第25話 隣にいるのが当たり前になると、少しだけ欲が出る
人は、慣れる。
それが良いことか悪いことかは、その時になってみないとわからない。
朝の校門で朝倉ひよりが待っていること。
教室に入れば、少し遅れて俺――柊真央の机の横へ来ること。
昼休みにはほぼ当然みたいに隣へ座ること。
放課後、帰る方向が重なれば並んで歩くこと。
ほんの数週間前まで、そんなものは全部“たまたま”の積み重ねだったはずなのに、今ではもう、そのどれもが少しずつ日常の形を持ち始めていた。
そして日常になると、人はそこでようやく別のことを考え始める。
――それがもし、なくなったらどうするのか。
その日の朝も、ひよりは校門の近くで待っていた。
春の終わりに近い光は、朝のくせにもう柔らかい。風は少しだけあって、登校していく生徒たちの髪や制服の裾を軽く揺らしている。校門の脇の花壇も、この前より少し花が増えた気がした。
「あ、おはよう」
ひよりは俺を見つけると、いつものように笑った。
その笑顔も、今ではだいぶ見慣れている。
見慣れているのに、そのたびに少しだけ心臓が余計な動きをするのだから、本当に慣れているのかどうかは怪しい。
「……おはよう」
「今日はちょっと遅かったね」
「普通だろ」
「私がちょっと早かったのかも」
「また待ってたのか」
「だめ?」
「だめっていうか」
「その言い方、“本気で嫌じゃないけど困ってる”時のやつだよね」
「分析すんな」
ひよりはくすっと笑って、俺の隣へ並んだ。
この距離も、今では自然だ。
いや、自然になってしまったと言うべきか。
少し前なら近いと感じるたびにいちいち内心が騒いでいたのに、今はもう“近いこと”そのものより、その近さが当たり前になってきていることの方が怖い。
校門をくぐる。
朝の空気の中に、登校していく生徒たちの気配が混ざっている。洗剤、整髪料、新しい教科書、朝のパンの匂い、春の風。そういうものに混じって、ひよりの気配だけがやっぱり妙にはっきりしている。
「ねえ」
「何」
「今日の一時間目、小テストあるっけ」
「ない」
「ほんと?」
「昨日も聞いてただろ」
「朝になると自信なくなるんだもん」
「おまえの記憶力どうなってんだ」
「柊くんがいるから大丈夫」
「その理屈やめろ」
何でもない会話だ。
何でもないはずなのに、そういうやりとりの一つ一つが積み重なることで、“俺の朝に朝倉ひよりがいる”ことが少しずつ固定化していく。
それが、最近の一番やばいところだった。
教室へ入る。
いつものようにざわめきがある。机を引く音、ノートを出す音、眠そうな欠伸、誰かの笑い声。そこにひよりが一度自分の席へ鞄を置き、少ししてから当然みたいに俺の机の横へ来る。
「おはよー、またセットか」
斜め後ろから蓮が言う。
「セットって何だよ」
「朝の校門から教室までの一連」
「商品みたいに言うな」
「でももう完全に定番化してるだろ」
「うるさい」
「否定が前より弱いんだよなあ」
「毎日それ言う気か」
「言う」
「最悪だな」
蓮はパンの袋を机に置きながら笑った。
こいつは本当に好き勝手言うが、その“見えているもの”が当たっているのが腹立つ。
最近の俺は、前みたいに全部を“違う”で切り捨てきれない。
ひよりが隣にいることを、普通に受け入れ始めているからだ。
そして、たぶんそれはひよりの方も同じだった。
問題は、そのせいで生まれる別の感情の方だ。
ホームルーム前、後ろのドアが開いた。
教室の空気がほんの少しだけ動く。
七瀬澪だった。
相変わらず遠慮のない顔で、二組の教室からこっちへ来たらしい。肩に軽く鞄をかけたまま、こちらを見つけると迷いなく歩いてくる。
