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『汗ばんだ制服の距離が近すぎるせいで、俺の青春は毎日ギリギリです』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第一章 春の距離感は、たぶん校則で制限できない

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第28話 教室から消えた香り付きキーホルダー

 なくし物というのは、それ自体よりも、そのあとに漂う空気の方が厄介だ。


 たとえば財布やスマホみたいに誰が見ても重大なものなら、最初から教室全体が「探そう」という方向へまとまりやすい。けれど、そうではないもの――小さくて、私物で、でも本人にとってはちゃんと大事なもの――が消えると、空気は変にざわつく。


 その日の昼休みの終わり、一年三組の教室は、まさにそんな微妙な空気に包まれていた。


「え、ない」

「うそ、ほんとに?」

「さっきまで机に付いてたんだけど……」


 声の主は、クラスの女子の一人だった。

 名前はたしか、佐伯美咲。

 派手すぎないけど明るいタイプで、よく女子グループの真ん中にいる子だ。


 その佐伯が、鞄のファスナー部分を何度も見直している。

 そこには、本来付いていたらしい何かがない。


「キーホルダー?」

 近くの女子が聞く。

「うん、ちっちゃい香水瓶みたいなやつ。前に雑貨屋で買ったの」

「えー、かわいかったやつじゃん」

「それ」

「朝はあったの?」

「朝は絶対あった。教室で一回見たし」


 教室のあちこちから「まじで?」「落としたんじゃない?」みたいな声が飛ぶ。


 まだ“事件”というほどではない。

 けれど、こういう時の教室は、すぐに妙な緊張を帯びる。

 誰かが悪意で持っていったのでは、という想像が、冗談半分で混ざり始めるからだ。


 俺――柊真央は、その空気の変わり方を席で感じながら、小さく息を吐いた。


 ひよりが、すぐ後ろから小さな声で言う。


「なんか嫌な感じだね」

「まだそこまでじゃない」

「でも、みんなちょっとピリッとしてる」

「……そうだな」


 たしかに、少しずつそうなりかけている。


 紛失したのが“香り付きキーホルダー”というのも微妙にまずい。

 アクセサリー寄りの私物で、本人の好みも乗る。

 だから見つからなかった時の“誰かが勝手に持っていったのでは”という疑念が、普通の消しゴムなんかより出やすい。


「ねえ、誰か見てない?」

 佐伯が言う。

「今日、席替えはしてないし、この教室のどっかにはあると思うんだけど……」


 その言い方に、少しだけ棘が混じる。


 本人も意識していないのだろう。

 でも、“この教室のどっか”と言った時点で、空気は少し変わる。


 教室の中にある。

 つまり、誰かが気づいていてもおかしくない。

 場合によっては、誰かが持っている可能性だってある。


 そういう方向へ、集団の想像は簡単に流れる。


「うわ、これ面倒な流れだな」

 蓮が小声で言った。

「おまえ余計なこと言うな」

「いや、でも見ろよ。今ちょっと空気変わったろ」

「知ってる」

「真央、そういうのに敏感だもんな」

「……」


 敏感、という言い方は便利だ。


 でも実際には、俺の感覚はもっと面倒くさい。

 空気が変わる。呼吸が変わる。視線の動きが変わる。

 それを勝手に拾ってしまう。


 そして今日は、それだけじゃなかった。


 佐伯の鞄の方から、まだかすかに匂いが残っている。


 甘い。

 でも安っぽすぎない。

 柑橘系の明るさの下に、少しだけ花っぽい丸みがある。

 香り付きキーホルダーというなら、たぶんその匂いだろう。


 問題は、その匂いが完全に消えていないことだった。


 もし朝の時点で教室からなくなっていたなら、もっと散るはずだ。

 なのに今も佐伯の机の周辺に微妙に残っている。

 つまり――


「……落としたんじゃないか」

 思わず口に出していた。


 何人かがこっちを見る。


「え?」

 佐伯が言う。

