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『汗ばんだ制服の距離が近すぎるせいで、俺の青春は毎日ギリギリです』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第一章 春の距離感は、たぶん校則で制限できない

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第26話 幼馴染は、昔の真央を知っている

 翌日の昼休み、俺――柊真央は、わりと早い段階で嫌な予感を覚えていた。


 理由は単純だ。


 朝、七瀬澪が来なかったからである。


 来ないなら来ないで平和なはずなのに、あいつの場合は逆だ。

 静かな時ほど、あとで何かやる。

 長い付き合いの中で、それは嫌というほど学習していた。


「何その顔」

 斜め後ろから蓮が言う。

「何が」

「“今日はまだ来てないから逆に怖い”みたいな顔」

「……」

「図星か」

「おまえも嫌なとこだけわかるな」

「観察眼って呼んでくれ」


 呼ばない。


 昼休みのチャイムが鳴り、教室の空気が一気にゆるむ。

 いつものようにひよりが俺の隣に来る。

 来るのだが、昨日よりは少しだけ元気がある。たぶん、昨日帰り道で少し本音を出せたのが効いているのだろう。


「今日のお弁当、なんか軽いね」

 ひよりが言う。

「おまえが人の弁当を評価するの、最近遠慮なくなってきたな」

「近くにいるのが普通になってきたから?」

「自分で言うな」

「だめ?」

「だめじゃないけど、言われると困る」

「じゃあ言う」


 そう言って笑う顔は、昨日の夕方よりだいぶ軽い。

 その笑い方に、少しだけ安心する自分がまた面倒くさい。


 そこへ、教室のドアを軽く叩く音がした。


「失礼しまーす」


 やっぱり来た。


 七瀬澪だった。


 しかも今日は昨日みたいに教室の外から様子を見る感じではなく、最初から堂々と中へ入ってくる。周囲の視線なんて気にしていない顔だ。

 そういうところが昔から変わっていない。


「……何しに来た」

 俺が言うと、

「お昼」

 と澪が答える。

「二組で食え」

「今日はそっち」

「理由になってない」

「いいじゃん、懐かしいし」

「何が懐かしいんだよ」

「真央のこの“面倒くさ……”って顔」


 澪はそう言って笑った。


 ひよりの空気が、そこでまた少しだけ変わる。


 今日のそれは、昨日よりわかりやすかった。

 警戒。

 戸惑い。

 そしてほんの少しだけ、面白くなさそうな感じ。


 それを見て、俺の方が少し落ち着かなくなる。


「えっと、七瀬さん」

 ひよりが言う。

「うん?」

「今日はこっちで食べるの?」

「そう」

「へえ……」

「嫌?」

「別に嫌じゃないよ?」

「その言い方、半分くらい嫌そうだけど」

「おまえ、朝からそういうのやめろ」

 俺が言う。

「朝じゃないよ、昼」

「今そこじゃない」


 蓮が腹を抱えて笑いそうになっているのが見えた。

 うるさい。声を出すな。


 澪はまるで空気を読まないみたいな顔で、近くの空いている席を引いた。

 ひよりの隣ではなく、俺の斜め前。

 その位置取りが絶妙に嫌らしい。


「へえ」

 澪が言う。

「何だよ」

「ほんとに近いんだなって」

「だから何が」

「距離感」

 澪が箸を割りながら、ひよりへ視線を向ける。

「朝倉さんって、本人はそんなつもりない感じでぐいぐい行くよね」

「……」

「しかも、嫌なら言ってって逃げ道もちゃんと作る」

「……」

「無自覚で強いタイプ」


 昨日言っていた評価を、今日もそのまま繰り返す。


 ひよりが少しだけむっとする。


「七瀬さん、それ好きだね」

「何が?」

「その言い方」

「だってほんとだし」

「……」


 ひよりはそこで俺の方をちらっと見た。


 やめろ。

 その“助けてほしいけど、助けてって言うほどじゃない”顔を向けるな。

 わかるから困る。


「おまえな」

 俺が澪に言う。

「何」

「ひよりを分析するな」

「何で?」

「何ででも」

「うわ、雑」

「おまえが丁寧すぎるんだよ」

「褒めてる?」

「褒めてない」


 澪は「ふーん」と笑って、それから一口おにぎりを食べた。


「でもさ」

 澪が続ける。

「真央って、昔からそういう子に弱かったよね」

「は?」

「世話焼きたくなる系」

「何の話だ」

「小学校のときもいたじゃん。忘れ物多いのに毎回笑ってごまかす女子」

「……」

「中学でも、無理して平気な顔するタイプにだけ妙に気づくし」

「おまえ本当にやめろ」

「何で? 事実でしょ」

「朝から――」

「昼だってば」


 ひよりが、またこっちを見る。


 今度の視線は、昨日よりもう少しだけ複雑だった。


 知らない真央の話をされる。

 しかも、その“知らない真央”の中に、今の自分と重なるような要素がある。

 それがたぶん、面白くないのだ。


 でも、ひよりはそこをうまく言えない。


「柊くんって」

 ひよりが言う。

「何」

「昔、そんな感じだったの?」

「そんな感じって」

「今みたいに、人の変化にすぐ気づく感じ」

「……」

「七瀬さんの言い方だと、前からっぽいけど」


 質問自体は軽い。

 でもその奥にあるものは、だいぶ重い。


 おまえの知らない俺の時間を、澪は知っている。

 それを今、ひよりははっきり意識している。


 俺は少しだけ言葉を選んだ。


「昔から、まあ……」

「うん」

「人より匂いとか空気とか、そういうのには敏感だった」

「でしょ」

 澪が割り込む。

