第30話 白瀬凛香、初めて少しだけムキになる
昼休みの終わり際というのは、教室の空気がいちばん中途半端だ。
弁当の残り香。
購買のパンの袋。
笑い声の余韻。
そこへ次の授業が始まる前の、少しだけ気の緩んだ空気が混ざる。
その日も一年三組の教室は、そんなふうにゆるんでいた。
昨日のやり取りのせいか、朝倉ひよりは今日、いつもより少しだけ静かだった。
とはいえ、それは落ち込んでいるのとは違う。
恥ずかしさを引きずっている感じに近い。
俺――柊真央も、別に平然としていたわけではない。
ひよりが「私のこと、ちゃんと別で見てるってわかった」と言ったあとの、あの顔。
あれが頭のどこかに残ったままだ。
だから昼休みに隣へ座ってきたひよりが、妙にいつもよりおとなしく弁当を食べているだけで、変に落ち着かなかった。
「何だよ」
思わず言うと、
「え?」
ひよりが顔を上げる。
「今日は静かだな」
「……誰のせいだと思ってるの」
「俺かよ」
「だいぶそう」
「理不尽だな」
「理不尽じゃないもん」
ひよりは少しだけ頬を膨らませたあと、でもすぐに自分で照れたように目を逸らした。
やっぱり、わかりやすい。
その反応を見て、蓮が向かい側からにやっとする。
「おまえらさあ」
「何だよ」
「昨日から妙に“会話の温度”上がってない?」
「上がってない」
「上がってるよね?」
蓮がひよりに振る。
「……知らない」
「うわ、雑な逃げ」
「うるさい」
「でも、前よりだいぶそれっぽいぞ」
「それっぽいって何だよ」
「ラブコメの中盤」
「便利な単語みたいに使うな」
蓮は笑いながらパンをかじる。
こいつの言葉を真に受けたくはない。
でも、最近の俺たちの空気が前より変わっているのは事実だった。
ひよりは“近くにいる理由”を、もう隠し切れていない。
俺もそれを拒まない。
むしろ、その近さがない方が落ち着かなくなってきている。
そこへ、よく通る静かな声がした。
「柊くん」
白瀬凛香だった。
顔を上げる。
今日もきっちりした制服、整った髪、余計な感情をあまり表に出さない目。
でも最近は、その“整いすぎた感じ”の向こうに、前より少しだけ揺れが見える時がある。
「何だよ」
「少し」
「今?」
「今です」
昨日の放課後みたいな空気ではない。
もっと淡々としている。
だから逆に、何を言われるのか読みづらい。
「行ってくれば?」
ひよりが言う。
「何でそんな他人事なんだよ」
「いや、白瀬さんがちゃんと“今です”って言う時、行かないと面倒そうだし」
「おまえもだいぶわかってきたな」
「最近ちょっとだけ」
ひよりがそう言って笑う。
その“ちょっとだけ”に、妙に親しみが混じっていて、俺は少しだけ肩の力を抜いた。
白瀬に促されるまま、廊下へ出る。
教室のざわめきが一枚向こうへ遠のく。
窓の外はよく晴れていて、風が少しだけ強い。昼の終わりに近い光が廊下を白く照らしていた。
「で」
俺が先に言う。
「何の用だ」
「先日の件です」
「どれだよ」
「香り付きキーホルダーの件」
「……ああ」
白瀬は廊下の窓際で立ち止まり、俺の方を見た。
「助かりました」
「昨日も言ってただろ」
「改めてです」
「律儀だな」
「そういう性格なので」
「知ってる」
白瀬は一瞬だけ黙った。
その沈黙に、少しだけ気まずさではない何かが混じる。
「……本当に」
白瀬が続ける。
「空気が悪くなる前に戻ったので」
「別に大したことしてない」
「あなたはそう言うでしょうね」
「実際そうだろ」
「そうやって、すぐ自分の行動を軽く扱うところ」
「何だよ」
「良くないと思います」
また来た。
真っすぐな正論。