「落としたって?」

「盗られたとかじゃなくて」

「でも、鞄に付けてたんだよ?」

「外れやすかったんじゃないのか」

「いや、そんな簡単には……」


 そこまで言ってから、佐伯の声が少しだけ弱くなる。


 自信が揺れたのだろう。

 “絶対そうだ”と言い切れない時の空気に変わる。


 ひよりが小さく俺の肩越しに覗き込んだ。


「柊くん、何かわかるの?」

「……たぶん」

「たぶんって何」

 蓮が言う。

「さっきまで教室にあったわけじゃないと思う」

「いや、あったよ?」

 佐伯が反射的に言う。

「教室で一回見たし」

「どこで」

「えっと……朝、席着いた時に鞄横に置いて……」


 そこで佐伯が少しだけ視線を泳がせた。


 思い出そうとしている。

 でも記憶の輪郭が曖昧だ。

 それもたぶん、本当は“ちゃんと確認した”のではなく、“あると思っていた”に近いのだろう。


「朝、廊下側のロッカー寄った?」

 俺が聞く。

「え?」

「上履き出す時」

「……寄ったけど」

「その時じゃないか」


 佐伯が黙る。


 周りの女子たちも、少しずつそっちの可能性を考え始めた顔になる。


「でも、何でそう思うの?」

 ひよりが聞く。


 そこが問題だった。


 何でそう思うのか。

 説明するには、“匂いがまだ鞄の近くにしか残ってないから”と言えば簡単だ。

 でも、それをそのまま言うのもややこしい。


 少し迷ってから、できるだけ雑に答える。


「教室にずっとあったなら、もうちょい香り残るだろ」

「……え」

 佐伯が目を丸くする。

「香り?」

「おまえ、それ香り付きなんだろ」

「う、うん」

「じゃあ、もっと机の周りとかに移っててもおかしくない」

「……」

「でも、そんな感じしないから」


 蓮がにやっとした。


「うわ、出た」

「何だよ」

「そういう“何でわかるの”ってやつ」

「うるさい」


 でも、教室の空気は少し変わった。


 疑いから、確認へ。

 空気が一段落ち着く。


「ロッカー見てくれば?」

 ひよりが言う。

「う、うん……ちょっと見てくる」


 佐伯が慌てて教室を飛び出す。

 そのあと、教室には一瞬だけ妙な沈黙が落ちた。


 みんな、今の流れを整理している。


「柊って、たまにすごいよね」

 誰かが言った。

「それ、前も思った」

「何か気づくの早くない?」

「……」


 やめろ。

 そういう方向へ話を広げるな。

 俺が一番面倒になるやつだ。


 ひよりは少しだけ誇らしそうな顔をしていた。


 こいつは本当に、そういうところを隠さない。


「柊くん、今のすごくない?」

「別に」

「出た」

 蓮が笑う。

「“別に”じゃないだろ」

「おまえが拾うな」

「でも実際すごかったって」

「そういうの大げさに言うな」

「いや、普通に助かった流れじゃん」

「……」


 前方から、視線を感じた。


 白瀬凛香だった。


 静かにこっちを見ている。

 でも今日は、いつもの“警戒”だけではない。

 もっと冷静に観察している感じだ。


 数分後、教室のドアが開く。


「……あった!」


 佐伯が戻ってきた。


 手には、小さな香水瓶型のキーホルダー。

 白っぽい透明の飾りが付いていて、たしかに女子が好きそうな感じのやつだった。


「ロッカーの下に落ちてた!」

「よかったー!」

「なんだ、盗られたんじゃなかったんだ」

「びっくりした……」


 教室の空気が一気にゆるむ。


 笑い声も戻る。

 さっきまでの変な疑いが、音を立てて消えていく感じだった。


 佐伯はそのまま俺の席の方へ来た。


「柊」

「何」

「……ありがと」

「別に」

「それほんと便利だね」

「便利扱いするな」

「でも助かったし」


 佐伯はそう言って笑った。


 その時、教室の後ろから澪の声がした。


「ほらね」


 振り向く。


 いつの間に来ていたのか、澪がドアにもたれていた。


「おまえ、いつからいた」

「“教室の空気変わったな”ってあたりから」

「最悪だな」

「でも見たでしょ?」

「何を」

「真央のそういうとこ」

