第28話 教室から消えた香り付きキーホルダー
なくし物というのは、それ自体よりも、そのあとに漂う空気の方が厄介だ。
たとえば財布やスマホみたいに誰が見ても重大なものなら、最初から教室全体が「探そう」という方向へまとまりやすい。けれど、そうではないもの――小さくて、私物で、でも本人にとってはちゃんと大事なもの――が消えると、空気は変にざわつく。
その日の昼休みの終わり、一年三組の教室は、まさにそんな微妙な空気に包まれていた。
「え、ない」
「うそ、ほんとに?」
「さっきまで机に付いてたんだけど……」
声の主は、クラスの女子の一人だった。
名前はたしか、佐伯美咲。
派手すぎないけど明るいタイプで、よく女子グループの真ん中にいる子だ。
その佐伯が、鞄のファスナー部分を何度も見直している。
そこには、本来付いていたらしい何かがない。
「キーホルダー?」
近くの女子が聞く。
「うん、ちっちゃい香水瓶みたいなやつ。前に雑貨屋で買ったの」
「えー、かわいかったやつじゃん」
「それ」
「朝はあったの?」
「朝は絶対あった。教室で一回見たし」
教室のあちこちから「まじで?」「落としたんじゃない?」みたいな声が飛ぶ。
まだ“事件”というほどではない。
けれど、こういう時の教室は、すぐに妙な緊張を帯びる。
誰かが悪意で持っていったのでは、という想像が、冗談半分で混ざり始めるからだ。
俺――柊真央は、その空気の変わり方を席で感じながら、小さく息を吐いた。
ひよりが、すぐ後ろから小さな声で言う。
「なんか嫌な感じだね」
「まだそこまでじゃない」
「でも、みんなちょっとピリッとしてる」
「……そうだな」
たしかに、少しずつそうなりかけている。
紛失したのが“香り付きキーホルダー”というのも微妙にまずい。
アクセサリー寄りの私物で、本人の好みも乗る。
だから見つからなかった時の“誰かが勝手に持っていったのでは”という疑念が、普通の消しゴムなんかより出やすい。
「ねえ、誰か見てない?」
佐伯が言う。
「今日、席替えはしてないし、この教室のどっかにはあると思うんだけど……」
その言い方に、少しだけ棘が混じる。
本人も意識していないのだろう。
でも、“この教室のどっか”と言った時点で、空気は少し変わる。
教室の中にある。
つまり、誰かが気づいていてもおかしくない。
場合によっては、誰かが持っている可能性だってある。
そういう方向へ、集団の想像は簡単に流れる。
「うわ、これ面倒な流れだな」
蓮が小声で言った。
「おまえ余計なこと言うな」
「いや、でも見ろよ。今ちょっと空気変わったろ」
「知ってる」
「真央、そういうのに敏感だもんな」
「……」
敏感、という言い方は便利だ。
でも実際には、俺の感覚はもっと面倒くさい。
空気が変わる。呼吸が変わる。視線の動きが変わる。
それを勝手に拾ってしまう。
そして今日は、それだけじゃなかった。
佐伯の鞄の方から、まだかすかに匂いが残っている。
甘い。
でも安っぽすぎない。
柑橘系の明るさの下に、少しだけ花っぽい丸みがある。
香り付きキーホルダーというなら、たぶんその匂いだろう。
問題は、その匂いが完全に消えていないことだった。
もし朝の時点で教室からなくなっていたなら、もっと散るはずだ。
なのに今も佐伯の机の周辺に微妙に残っている。
つまり――
「……落としたんじゃないか」
思わず口に出していた。
何人かがこっちを見る。
「え?」
佐伯が言う。
「落としたって?」
「盗られたとかじゃなくて」
「でも、鞄に付けてたんだよ?」
「外れやすかったんじゃないのか」
「いや、そんな簡単には……」
そこまで言ってから、佐伯の声が少しだけ弱くなる。
