知ってる」
と澪が言った。
「だから昔から言ってるじゃん、あんたは面倒くさいって」
「おまえにだけは言われたくない」
「でも今回は、ちゃんと面倒くさい相手選んだよね」
「何だそれ」
「朝倉さん」
さらっと言うな。
でも、その言い方に少しだけ救われる感じがしたのも事実だった。
ひよりは面倒だ。
近いし、わかりやすいし、こっちを振り回す。
でも、その面倒くささごと気になってしまっているのだから、どうしようもない。
「……おまえ」
俺が言う。
「何」
「何でそこまで言うんだよ」
「幼馴染だから」
「便利な言葉だな」
「あと」
澪は少しだけ視線を逸らしてから言った。
「昔のあんた知ってるから」
「……」
「人のこと見てるくせに、自分のことになると一歩も動けなくなるの」
「……」
「それで、後から一番引きずるのも知ってる」
そこまで言われると、もう何も返せない。
たしかにそうだった。
昔からそうだ。
自分のことになると、変に慎重になって、決めきれなくて、あとから一人で引きずる。
それを、澪はずっと見てきた。
「……帰る」
ようやくそれだけ言うと、
「うん」
と澪が答える。
「今日はこれでいいよ」
「これでいいって何だよ」
「少しは刺さった顔してるから」
「最悪だな」
「知ってる」
階段を降りる。
澪はついてこなかった。
踊り場に残ったまま、手すりに寄りかかっている気配がする。
下まで降りたところで、ふと背中に声が飛んできた。
「真央」
「……何だよ」
「朝倉さん、泣かせるなよ」
「泣かせてない」
「今のところはね」
そう言って、澪は小さく笑った。
その笑い方は、いつものからかい半分のものより少しだけやわらかかった。
教室へ戻ると、ひよりはもう帰る準備を終えていた。
俺を見ると、少しだけ首をかしげる。
「七瀬さん、何だったの?」
「……余計なお世話」
「えー、気になる」
「おまえが気にする必要はない」
「そういう言い方するってことは、けっこう大事な話だった?」
「……」
「図星なんだ」
ひよりが少しだけ笑う。
その笑顔を見た時、澪の言葉がまた頭の中へ戻ってきた。
好きかどうかはまだ決めなくていい。でも、ちゃんと選びなよ。
まだ恋と呼んでいいのかはわからない。
でも、少なくとももう“何でもない”には戻れない。
そこから逃げ続けるのは、たしかにだいぶ格好悪いのかもしれなかった。