「あ、おはよ」
澪が言う。
「……おはよう」
「朝から暗」
「おまえが来ると暗くもなる」
「ひどいなあ」
ひよりの空気が、そこでほんの少し変わる。
目に見えるほどじゃない。
でも俺にはわかる。
呼吸のリズムが少しだけ変わる。視線が澪の方へ流れる。さっきまで俺の机にかけていた手が、一瞬だけ離れる。
やっぱり、まだ気にしてる。
「朝倉さんもおはよ」
澪がひよりへ向く。
「お、おはよう」
「何そのちょっと構えた感じ」
「え?」
「いや、わかりやすいなと思って」
「……」
ひよりが言葉に詰まる。
澪はそういうところを、昔から見逃さない。
そして見つけると、わりと遠慮なく触る。
「おまえ、朝から余計なこと言うな」
俺が口を挟むと、
「だって今の、朝倉さんの方がわかりやすかったし」
と澪が言う。
「何が」
「警戒」
「……」
「図星?」
ひよりは一瞬だけ俺を見て、それから視線を逸らした。
その動きだけで、だいたいわかってしまう。
警戒というより、意識だ。
昨日まで“真央の幼馴染”だった澪は、今は“真央と気安すぎる女子”としてひよりの中にいる。
それが落ち着かない。
もちろん、ひよりはそれを上手く隠そうとする。
でも、まだうまく隠しきれない。
「何だよその顔」
俺が小さく言うと、
「何でもない」
ひよりが返す。
「その“何でもない”はだいたい何かある時だろ」
「……今、朝からちょっとめんどくさい」
「おまえがわかりやすすぎるんだよ」
「うるさい」
ひよりが少しだけ睨んでくる。
そこへ前方から、静かな視線が差し込む。
白瀬凛香だ。
今日も相変わらず姿勢が良く、ノートを並べる手つきまできっちりしている。
そして、こっちの空気の動きは確実に見ている。
見ているだけで何も言わないところが、逆に怖い。
澪もその視線に気づいたらしく、ちらっと前方を見る。
「あの真面目そうな子」
「白瀬」
俺が言う。
「うん、わかる。見てるね」
「おまえも見んな」
「だって気になるじゃん」
「おまえに気にされるとろくなことにならない」
「よくわかってるね」
そこで凛香が、静かに口を開いた。
「七瀬さん」
「はい?」
「朝のホームルーム前です」
「そうだね」
「二組もそろそろ始まるのでは」
「追い返してる?」
「必要なら」
「うわ、ちゃんとしてる」
澪が面白そうに笑う。
ひよりはそのやりとりを見ながら、ほんの少しだけ表情を曇らせた。
今度は澪と凛香。
自分の周りに、真央へ遠慮なく踏み込む女子が急に二人もいる。
そりゃ、落ち着かないだろう。
だがそこで問題なのは、俺の方もその空気の違いを拾いすぎて、朝からすでに消耗していることだった。
「何だこれ」
蓮が小声で言う。
「急に密度が高い」
「おまえが言うな」
「いや客観的に見てそうだろ。ひよりさん、澪さん、白瀬さん」
「勝手に名前並べるな」
「主人公の周りだけラブコメ濃度三倍くらいになってんじゃん」
「うるさい」
でも、その言い方が妙に的確で腹立たしかった。
ひよりはいつも通りにしたい。
澪は面白がりながらも観察している。
凛香はそこに静かに目を光らせている。
俺だけが、その全部の変化を無駄に敏感に拾って疲れている。
昼休みも、その微妙な空気は続いた。
ひよりはいつものように俺の隣へ来た。
来たのだが、今日は少しだけ力が入っているように見える。
「今日のお弁当、何?」
俺が聞くと、
「えっと……普通」
と、ひよりが答える。
「普通って何だよ」
「普通は普通だよ」
「答えになってない」
「……ちょっと今日は余裕ないかも」
その返しが、意外なほど素直だった。
ひよりは自分で言ってから少しだけ気まずそうに笑う。
「何か、変に気使ってるの自分でもわかるし」