でも、今日は少しだけ角度が違う。
説教というより、ちゃんと伝えようとしている感じがある。
「……おまえさ」
「何ですか」
「今日は機嫌いいのか悪いのかわからないな」
「どちらでもありません」
「その答えが一番わからん」
「礼を言いに来ただけです」
「礼を言いながら説教するな」
「説教ではありません」
「じゃあ何だよ」
「事実の指摘です」
「おまえ、ほんとそこブレないな」
「ええ」
そこまで言ってから、白瀬はほんの少しだけ視線を逸らした。
珍しい。
完全に目を伏せるわけではない。
でも、いつもみたいにまっすぐ射抜いてくる感じが少しだけ弱い。
「……何だよ」
俺が聞くと、
「何でもありません」
白瀬が返す。
「その“何でもありません”はだいたい何かあるだろ」
「あなたまでそういうことを言うんですね」
「事実だろ」
「……」
白瀬が、今度は少しだけ眉を寄せた。
その表情があまりに一瞬だったので、普通なら見逃したかもしれない。
でも、俺には見えた。
そして、そこでふと気づく。
こいつ、少しだけ調子がいい。
朝の時点より呼吸が安定しているし、顔色もいい。
昨日までのわずかな緊張の尖り方が、今日は少しだけ丸い。
「体調、戻ったな」
俺が言うと、白瀬がぴたりと止まった。
「……」
「何だよ」
「またそういうことを」
「は?」
「どうして、すぐそういうのがわかるんですか」
「見れば」
「その答えは聞きました」
少しだけ呆れたような声。
でも、その奥に前ほどの警戒はない。
むしろ、“また当てられた”ことへの戸惑いに近い。
「今日は朝より楽そうだろ」
「……まあ」
「ならいいじゃないか」
「よくはありません」
「何でだよ」
「あなたにそういうふうに見られているのが、なんだか落ち着かないので」
その言い方に、少しだけ引っかかった。
見られている。
その表現は、朝倉ひよりが時々使うものに少し似ていた。
「それはお互い様だろ」
俺が言うと、
「何がですか」
「おまえだって、俺のことずっと見てるじゃないか」
「……」
「朝倉との距離とか、周りの噂とか、いちいち」
「それは」
「それは?」
「……観察です」
「便利な言葉だな」
白瀬が、そこでほんの少しだけむっとした顔になる。
ああ、珍しい。
完全に整っている時のこいつは、こういう顔をしない。
「何ですか、その言い方」
「いや、俺が“見ればわかる”って言うのと同じくらい便利だなって」
「一緒にしないでください」
「してるだろ」
「していません」
「してる」
「……していません」
語尾が、ほんの少しだけ強くなる。
そこでようやく気づく。
こいつ、今ちょっとだけムキになってるな。
理由はわからない。
でも、わずかに声が硬い。
呼吸も、さっきより少しだけ浅い。
怒っているというより、“うまく流せない”感じだ。
その反応に、こっちの方が少しだけ面食らう。
「白瀬」
「何ですか」
「おまえ、今ちょっと怒ってるか?」
「怒っていません」
「いや、でも」
「怒っていません」
「二回言う時点でだいぶ怪しいだろ」
「……」
白瀬は小さく息を吐いた。
そして、ほんの少しだけ視線を落とす。
「……違います」
「何が」
「怒っているのではなく」
「うん」
「その」
「その?」
「……うまく言えないだけです」
そこまで言われると、逆にこちらも何を返せばいいかわからなくなる。
凛香は、たぶん感情をきれいに整理してから言葉にするタイプだ。
そのこいつが“うまく言えない”と口にするのは、かなり珍しい気がした。
「まあ」
俺はできるだけ平坦に言う。
「おまえにもそういう時あるんだな」
「あります」
「へえ」
「意外そうにしないでください」
