第24話 近くにいる理由を、まだ名前にできない
翌朝、目が覚めた瞬間に最初に浮かんだのは、昨日の放課後のひよりの顔だった。
少しだけ無理をして、少しだけ逃げようとして、それでも最後にはちゃんと笑った顔。
ああいう顔を見せられると、どうしたって引きずる。
制服に袖を通しながら、俺――柊真央は小さく息を吐いた。
今日はどうなるだろう。
昨日の会話で、少しは元に戻るのか。
それとも逆に、余計に意識してまた変な空気になるのか。
考えても答えは出ない。出ないくせに、頭の中だけは朝から妙に落ち着かなかった。
外へ出る。
空はよく晴れていた。
春もだいぶ進んで、朝の光はもうすっかり柔らかい。風は少しあるが、寒いというほどではない。道端の草木も昨日より少しだけ色が濃く見えた。
校門が近づく。
そして、そこにいるだろうと思った。
実際、いた。
白鷺高校の校門の少し手前。
朝倉ひよりは、昨日までと同じように、でも少しだけ違う感じで立っていた。
違うのは、立ち方だ。
前は“待っている”ことそのものに無自覚な感じがあった。
今は違う。ちゃんと待っていて、そのうえで、それを自分でも自覚している立ち方だった。
俺を見つける。
それから、少しだけ照れたように笑った。
「おはよう」
「……おはよう」
その挨拶ひとつで、昨日までとは違うとわかる。
無理にいつも通りを作っていない。
でも、壁を作る気もない。
ひよりはひよりなりに、昨日の続きの上でここに立っていた。
「待ってた」
ひよりが言う。
「見ればわかる」
「今日はちゃんと自覚して待ってた」
「何の報告だよ」
「大事な違いです」
「そうかよ」
「そうです」
ひよりはそう言って、俺の隣へ並ぶ。
近い。
でも、昨日みたいなざらつきはだいぶ薄い。
代わりに、少しだけ“選んでここにいる”感じが強くなっていた。
「……元気そうだな」
「昨日よりはね」
「そうか」
「柊くんのおかげ、って言ったら調子乗る?」
「乗らない」
「ちょっとは乗っていいのに」
「面倒だからやめとく」
そう返すと、ひよりは笑った。
その笑い方がちゃんと自然で、俺は内心で少しだけ安心する。
校門をくぐって昇降口へ向かう道すがら、何人かの視線を感じた。
もうこの時間、この並び、この距離感は、周囲にとって見慣れたものになりつつあるらしい。
「また一緒だ」
「朝の定番化してるね」
すれ違った女子の声が小さく聞こえる。
前ならひよりは少し固くなっていた。
今日は、ほんの少しだけ耳が赤くなるだけで、足は止まらない。
「前より強くなったな」
思わず言うと、ひよりがこっちを見る。
「何が?」
「そういうの」
「あー……」
ひよりは少しだけ目を細めた。
「昨日、ちゃんと話せたからかも」
「……」
「勝手にしんどくなって、勝手に距離取るの、あんまりよくないなって思った」
「それはそうだろうな」
「そこで“そうだろうな”って言うのやめない?」
「事実だろ」
「でもちょっとだけ優しくない」
「十分優しいだろ、俺は」
「それ自分で言うんだ」
「言う」
ひよりがまた笑う。
教室へ入る。
朝のざわめき。窓から差し込む光。机を引く音。
そのいつもの風景の中で、ひよりは当然みたいに自分の席へ鞄を置き、それから当然みたいに俺の机の横へ来た。
その動きに迷いがない。
でも、前みたいな無自覚な近さとは少し違う。
昨日までのひよりは、距離が近いことに半分無意識で、半分だけ不安そうだった。
今は、近いことを知った上で、こっちへ来ている。
その差は大きかった。
「今日の一時間目、現代文だっけ」
「そう」
「じゃあノート出しとこ」
「出しとけ」
「朝から冷たくない?」
「普通だろ」
「そういうとこだよ」
やり取りそのものは、ほとんどいつも通りだった。
でも俺にはわかる。
ひよりは今、ちゃんと“戻ってきた”のだ。
そこへ、斜め後ろから聞き慣れた声が飛ぶ。
「はいはい、おはようございます」
蓮だ。
今日もにやにやしている。朝から本当に元気だな。
「何だよ」
「いや、完全に復旧したなと思って」
「何が」
「朝の登校イベントと、席周りの距離感」
「イベントって言うな」
「でも事実だろ」
「事実でも言い方がある」
「言い方に配慮する気はない」
蓮は笑って、俺とひよりを見比べた。
「昨日ちょっと空気重かったのに、もう戻ってるじゃん」
「戻ってるっていうか……」
ひよりが少しだけ言葉を探す。
「前よりちゃんと戻ってる感じ?」
「それ」
蓮が指をさす。
「それ言える時点で、だいぶ強い」
「うるさい」
「朝倉さん、最近どんどん無自覚じゃなくなってるよな」
「……」
「真央、おまえちゃんと責任取れよ」
