第31話 朝の校門に、いない日
朝の校門に朝倉ひよりがいない。
それだけのことなのに、思ったよりずっと落ち着かなかった。
いや、落ち着かないどころではない。
白鷺高校の校門が見えた瞬間から、俺――柊真央は無意識にいつもの位置を探していた。
脇の植え込みのあたり。
少し手前の外灯の下。
校門をくぐる直前の、あの辺。
いない。
「……は」
小さく息が漏れる。
別に、毎日絶対に待っている約束をしたわけじゃない。
あいつがそうしたい時に勝手に待っているだけで、俺がそれを当然みたいに思う方がおかしい。
わかっている。わかっているのに、いないだけで違和感が強すぎた。
春の朝の空気は、相変わらずやわらかい。
少しだけ湿った土の匂い。洗いたての制服。登校する生徒たちのざわめき。朝日に照らされた花壇。全部いつも通りなのに、そこにひよりの気配だけが抜けているせいで、妙に空気の一部が足りない感じがする。
「……重症だな」
自分で自分に呆れながら、校門をくぐる。
ひよりがいない朝なんて、ついこの前までは普通だったはずだ。
なのに、少し習慣になっただけで、こんなにも差が出るのか。
教室へ入る。
そこで、今度は少し違う意味で足が止まりそうになった。
朝倉ひよりは、ちゃんといた。
いただけじゃない。
いつもより早く来ていて、すでに自分の席で教科書を出している。
なのに、俺の方を見ても、昨日までみたいにすぐ笑ってはこない。
「あ……おはよう」
ひよりが言う。
「……おはよう」
笑顔はある。
あるけど、ちょっと遠い。
席を立ってこっちへ来るわけでもない。
俺もその場で固まる。
昨日までなら、このあと自然に「今日の一時間目って何だっけ」とか「昨日の宿題やった?」とか言いながら、ひよりが近づいてきたはずだ。
今日は違う。
こっちへ来ない。
その違いが、朝の教室の空気をやけに薄く感じさせた。
「おはよー」
斜め後ろから、いつもの声が飛ぶ。
藤崎蓮だった。
そして俺の顔を見るなり、ものすごくわかりやすく眉を上げる。
「何だよ」
「校門いなかっただけで顔死ぬのやめろ」
「死んでない」
「死んでるって。朝倉さん待ってた?」
「待ってない」
「その返し、今までで一番弱いな」
「うるさい」
蓮は吹き出したあと、ちらっとひよりの方を見た。
「あー……」
「何だよ」
「いや、そっちもそっちでちょっと距離あるなって」
「……」
「何かあった?」
「別に」
と、ひよりが言う。
「出た、“別に”」
蓮が即座に言う。
「おまえは拾うな」
「だってわかりやすすぎるんだもん」
ひよりは少しだけむっとした顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
やっぱり変だ。
朝からずっと、ひよりの空気が少しだけ閉じている。
怒っているわけじゃない。
落ち込んでいるわけでもない。
でも、近づくかどうかで迷って、結局一歩引いてしまっている感じ。
原因が澪なのか、昨日の白瀬とのやり取りも混ざっているのか、それとももっと別のことなのかまではまだわからない。
ただ、ひよりが今日は自分から近づいてこない。その一点だけは、嫌になるくらいはっきりしていた。
一時間目が始まる。
教師の声。ノートをめくる音。黒板を引っかくチョーク。
その全部の後ろで、ひよりの気配がいつもより遠い。
距離そのものは数十センチしか変わっていない。
後ろの席にいることに変わりはない。
なのに、体感はもっと離れていた。
小テストの回収の時、ひよりはプリントを回しながら「はい」と小さく言っただけだった。
休み時間も、普段なら何か一言あるのに、今日は別の女子と話している。
二時間目のあと、さすがに我慢できずに後ろを振り向いた。
「朝倉」
「え?」
「何かあったか」
「……何もないよ」
「嘘つくな」
「何でそう思うの」
「朝から違うだろ」
「……気のせい」
その“気のせい”に、ほんの少しだけ力が入る。
やっぱり何かある。
でも、ここで無理に引き出そうとすると、たぶんもっと閉じる。
そういう微妙な空気も、またわかってしまうから厄介だった。
昼休み。
今日もひよりは、俺の席には来なかった。
女子グループの机に混ざって、そっちで弁当を広げている。
笑い声はある。
でもやっぱり、完全にいつも通りではない。
「固定席ヒロイン不在二日目」
蓮がパンを置きながら言う。
「二日目じゃないだろ」
「感覚的にはそのくらいだよ」
「うるさい」
「でもおまえ、わりと本気で落ち着いてないだろ」
「……」
「図星か」
「黙れ」
前方ではひよりが女子たちに何か返して笑っていた。
その笑い方は、ちゃんと明るい。
でも、俺にはわかる。
今日のひよりは、“自分で距離を取っている”こと自体にまだ慣れていない。
だから自然に見せようとして、余計に少し無理が出る。
そうやって見てしまう自分が、また面倒だ。
「行けば?」
蓮が言う。
「何が」
「聞きに」
「……」
「どうせ気になってんだろ」
「気になってない」
「その嘘、今日はだいぶ苦しいぞ」
そう言われた瞬間、前方でひよりが一度だけこっちを見た。
目が合う。
たったそれだけなのに、心臓が妙な跳ね方をする。
