表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『汗ばんだ制服の距離が近すぎるせいで、俺の青春は毎日ギリギリです』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第一章 春の距離感は、たぶん校則で制限できない

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

26/40

第25話 隣にいるのが当たり前になると、少しだけ欲が出る

人は、慣れる。


 それが良いことか悪いことかは、その時になってみないとわからない。


 朝の校門で朝倉ひよりが待っていること。

 教室に入れば、少し遅れて俺――柊真央の机の横へ来ること。

 昼休みにはほぼ当然みたいに隣へ座ること。

 放課後、帰る方向が重なれば並んで歩くこと。


 ほんの数週間前まで、そんなものは全部“たまたま”の積み重ねだったはずなのに、今ではもう、そのどれもが少しずつ日常の形を持ち始めていた。


 そして日常になると、人はそこでようやく別のことを考え始める。


 ――それがもし、なくなったらどうするのか。


 その日の朝も、ひよりは校門の近くで待っていた。


 春の終わりに近い光は、朝のくせにもう柔らかい。風は少しだけあって、登校していく生徒たちの髪や制服の裾を軽く揺らしている。校門の脇の花壇も、この前より少し花が増えた気がした。


「あ、おはよう」


 ひよりは俺を見つけると、いつものように笑った。


 その笑顔も、今ではだいぶ見慣れている。

 見慣れているのに、そのたびに少しだけ心臓が余計な動きをするのだから、本当に慣れているのかどうかは怪しい。


「……おはよう」

「今日はちょっと遅かったね」

「普通だろ」

「私がちょっと早かったのかも」

「また待ってたのか」

「だめ?」

「だめっていうか」

「その言い方、“本気で嫌じゃないけど困ってる”時のやつだよね」

「分析すんな」


 ひよりはくすっと笑って、俺の隣へ並んだ。


 この距離も、今では自然だ。

 いや、自然になってしまったと言うべきか。

 少し前なら近いと感じるたびにいちいち内心が騒いでいたのに、今はもう“近いこと”そのものより、その近さが当たり前になってきていることの方が怖い。


 校門をくぐる。


 朝の空気の中に、登校していく生徒たちの気配が混ざっている。洗剤、整髪料、新しい教科書、朝のパンの匂い、春の風。そういうものに混じって、ひよりの気配だけがやっぱり妙にはっきりしている。


「ねえ」

「何」

「今日の一時間目、小テストあるっけ」

「ない」

「ほんと?」

「昨日も聞いてただろ」

「朝になると自信なくなるんだもん」

「おまえの記憶力どうなってんだ」

「柊くんがいるから大丈夫」

「その理屈やめろ」


 何でもない会話だ。

 何でもないはずなのに、そういうやりとりの一つ一つが積み重なることで、“俺の朝に朝倉ひよりがいる”ことが少しずつ固定化していく。


 それが、最近の一番やばいところだった。


 教室へ入る。


 いつものようにざわめきがある。机を引く音、ノートを出す音、眠そうな欠伸、誰かの笑い声。そこにひよりが一度自分の席へ鞄を置き、少ししてから当然みたいに俺の机の横へ来る。