「何のだよ」
「青春の」
「便利な言葉にするな」
教室の前方から、静かな視線を感じる。
白瀬凛香だ。
今日もノートと教科書を机へ整然と並べながら、こちらを一度だけ見ている。
その視線は前より露骨ではない。
でも、明らかに“見ている”目だ。
警戒はまだ消えていない。
けれど、ただ不快そうというのとも少し違う。
昨日までの白瀬なら、もっと早い段階で何か言ってきたかもしれない。
今日は、まず観察している。
それが少しだけ変化だった。
ホームルームが終わり、授業が進む。
昼休み、ひよりは当然のように俺の隣へ来た。
来て、弁当箱を開きながら小さく言う。
「今日もここでいい?」
「昨日の続きなら、今さら確認いらないだろ」
「でも一応」
「じゃあ好きにしろ」
「それ、いいって意味?」
「好きに取れ」
「都合よく解釈します」
そう言って、ひよりは隣の席へ腰を下ろした。
前より少しだけ選んでいる感じ。
でも、その分だけ安定している。
近くの席から、誰かがまた笑う。
「ほんと安定してるなー」
「もう柊の隣、朝倉の席でいいんじゃない?」
「うるさい」
俺が返すと、
「でも今日はあんまり否定しないんだね」
と、別の女子が言う。
その一言で、ひよりが少しだけこっちを見る。
俺も、少しだけ言葉に詰まった。
付き合っているわけじゃない。
でも、以前みたいに全部を“違う”で切るのも、何か違う。
この曖昧さが一番面倒なのはわかっているくせに、まだここから先へ名前をつけられない。
だから結局、出てきたのはいつもの言葉だった。
「……おまえら、昼くらい静かに食え」
「うわ、逃げた」
蓮が笑う。
「うるさい」
「でも前よりだいぶ弱いよね、その否定」
ひよりが小さく言う。
「おまえまで言うのか」
「事実だし」
そう言って、ひよりが少しだけ笑う。
その笑い方が嫌じゃなくて、また自分で面倒になる。
昼休みの終わり頃、ふと前を見ると白瀬と目が合った。
凛香は少しだけ視線を止めて、それから何も言わずにノートへ戻る。
その沈黙に、“今はまだ見ているだけ”という意思が混じっている気がした。
放課後。
教室の空気がゆるみ、帰る支度が始まる。
その頃には、もう今日一日の流れがだいたい固まっていた。
ひよりは戻ってきた。
周囲は相変わらず面白がる。
蓮はうるさい。
白瀬は黙って見ている。
そして俺は、その全部の中心で落ち着かないくせに、ひよりが隣に来ること自体は嫌ではない。
嫌ではないどころか、来なかった昨日の午前中が妙に落ち着かなかったことまで、もう認めるしかなくなっていた。
「じゃあ、帰ろっか」
ひよりが言う。
「おう」
その返事を、白瀬が前方から聞いていたらしい。
立ち上がって鞄を持ったまま、こっちを一度だけ見る。
それから、淡々とした声で言った。
「朝倉さん」
「え?」
「今日は顔色がいいですね」
「え、そう?」
「ええ」
凛香は静かに続ける。
「昨日よりずっと自然です」
ひよりが少しだけ目を丸くする。
それはたぶん、白瀬からそういう言い方をされると思っていなかったからだ。
「……ありがとう?」
「礼を言われることではありません」
「でも、何かちょっと優しいね」
「気のせいです」
「そうかな」
「そうです」
凛香はそう言って視線を逸らした。
でも、ほんの少しだけ耳が赤くなっている気がしたのは、たぶん気のせいじゃない。
蓮がその様子を見て、小さく笑う。
「何かもう、全体的に人間関係が濃いな」
「おまえが一番いらないんだよ」
「ひど」
澪は今日は現れなかった。
でも、その不在すら不自然ではない。
昨日までみたいなざらつきだけを残して消えたのではなく、教室の中の何かをひとつ動かして、そのまま一歩引いた感じだ。
つまり、たぶんこれからもまた出てくる。
面倒な予感しかしない。
校門を出る。
夕方の風が吹く。
ひよりは俺のすぐ隣を歩いている。
近い。
けれど、今のその距離は前より少しだけ落ち着いていた。
無自覚に踏み込んでくる近さではなく、選んで、確かめて、そこにいる近さ。
それを“成長”と呼ぶのか、“関係が進んだ”と呼ぶのかは、まだわからない。
名前をつけるには、少しだけ早い。
でも、名前がないままでも確かなものはある。
ひよりが少しだけ笑って言う。
「明日も校門で待ってていい?」
「……好きにしろ」
「それ、もう半分許可だよね」
「半分だけな」
「じゃあ、半分待っとく」
「意味わからん」
そう返すと、ひよりは楽しそうに笑った。
その笑い方を聞きながら、俺は小さく息を吐く。
まだ恋だとは言い切れない。
でも、朝倉ひよりが近くにいない一日は、もう少し想像しづらくなっていた。