ひよりはすぐに視線を逸らした。
ほんの一瞬だけ、困ったみたいな顔をしていた。
――やっぱりだ。
あいつ、自分で距離を取ってみたけど、それで本当に楽になっているわけじゃない。
でも、それをどう言えばいいのかもわからないまま、意地みたいなもので今の位置にいる。
昼休みの終わりが近づく頃には、俺の方がだいぶ消耗していた。
放課後まで、その空気は続いた。
ひよりは必要な時は普通に話す。
ノートを回す。プリントを取る。教師の指示を確認する。
でも、俺の机の横へ来て、どうでもいい一言を投げることはしない。
たったそれだけのことなのに、教室の一日がやけに長く感じた。
放課後。
チャイムが鳴り、帰る支度が始まる。
俺は鞄を閉じてから、少しだけ深く息を吐いた。
もうだめだ。
ここまで来て、まだ「気のせい」で済ませるのは無理だろう。
立ち上がって、後ろを向く。
「朝倉」
「え?」
ひよりが顔を上げる。
いつもより少しだけ驚いた顔だ。
たぶん、俺からはっきり呼ばれると思っていなかったのだろう。
「なんかあったか」
もう一度聞く。
「……何も」
「またそれか」
「だって」
「だって何だよ」
「……」
ひよりが黙る。
教室のざわめきの中で、その沈黙だけが妙に浮いた。
「帰り」
俺が言う。
「一緒に帰るぞ」
「え」
「嫌か」
「……嫌じゃない」
「じゃあ決まりだ」
そこまで言ってから、少しだけ周囲の視線に気づく。
近くの席のやつらが、にやにやしながらこっちを見ていた。
「おー、出た」
蓮が笑う。
「強引ムーブ」
「うるさい」
「でも今のちょっとかっこいいな」
「黙れ」
ひよりは、そんな周囲の声より俺の方を見ていた。
驚いている。
でも、それだけじゃない。
少しだけ、助かったみたいな空気も混じっている。
やっぱり、朝からずっとしんどかったのだろう。
昇降口を出て、校門をくぐる。
夕方の空気は少しだけ冷えていた。
昼間の熱が抜けて、風の匂いも朝より薄い。
人通りの多い通学路を少し歩いて、少しだけ静かな住宅街へ入ったところで、俺は足をゆるめた。
「で」
「……」
「何だよ」
「何が」
「今日のそれ」
「……」
ひよりはしばらく黙っていた。
それから、ほんの少しだけ息を吐く。
「……わかんない」
「何が」
「自分でも」
その答えに、少しだけ肩の力が抜ける。
怒っているとか、明確な理由があるとか、そういう単純なものじゃなかったらしい。
「朝、校門行こうと思ったんだけど」
ひよりが言う。
「うん」
「なんか、行きにくくなって」
「……」
「でも、教室でも柊くんのとこ行かなかったら行かなかったで、変な感じで」
「だろうな」
「そこ“だろうな”なんだ」
「おまえがわかりやすすぎるからだろ」
ひよりが少しだけ頬をふくらませる。
でも、その反応にはもう朝の硬さがあまりない。
「……なんかね」
「うん」
「昨日まで普通だったのに、急に変に意識しちゃって」
「何を」
「距離、とか」
「今さらか」
「今さらだよ!」
少しだけ強めに返してから、ひよりは自分で照れたように目を逸らした。
「七瀬さんのこともあるし」
「……」
「白瀬さんのこともあるし」
「うん」
「何か、急に“私ってどこにいればいいんだろ”って思っちゃって」
その言い方が、やけに胸に残った。
どこにいればいいか。
たぶん、今までのひよりは、あまり深く考えずに俺の隣へ来ていた。
近いことを気にしながらも、でもそこが一番自然だと感じていたからだろう。
それが、澪や凛香の存在で少し揺らいだ。
自分の立ち位置を、急に外から見せつけられた感じなのかもしれない。
「朝倉」
「何」
「おまえ」
「うん」
「そんなことでいちいち位置変えるな」
「……」
「来たいなら来い」
「え」
「校門でも、教室でも」
「……」
「おまえが変に引くと、その方が変だ」
言い終わってから、自分でも少しだけ息が詰まる。
たぶん今のは、かなり踏み込んだ。
ひよりにとっても、俺にとっても。
ひよりは数秒黙ったまま、俺を見ていた。
「……柊くん」
「何」
「それ、ずるい」
「何が」
「だって今の、ほぼ“来ていい”って言ってるじゃん」
「ほぼな」
「ほぼでも十分だよ」
ひよりが、ようやく少しだけ笑った。
朝からずっと見たかった笑い方に近かった。
力が抜けていて、でもちゃんと嬉しさも混じっている。
「……じゃあ」
ひよりが言う。
「明日、また校門行っていい?」
「好きにしろ」
「またそれ」
「便利だからな」
「ずるいなあ」
そう言いながら、ひよりは少しだけ前を向いた。
その横顔から、朝からの妙な重さがだいぶ抜けている。
やっぱり、言わないままだとだめだったのだ。
「ありがと」
ひよりが小さく言う。
「別に」
「それも便利だよね」
「うるさい」
でも、その“ありがと”は今日はちゃんと届いた。
朝の校門にひよりがいないだけで落ち着かなくなる。
教室で距離を取られると、思っていた以上に気になる。
それを認めるのは面倒だし、危ないし、まだ名前もつけられない。
けれど、少なくとも今日ひとつだけわかったことがある。
俺はもう、朝倉ひよりが自分から少し遠ざかるだけで、平然としていられないところまで来ているらしかった。