自信が揺れたのだろう。
“絶対そうだ”と言い切れない時の空気に変わる。
ひよりが小さく俺の肩越しに覗き込んだ。
「柊くん、何かわかるの?」
「……たぶん」
「たぶんって何」
蓮が言う。
「さっきまで教室にあったわけじゃないと思う」
「いや、あったよ?」
佐伯が反射的に言う。
「教室で一回見たし」
「どこで」
「えっと……朝、席着いた時に鞄横に置いて……」
そこで佐伯が少しだけ視線を泳がせた。
思い出そうとしている。
でも記憶の輪郭が曖昧だ。
それもたぶん、本当は“ちゃんと確認した”のではなく、“あると思っていた”に近いのだろう。
「朝、廊下側のロッカー寄った?」
俺が聞く。
「え?」
「上履き出す時」
「……寄ったけど」
「その時じゃないか」
佐伯が黙る。
周りの女子たちも、少しずつそっちの可能性を考え始めた顔になる。
「でも、何でそう思うの?」
ひよりが聞く。
そこが問題だった。
何でそう思うのか。
説明するには、“匂いがまだ鞄の近くにしか残ってないから”と言えば簡単だ。
でも、それをそのまま言うのもややこしい。
少し迷ってから、できるだけ雑に答える。
「教室にずっとあったなら、もうちょい香り残るだろ」
「……え」
佐伯が目を丸くする。
「香り?」
「おまえ、それ香り付きなんだろ」
「う、うん」
「じゃあ、もっと机の周りとかに移っててもおかしくない」
「……」
「でも、そんな感じしないから」
蓮がにやっとした。
「うわ、出た」
「何だよ」
「そういう“何でわかるの”ってやつ」
「うるさい」
でも、教室の空気は少し変わった。
疑いから、確認へ。
空気が一段落ち着く。
「ロッカー見てくれば?」
ひよりが言う。
「う、うん……ちょっと見てくる」
佐伯が慌てて教室を飛び出す。
そのあと、教室には一瞬だけ妙な沈黙が落ちた。
みんな、今の流れを整理している。
「柊って、たまにすごいよね」
誰かが言った。
「それ、前も思った」
「何か気づくの早くない?」
「……」
やめろ。
そういう方向へ話を広げるな。
俺が一番面倒になるやつだ。
ひよりは少しだけ誇らしそうな顔をしていた。
こいつは本当に、そういうところを隠さない。
「柊くん、今のすごくない?」
「別に」
「出た」
蓮が笑う。
「“別に”じゃないだろ」
「おまえが拾うな」
「でも実際すごかったって」
「そういうの大げさに言うな」
「いや、普通に助かった流れじゃん」
「……」
前方から、視線を感じた。
白瀬凛香だった。
静かにこっちを見ている。
でも今日は、いつもの“警戒”だけではない。
もっと冷静に観察している感じだ。
数分後、教室のドアが開く。
「……あった!」
佐伯が戻ってきた。
手には、小さな香水瓶型のキーホルダー。
白っぽい透明の飾りが付いていて、たしかに女子が好きそうな感じのやつだった。
「ロッカーの下に落ちてた!」
「よかったー!」
「なんだ、盗られたんじゃなかったんだ」
「びっくりした……」
教室の空気が一気にゆるむ。
笑い声も戻る。
さっきまでの変な疑いが、音を立てて消えていく感じだった。
佐伯はそのまま俺の席の方へ来た。
「柊」
「何」
「……ありがと」
「別に」
「それほんと便利だね」
「便利扱いするな」
「でも助かったし」
佐伯はそう言って笑った。
その時、教室の後ろから澪の声がした。
「ほらね」
振り向く。
いつの間に来ていたのか、澪がドアにもたれていた。
「おまえ、いつからいた」
「“教室の空気変わったな”ってあたりから」
「最悪だな」
「でも見たでしょ?」
「何を」
「真央のそういうとこ」
澪がひよりに向かって言う。
「ほっとけない時、変に早いんだよ」