「してるだろ」
「していません」
「またそれか」
白瀬が、今度こそ少しだけ睨む。
でも、その睨み方も前より鋭くない。
何というか、“ちゃんと返している”感じがある。
その時、教室のドアが開いた。
「柊くーん?」
ひよりの声だ。
反射的にそちらを見る。
ひよりが廊下のドアのところに立っていた。
たぶん、戻らないから様子を見に来たのだろう。
その視線が、俺と白瀬の間を一度だけ往復する。
そこで空気が、少しだけ変わる。
「あ」
ひよりが言う。
「話してたんだ」
「見ればわかるだろ」
思わず俺が返すと、
「何でちょっととげあるの」
ひよりが少しだけ眉を寄せた。
それに対して、白瀬が静かに言う。
「先日の件について、お礼を伝えていただけです」
「へえ」
ひよりはそう言って笑った。
「それだけ?」
「それだけです」
「……」
「何ですか」
「いや、ちょっと仲よさそうだなって」
「は?」
今度は白瀬が反応した。
その“は?”に、ほんの少しだけ棘が混じる。
ああ、まずい。
ひよりはたぶん、そこまで深い意味で言ったわけじゃない。
でも今の白瀬には、うまく受け流せない角度だったらしい。
「別にそういうわけでは」
「うん、知ってる」
ひよりが言う。
「でも何か、前より普通に喋ってる感じしたから」
「……」
「それ、いいことじゃない?」
ひよりは笑っている。
でもその笑い方の奥に、ほんの少しだけ探るようなものがある。
そして白瀬は、その空気をちゃんと感じ取っている。
だから、少しだけムキになる。
「朝倉さん」
白瀬が言う。
「何?」
「あなたの“いいことじゃない?”は、時々妙に含みがあるように聞こえます」
「えっ」
「そんなつもりはないかもしれませんが」
「……」
「少なくとも、今のはそうでした」
ひよりが一瞬だけ黙る。
今度はひよりの方が、少しだけ面食らった顔をする番だった。
俺だけが、その両方の空気の変化を拾って、心底面倒くさくなる。
「……急に濃いな」
蓮の声が後ろからした。
「いつの間に来た」
「気になったから」
「おまえも見物しに来るな」
「だって何か、今すげえ“ラブコメの気まずい三角”っぽかったぞ」
「黙れ」
蓮の一言で、空気が少しだけ壊れる。
ひよりが「違うから!」と反応し、白瀬は「そういう言い方はやめてください」と冷たく返す。
俺はもう、こめかみを押さえたくなっていた。
ただ、その混乱の中でひとつだけはっきりしたことがある。
白瀬凛香は、今、確かに少しだけムキになっていた。
理由まではわからない。
でも、俺とひよりの間に入ってきた時とは違う種類の揺れ方だった。
そのことが、妙に頭に残った。
昼休みの終わりのチャイムが鳴る。
ひよりは「じゃあ戻るね」と少しだけ不自然に笑って教室へ戻っていった。
蓮も「邪魔した邪魔した」と面白そうに去る。
廊下に残ったのは、俺と白瀬だけだ。
白瀬は数秒だけ黙っていた。
それから、小さく息を吐く。
「……先ほどは失礼しました」
「何が」
「少し、言い方がきつかったかもしれません」
「少しだけな」
「やっぱりきつかったんですね」
「自覚ないのかよ」
「少しはあります」
そこで、ほんの少しだけ間が空く。
「でも」
白瀬が続ける。
「あなたと話していると、たまに調子が狂います」
「何だそれ」
「そのままの意味です」
「俺のせいか」
「半分くらいは」
「半分もあるのか」
「あります」
言い切られて、俺は少しだけ笑いそうになった。
白瀬はそれを見て、さらに少しだけむっとした顔になる。
やっぱり今日は、こいつちょっと面白いな。
でも、それを口にしたらまた面倒なので、やめておいた。