「おはよー、またセットか」

 斜め後ろから蓮が言う。

「セットって何だよ」

「朝の校門から教室までの一連」

「商品みたいに言うな」

「でももう完全に定番化してるだろ」

「うるさい」

「否定が前より弱いんだよなあ」

「毎日それ言う気か」

「言う」

「最悪だな」


 蓮はパンの袋を机に置きながら笑った。


 こいつは本当に好き勝手言うが、その“見えているもの”が当たっているのが腹立つ。

 最近の俺は、前みたいに全部を“違う”で切り捨てきれない。

 ひよりが隣にいることを、普通に受け入れ始めているからだ。


 そして、たぶんそれはひよりの方も同じだった。


 問題は、そのせいで生まれる別の感情の方だ。


 ホームルーム前、後ろのドアが開いた。


 教室の空気がほんの少しだけ動く。


 七瀬澪だった。


 相変わらず遠慮のない顔で、二組の教室からこっちへ来たらしい。肩に軽く鞄をかけたまま、こちらを見つけると迷いなく歩いてくる。


「あ、おはよ」

 澪が言う。

「……おはよう」

「朝から暗」

「おまえが来ると暗くもなる」

「ひどいなあ」


 ひよりの空気が、そこでほんの少し変わる。


 目に見えるほどじゃない。

 でも俺にはわかる。

 呼吸のリズムが少しだけ変わる。視線が澪の方へ流れる。さっきまで俺の机にかけていた手が、一瞬だけ離れる。


 やっぱり、まだ気にしてる。


「朝倉さんもおはよ」

 澪がひよりへ向く。

「お、おはよう」

「何そのちょっと構えた感じ」

「え?」

「いや、わかりやすいなと思って」

「……」


 ひよりが言葉に詰まる。


 澪はそういうところを、昔から見逃さない。

 そして見つけると、わりと遠慮なく触る。


「おまえ、朝から余計なこと言うな」

 俺が口を挟むと、

「だって今の、朝倉さんの方がわかりやすかったし」

 と澪が言う。

「何が」

「警戒」

「……」

「図星?」


 ひよりは一瞬だけ俺を見て、それから視線を逸らした。


 その動きだけで、だいたいわかってしまう。

 警戒というより、意識だ。


 昨日まで“真央の幼馴染”だった澪は、今は“真央と気安すぎる女子”としてひよりの中にいる。

 それが落ち着かない。


 もちろん、ひよりはそれを上手く隠そうとする。

 でも、まだうまく隠しきれない。


「何だよその顔」

 俺が小さく言うと、

「何でもない」

 ひよりが返す。

「その“何でもない”はだいたい何かある時だろ」

「……今、朝からちょっとめんどくさい」

「おまえがわかりやすすぎるんだよ」

「うるさい」


 ひよりが少しだけ睨んでくる。


 そこへ前方から、静かな視線が差し込む。


 白瀬凛香だ。


 今日も相変わらず姿勢が良く、ノートを並べる手つきまできっちりしている。

 そして、こっちの空気の動きは確実に見ている。


 見ているだけで何も言わないところが、逆に怖い。


 澪もその視線に気づいたらしく、ちらっと前方を見る。


「あの真面目そうな子」

「白瀬」

 俺が言う。

「うん、わかる。見てるね」

「おまえも見んな」

「だって気になるじゃん」

「おまえに気にされるとろくなことにならない」

「よくわかってるね」


 そこで凛香が、静かに口を開いた。


「七瀬さん」

「はい?」

「朝のホームルーム前です」

「そうだね」

「二組もそろそろ始まるのでは」

「追い返してる?」

「必要なら」

「うわ、ちゃんとしてる」


 澪が面白そうに笑う。


 ひよりはそのやりとりを見ながら、ほんの少しだけ表情を曇らせた。

 今度は澪と凛香。

 自分の周りに、真央へ遠慮なく踏み込む女子が急に二人もいる。


 そりゃ、落ち着かないだろう。


 だがそこで問題なのは、俺の方もその空気の違いを拾いすぎて、朝からすでに消耗していることだった。


「何だこれ」

 蓮が小声で言う。

「急に密度が高い」

「おまえが言うな」

「いや客観的に見てそうだろ。ひよりさん、澪さん、白瀬さん」

「勝手に名前並べるな」

「主人公の周りだけラブコメ濃度三倍くらいになってんじゃん」

「うるさい」


 でも、その言い方が妙に的確で腹立たしかった。


 ひよりはいつも通りにしたい。

 澪は面白がりながらも観察している。

 凛香はそこに静かに目を光らせている。

 俺だけが、その全部の変化を無駄に敏感に拾って疲れている。


 昼休みも、その微妙な空気は続いた。