「……」
「昔からああ」
ひよりが少しだけ笑った。
「うん、なんかわかってきた」
「だろ?」
「澪、おまえ会話に混ざるの自然すぎる」
「幼馴染なので」
「その免罪符強すぎるんだよ」
教室の空気が、今度は別の意味でざわつく。
「え、七瀬さんって柊の幼馴染なんだ」
「そう」
「しかも他クラス?」
「二組」
「へえ、何それ強い」
「強いって何だよ」
「情報量」
笑いが起きる。
そのどさくさで、誰かが言った。
「でも柊って意外とすごくない?」
「わかる」
「なんか、変なとこで頼れる」
「変なとこって失礼すぎるだろ」
蓮が突っ込む。
「でも実際そうじゃん」
「まあな」
「おまえは何で誇らしげなんだよ」
「親友ポジだから」
「勝手に昇格するな」
そのやりとりの中で、凛香だけは静かだった。
でも、その静けさの中身は前より少し違う。
ただ警戒しているのではない。
今の一連を、ちゃんと評価している目だ。
昼休みが終わり、午後の授業になる。
俺はノートを開きながらも、どうにも落ち着かなかった。
クラスの空気は確実に変わった。
“柊と朝倉って距離近いよな”というラブコメ的な視線だけじゃなく、
“柊ってそういうとこあるよな”という、別方向の認識が混ざり始めている。
面倒だ。
でも、悪い方向だけではない。
そう思った瞬間、自分で少しだけ驚く。
昔なら、目立つのは嫌だった。
変なやつだと思われるのも嫌だった。
今も基本はそうだ。
でも、ひよりがさっき少し誇らしそうにしていた顔を思い出すと、それを全部否定したい気にはならなかった。
放課後、帰る支度の時間。
ひよりがいつものように俺の机の横へ来る。
「ねえ」
「何」
「今日のやつ」
「キーホルダーか」
「うん」
「何だよ」
「ちょっとかっこよかった」
「は?」
「いや、だから」
「聞こえてる」
「じゃあ聞き返さないで」
ひよりが少しだけ照れたように笑う。
その笑い方に、また妙に心臓がうるさくなる。
「おまえ、そういうの急に言うな」
「でもほんとにそう思ったし」
「……」
「そういうとこあるんだなって」
「どういうとこだよ」
「ちゃんと見てるとこ」
その一言で、昼間のざわめきが別の意味で頭に残る。
ひよりは、俺のそういうところを“嫌じゃない”どころか、少しずつ好意的に受け取り始めている。
それがわかるから、余計に逃げづらい。
教室の前方では、白瀬凛香がノートを揃えて鞄へしまっていた。
ふと視線が合う。
凛香は一瞬だけこちらを見て、それから静かに言った。
「今日の件」
「……何だよ」
「助かりました」
「え」
「空気が変な方向に行く前に戻したので」
それだけ言うと、凛香はまたノートへ視線を戻した。
短い。
でも、それはたぶん凛香なりのはっきりした評価だった。
前より、少しだけ見方が変わっている。
そのことまで含めて、今日はいろいろと落ち着かない一日だった。
帰り道、ひよりはいつもより少しだけ機嫌がよかった。
歩く速さも軽いし、話し方も昼よりやわらかい。
「何だよ」
俺が言う。
「何が?」
「今日、昼よりだいぶ元気だろ」
「そりゃ、まあ」
「何でだよ」
「えー」
「言え」
「ちょっとだけ、嬉しかったから」
「何が」
「……私が困ってるとき、柊くんってちゃんと気づくんだなって」
「……」
「前から知ってたけど、今日ちょっと改めて思った」
そう言ってひよりが笑う。
その笑い方を見て、俺はまた小さく息を吐いた。
自分ではずっと面倒だと思ってきたことが、誰かにとっては“頼れる”に変わる。
そういうこともあるらしい。
まだ、全部をそう思えるわけじゃない。
でも少なくとも今日は、それを頭ごなしに否定する気にはなれなかった。