 澪がひよりに向かって言う。

「ほっとけない時、変に早いんだよ」

「……」

「昔からああ」


 ひよりが少しだけ笑った。


「うん、なんかわかってきた」

「だろ?」

「澪、おまえ会話に混ざるの自然すぎる」

「幼馴染なので」

「その免罪符強すぎるんだよ」


 教室の空気が、今度は別の意味でざわつく。


「え、七瀬さんって柊の幼馴染なんだ」

「そう」

「しかも他クラス?」

「二組」

「へえ、何それ強い」

「強いって何だよ」

「情報量」


 笑いが起きる。


 そのどさくさで、誰かが言った。


「でも柊って意外とすごくない?」

「わかる」

「なんか、変なとこで頼れる」

「変なとこって失礼すぎるだろ」

 蓮が突っ込む。

「でも実際そうじゃん」

「まあな」

「おまえは何で誇らしげなんだよ」

「親友ポジだから」

「勝手に昇格するな」


 そのやりとりの中で、凛香だけは静かだった。


 でも、その静けさの中身は前より少し違う。


 ただ警戒しているのではない。

 今の一連を、ちゃんと評価している目だ。


 昼休みが終わり、午後の授業になる。


 俺はノートを開きながらも、どうにも落ち着かなかった。


 クラスの空気は確実に変わった。

 “柊と朝倉って距離近いよな”というラブコメ的な視線だけじゃなく、

 “柊ってそういうとこあるよな”という、別方向の認識が混ざり始めている。


 面倒だ。

 でも、悪い方向だけではない。


 そう思った瞬間、自分で少しだけ驚く。


 昔なら、目立つのは嫌だった。

 変なやつだと思われるのも嫌だった。

 今も基本はそうだ。


 でも、ひよりがさっき少し誇らしそうにしていた顔を思い出すと、それを全部否定したい気にはならなかった。


 放課後、帰る支度の時間。


 ひよりがいつものように俺の机の横へ来る。


「ねえ」

「何」

「今日のやつ」

「キーホルダーか」

「うん」

「何だよ」

「ちょっとかっこよかった」

「は?」

「いや、だから」

「聞こえてる」

「じゃあ聞き返さないで」


 ひよりが少しだけ照れたように笑う。


 その笑い方に、また妙に心臓がうるさくなる。


「おまえ、そういうの急に言うな」

「でもほんとにそう思ったし」

「……」

「そういうとこあるんだなって」

「どういうとこだよ」

「ちゃんと見てるとこ」


 その一言で、昼間のざわめきが別の意味で頭に残る。


 ひよりは、俺のそういうところを“嫌じゃない”どころか、少しずつ好意的に受け取り始めている。

 それがわかるから、余計に逃げづらい。


 教室の前方では、白瀬凛香がノートを揃えて鞄へしまっていた。

 ふと視線が合う。


 凛香は一瞬だけこちらを見て、それから静かに言った。


「今日の件」

「……何だよ」

「助かりました」

「え」

「空気が変な方向に行く前に戻したので」


 それだけ言うと、凛香はまたノートへ視線を戻した。


 短い。

 でも、それはたぶん凛香なりのはっきりした評価だった。


 前より、少しだけ見方が変わっている。


 そのことまで含めて、今日はいろいろと落ち着かない一日だった。


 帰り道、ひよりはいつもより少しだけ機嫌がよかった。


 歩く速さも軽いし、話し方も昼よりやわらかい。


「何だよ」

 俺が言う。

「何が?」

「今日、昼よりだいぶ元気だろ」

「そりゃ、まあ」

「何でだよ」

「えー」

「言え」

「ちょっとだけ、嬉しかったから」

「何が」

「……私が困ってるとき、柊くんってちゃんと気づくんだなって」

「……」

「前から知ってたけど、今日ちょっと改めて思った」


 そう言ってひよりが笑う。


 その笑い方を見て、俺はまた小さく息を吐いた。


 自分ではずっと面倒だと思ってきたことが、誰かにとっては“頼れる”に変わる。

 そういうこともあるらしい。


 まだ、全部をそう思えるわけじゃない。

 でも少なくとも今日は、それを頭ごなしに否定する気にはなれなかった。

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