「何に」
「いろいろ」
「雑だな」
「柊くんがわかってるくせに聞くからでしょ」
その一言に、蓮が横から吹き出した。
「何その夫婦喧嘩みたいなやつ」
「違う」
「違うって」
「ハモるのやめろよ。余計そう見えるって」
笑いが起きる。
ひよりは笑い返すが、その奥にある疲れは消えていない。
今日のこいつは、朝からずっと“少し頑張りすぎてる”感じがある。
そして、その理由もだいたい見えている。
ひよりにとって、今のこの位置――俺の隣は、もうだいぶ当たり前になっていた。
当たり前になっていたからこそ、そこへ急に澪みたいな“昔から真央を知っている女子”が入り込んでくると、落ち着かない。
つまり、欲が出たのだ。
今まで“近くにいられるだけでいい”と思っていたものが、近くにいられるようになったせいで、今度はその近さを簡単に崩されたくなくなる。
それを恋とか独占欲とか、そんなきれいな名前で呼べるほどまだ形は整っていない。
でも、たぶんそういう種類の揺れだった。
「……ひより」
思わず名前で呼んでしまってから、自分でも少しだけ間を置いた。
「何」
「いや」
「何それ」
「今日、だいぶわかりやすいな」
「……やっぱり?」
「やっぱり」
「じゃあもうだめじゃん」
「だめじゃないだろ」
「何で?」
「隠れてないならまだまし」
「そういうとこ、ほんとよくわかんない」
ひよりはそう言いながらも、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
たぶん、気づかれていること自体に少しだけ救われてもいる。
それもまた、ややこしい。
放課後。
教室の空気がゆるみ、帰る支度が始まる。
ひよりは席で教科書をしまいながら、朝より少しだけ静かだった。
笑顔はある。
でも、今日一日で微妙に削られたものが残っている。
凛香が前方からこっちを一度見て、それからまた視線を外す。
今の彼女は“見ているだけ”を選んでいるらしい。
そこが逆に怖い。
澪は今日は来なかった。
でも、不在だからって気配が消えるわけでもない。
ひよりの中には、まだ今日の朝のやり取りが残っている。
「……朝倉」
俺が声をかけると、ひよりが顔を上げる。
「ん?」
「帰るか」
「……うん」
二人で廊下へ出る。
夕方の風は、朝より少しだけ乾いていた。
昇降口で靴を履き替え、校門を出る。
その途中から、ひよりの歩く速さが少しだけ落ちる。
やっぱり、元気が少し足りない。
「何だよ」
俺が言う。
「何が?」
「今日」
「……」
「朝からずっと少し変」
「またそれ」
「まただよ」
「そんなにわかる?」
「わかる」
ひよりはしばらく黙っていた。
校門を離れ、住宅街へ入る。
車の音が少し遠くなり、代わりに風と足音だけが目立つ。
「……ちょっとだけ」
ひよりが言った。
「何が」
「面白くなかった」
「何が」
「七瀬さん」
やっぱり、と思う。
でもその“やっぱり”が、今日は嫌な意味じゃなかった。
そうか、そこまで来たのか、と少しだけ胸の奥がざわつく。
「おまえ、だいぶわかりやすいな」
「うるさい」
「朝からそればっか言ってる」
「柊くんがそう言わせるんでしょ」
「何でだよ」
「何ででも」
ひよりは少しだけ頬を膨らませる。
その顔がいつもより少しだけ子どもっぽく見えて、でもその中身はたぶん前よりずっと複雑だ。
近くにいるのが当たり前になると、人は欲が出る。
そしてその欲は、自分でも少し怖い。
今のひよりは、たぶんその手前にいた。
俺はその顔を見ながら、小さく息を吐く。
……ここから先は、もう前と同じ“近いだけの関係”では済まないのかもしれない。