「こいつ、小学生の頃から“今日給食の牛乳いつもより酸っぱくない?”とか言って先生困らせてたし」

「そんなこともあったな」

「認めるんだ」

「事実だし」

「あと、体育のあとに“今日みんな普段よりしんどそう”とか言い出すし」

「おまえ、余計なエピソードだけ覚えてんな」

「幼馴染なので」


 ひよりは笑っているが、やっぱり少しだけ引っかかっている。


「へえ……」

 と小さく言って、それから弁当箱へ視線を落とした。

「私、柊くんの昔のこと全然知らないんだな」


 ぽつりと、こぼすみたいな言い方だった。


 その声の温度で、俺は少しだけ息を止める。


 ひよりはすぐに顔を上げて「いや、別に変な意味じゃないよ?」と笑った。

 でも、変な意味じゃないわけがない。

 少なくとも、“気になっていない”ではない。


 澪もそれを察したらしく、箸を止めた。


 少しだけ、真面目な目になる。


「まあ、そりゃそうでしょ」

 澪が言う。

「え?」

 ひよりが見る。

「だって真央、今の方がだいぶ人付き合いマシだもん」

「おい」

「何?」

「その言い方だと昔が終わってる」

「終わってたじゃん」

「言い切るな」

「だって、昔のあんたもっと面倒くさい陰キャ寄りだったし」

「やめろ」

「今も面倒くさいけど、当時はほんと“話しかけんなオーラ”すごかったよ」

「……」

「でも、放っとけないやつだけは結局放っとかないんだよね」

「おまえ」

「何」

「全部言うな」


 澪は肩をすくめる。


「でもほんとだし」

「七瀬さん、結構容赦ないね」

 ひよりが言う。

「長い付き合いだから」

「それで済ませるんだ」

「済ませる」


 ひよりは少しだけ笑った。

 でも、その笑い方はやっぱり昨日までと違う。


 “知らない時間”がある。

 その事実を、軽くは流せない。


 そしてその感情を、俺はまた拾ってしまう。


 ひよりが完全に不機嫌なわけじゃない。

 怒っているわけでもない。

 ただ、少しだけ置いていかれた気分になっている。


 そのくらいの揺れだ。

 そのくらいが、一番困る。


 昼休みが終わる少し前、澪は立ち上がった。


「じゃ、私は戻る」

「最初からそうしてろ」

「ひどいなあ」

「明日も来るのか?」

「気分次第」

「来るな」

「検討しとく」


 そう言って、澪はひよりの方へ軽く手を振った。


「朝倉さん」

「え?」

「真央、昔から面倒だけど、根っこはそんなに変わってないから」

「何その言い方」

「フォロー」

「雑すぎる」

「でも本当だよ」


 それだけ言って、澪は去っていった。


 残された昼休みの空気に、微妙な静けさが落ちる。


 ひよりは少しの間、弁当箱を見ていた。

 それから、小さく息を吐く。


「……柊くん」

「何」

「昔、そんなに暗かったの?」

「何だその聞き方」

「だって七瀬さんが」

「盛ってるだけだ」

「でも否定はしないよね」

「全部は嘘じゃないから」

「へえ」


 ひよりの“へえ”は、明らかにさっきの澪のそれとは違った。


 もっと静かで、もっと個人的だ。


「何だよ」

「ううん」

「気になるなら聞け」

「……じゃあ聞くけど」

「おう」

「私、柊くんの昔のこと、何も知らないんだなって思っただけ」


 また同じことを言う。


 でも今度は、さっきより少しだけ本音に近かった。


 俺は弁当箱を閉じる手を止めた。


「知る必要もなかっただろ」

 口から出たのは、そんな言葉だった。

「それ、ちょっとひどくない?」

「いや、そういう意味じゃなくて」

「じゃあどういう意味?」

「……昔の俺なんて、今よりだいぶろくでもなかったって話だよ」


 ひよりは数秒黙ったあと、少しだけ笑った。


「でも、それ知ってる七瀬さんが今も普通に話してるなら、そこまでじゃないんじゃない?」

「おまえ、意外と前向きだな」

「意外って何」

「いや」

「……」


 ひよりが少しだけこっちを見る。


 その視線には、まだ小さな引っかかりが残っている。

 でも朝よりはだいぶやわらかい。


 放課後になっても、その空気は完全には消えなかった。


 帰り道、ひよりはいつも通り隣を歩く。

 でも、会話の合間に小さな沈黙が混ざる。


「何だよ」

 俺が言う。

「え?」

「また考えてるだろ」

「……何でわかるの」

「わかるから」


 ひよりは苦笑した。


「ずるいなあ」

「何が」

「そうやって、こっちが黙るとすぐ気づくの」

「気づかれたくないなら、もっと上手く隠せ」

「ひどい」

「事実だろ」

「でも」

 ひよりは少しだけ前を向いたまま言う。

「私、知らないことあると、ちょっと気になるタイプかも」

「今さらか」

「今さらだよ」

「自覚遅いな」

「うるさい」


 その“うるさい”が、今日は少しだけ静かだった。


 夕方の風が吹く。

 髪が揺れて、制服の裾がわずかに鳴る。


 その中で、ひよりの空気にはまだ少しだけ沈んだものが残っていた。


 昨日みたいに露骨ではない。

 でも、“少し面白くない”“少しだけ置いていかれた気がする”みたいな感情が、まだ完全には抜けていない。


 それをまた拾ってしまう自分がいて、俺は小さく息を吐いた。


 近くにいるのが当たり前になると、人は少しだけ欲が出る。

 たぶん、ひよりは今そこにいる。


 そして俺は、その変化に気づいてしまっている。

 気づいてしまった以上、もう前みたいにただ隣に立っているだけでは済まないのかもしれなかった。

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