 ひよりはいつものように俺の隣へ来た。

 来たのだが、今日は少しだけ力が入っているように見える。


「今日のお弁当、何?」

 俺が聞くと、

「えっと……普通」

 と、ひよりが答える。

「普通って何だよ」

「普通は普通だよ」

「答えになってない」

「……ちょっと今日は余裕ないかも」


 その返しが、意外なほど素直だった。


 ひよりは自分で言ってから少しだけ気まずそうに笑う。


「何か、変に気使ってるの自分でもわかるし」

「何に」

「いろいろ」

「雑だな」

「柊くんがわかってるくせに聞くからでしょ」


 その一言に、蓮が横から吹き出した。


「何その夫婦喧嘩みたいなやつ」

「違う」

「違うって」

「ハモるのやめろよ。余計そう見えるって」


 笑いが起きる。


 ひよりは笑い返すが、その奥にある疲れは消えていない。

 今日のこいつは、朝からずっと“少し頑張りすぎてる”感じがある。


 そして、その理由もだいたい見えている。


 ひよりにとって、今のこの位置――俺の隣は、もうだいぶ当たり前になっていた。

 当たり前になっていたからこそ、そこへ急に澪みたいな“昔から真央を知っている女子”が入り込んでくると、落ち着かない。


 つまり、欲が出たのだ。


 今まで“近くにいられるだけでいい”と思っていたものが、近くにいられるようになったせいで、今度はその近さを簡単に崩されたくなくなる。


 それを恋とか独占欲とか、そんなきれいな名前で呼べるほどまだ形は整っていない。

 でも、たぶんそういう種類の揺れだった。


「……ひより」

 思わず名前で呼んでしまってから、自分でも少しだけ間を置いた。

「何」

「いや」

「何それ」

「今日、だいぶわかりやすいな」

「……やっぱり?」

「やっぱり」

「じゃあもうだめじゃん」

「だめじゃないだろ」

「何で?」

「隠れてないならまだまし」

「そういうとこ、ほんとよくわかんない」


 ひよりはそう言いながらも、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。


 たぶん、気づかれていること自体に少しだけ救われてもいる。

 それもまた、ややこしい。


 放課後。


 教室の空気がゆるみ、帰る支度が始まる。

 ひよりは席で教科書をしまいながら、朝より少しだけ静かだった。

 笑顔はある。

 でも、今日一日で微妙に削られたものが残っている。


 凛香が前方からこっちを一度見て、それからまた視線を外す。

 今の彼女は“見ているだけ”を選んでいるらしい。

 そこが逆に怖い。


 澪は今日は来なかった。

 でも、不在だからって気配が消えるわけでもない。

 ひよりの中には、まだ今日の朝のやり取りが残っている。


「……朝倉」

 俺が声をかけると、ひよりが顔を上げる。

「ん?」

「帰るか」

「……うん」


 二人で廊下へ出る。


 夕方の風は、朝より少しだけ乾いていた。

 昇降口で靴を履き替え、校門を出る。

 その途中から、ひよりの歩く速さが少しだけ落ちる。


 やっぱり、元気が少し足りない。


「何だよ」

 俺が言う。

「何が?」

「今日」

「……」

「朝からずっと少し変」

「またそれ」

「まただよ」

「そんなにわかる?」

「わかる」


 ひよりはしばらく黙っていた。


 校門を離れ、住宅街へ入る。

 車の音が少し遠くなり、代わりに風と足音だけが目立つ。


「……ちょっとだけ」

 ひよりが言った。

「何が」

「面白くなかった」

「何が」

「七瀬さん」


 やっぱり、と思う。


 でもその“やっぱり”が、今日は嫌な意味じゃなかった。

 そうか、そこまで来たのか、と少しだけ胸の奥がざわつく。


「おまえ、だいぶわかりやすいな」

「うるさい」

「朝からそればっか言ってる」

「柊くんがそう言わせるんでしょ」

「何でだよ」

「何ででも」


 ひよりは少しだけ頬を膨らませる。


 その顔がいつもより少しだけ子どもっぽく見えて、でもその中身はたぶん前よりずっと複雑だ。


 近くにいるのが当たり前になると、人は欲が出る。

 そしてその欲は、自分でも少し怖い。


 今のひよりは、たぶんその手前にいた。


 俺はその顔を見ながら、小さく息を吐く。


 ……ここから先は、もう前と同じ“近いだけの関係”では済まないのかもしれない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