第23話 朝倉のことは、ちゃんと俺が
白瀬凛香の「曖昧なのが一番無責任です」という言葉は、帰ってからも妙に頭に残っていた。
正論だった。
だから腹が立ったし、余計に消えなかった。
付き合っていない。
でも、何でもないとも言い切れない。
朝倉ひよりは俺のそばに来る。
俺もそれを拒まない。
周囲は面白がる。
ひよりは笑って流す。
でも本当は、毎回少しずつ削られている。
そこまでわかっているのに、俺はまだ“はっきりさせる言葉”を持っていない。
その中途半端さが、一番だめなのだとしたら。
「……寝覚め悪」
翌朝、制服の襟を整えながら小さく呟く。
窓の外はよく晴れていた。昨日の夕方の重さが嘘みたいに空気は軽く、朝の光は無駄に明るい。こういう日に限って、頭の中だけが曇っている。
校門へ向かう途中、俺は少しだけ歩く速度を緩めた。
ひよりはいるだろうか。
いても、おそらくいつも通りには笑わない。
もしくは、いつも通りに笑おうとしている分だけ、余計にわかる。
そんなことを考えていたのに、校門の近くには見慣れた姿がなかった。
「……いない」
思わず口に出る。
それだけで、自分でも驚くくらい胸の奥がざわついた。
別に毎朝必ず待っている約束をしたわけじゃない。
それなのに、いないだけで違和感が強すぎる。
教室へ入る。
ひよりはもう来ていた。
来ていたが、後ろの席には座っていない。
窓際の女子グループのところで、何か話している。笑顔もある。声音も明るい。ぱっと見ただけなら、いつもと変わらない。
でも俺にはわかる。
少し、無理してる。
「おはよ」
蓮が後ろから声をかける。
「……おはよう」
「朝倉さん、今日校門いなかったな」
「知ってる」
「え、待ってた?」
「待ってない」
「その返答の速度はわりと待ってたやつ」
「うるさい」
蓮はにやにやしたが、すぐにひよりの方へ目を向けて少しだけ眉を動かした。
「……あー」
「何だよ」
「今日、そっち寄りなんだ」
「そっちって」
「女子グループ」
「普通だろ」
「まあ、普通だけど」
「言いたいことあるなら言え」
「今日はおまえの隣、来ないかもなって」
その言い方に、また少しだけ胸の奥がざらつく。
来るかもしれないし、来ないかもしれない。
それだけの話なのに、今日はやけに重い。
ホームルームが始まり、一時間目、二時間目と進む。
ひよりは必要最低限しかこっちに話しかけてこなかった。
プリントを回す時に小さく「はい」と言う。
教師の指示が聞き取りづらかった時に一度だけ「今、何ページって言った?」と聞く。
でも、それだけだ。
距離を取ろうとしている。
少なくとも、いつもよりはっきりと。
それがわかるたびに、逆にこっちの意識がそっちへ向く。
昼休みになっても、ひよりは今日は女子たちと机を寄せていた。
俺の席には来ない。
「うわ、珍しい」
蓮がパンを持って座る。
「何が」
「いや、おまえの固定席ヒロインが今日は不在」
「その言い方やめろ」
「でも気になってんだろ」
「……」
「図星か」
「黙れ」
教室の向こうから笑い声が聞こえる。
その中にひよりの声も混じっていた。
明るい。
でも、どこか作っている感じが消えない。
女子グループの一人が何かを言って、ひよりが「そんなことないよー」と笑う。
その笑い声のあとにほんの少しだけ落ちる呼吸の感じで、また胸が重くなる。
もうだめだ。
気のせいでは済ませられない。
「……なあ」
蓮が小声で言う。
「何だよ」
「今日の朝倉さん、やっぱちょっと変だよな」
「……」
「おまえ、それ気づいてて昼まで何もしないの、だいぶ珍しい」
「別に何もしないわけじゃ」
「何もできてない、の間違いだろ」
言い返せなかった。
そうだ。
気づいているのに、まだ何もできていない。
白瀬に刺された“無責任”という言葉が、そこでまた頭をよぎる。
放課後になるまで、結局ひよりはいつもの場所へ戻ってこなかった。
教室に夕方の光が差し込み、帰る支度のざわめきが広がる。
ひよりは女子たちと一緒に教科書を鞄へしまいながら、笑っている。
でも、その笑顔が今日一日ずっと少しだけ遠かった。
俺は鞄を持ち上げて、立ち上がった。
蓮が目だけで「行け」と言ってくる。
うるさい。
でも、たぶんその通りだった。
「朝倉」
声をかけると、ひよりが振り向いた。
「え?」
「ちょっと」
「え、何?」
「いいから」
「え、ちょっと」
ひよりが戸惑いながらもこっちへ来る。
女子たちが「なになに」と笑っているのが聞こえたが、今は無視した。
教室を出て、廊下の端まで歩く。
窓から入る夕方の風が少しだけ涼しい。
運動部の声が遠くに聞こえる。
放課後の校舎には、昼とは違う静けさがあった。
「何?」
ひよりが聞く。
「……何で今日ずっとそっちいた」
「そっちって」
「女子の方」
「別に、たまには普通でしょ」
「普通じゃない」
「何でそう言い切るの」
「わかるからだよ」
ひよりが黙る。
言い方が強かったかもしれない。
でも、ここで曖昧にしたくなかった。
「気にしてるだろ」
俺が続ける。
「昨日のこと」
「……」
「白瀬に言われたことも、周りのことも」
「……」
「違うなら違うって言え」
「……違わない」
やっと、ひよりが小さく言った。
視線は床の方へ落ちている。
その横顔が、今日はずっと見せていなかった表情に近かった。
「何か、疲れた」
ひよりがぽつりと言う。
「……」
「笑っとけば大丈夫かなって思ったけど、今日はちょっと無理だった」
「うん」
「だから、少しだけ距離置いたら落ち着くかなって」
「……落ち着いたか」
「ぜんぜん」
その答えに、思わず少しだけ息が抜けた。
ひよりは苦笑する。
「余計変な感じになったし」
「だろうな」
「ひどい」
「事実だろ」
ほんの少しだけ、空気がゆるむ。
でも、ここで終わらせるつもりはなかった。
「朝倉」
「何」
「俺、おまえに“気にするな”って言う気はない」
「……」
「たぶん無理だから」
「……うん」
ひよりが静かに頷く。
そうだ。
今のこいつに「気にするな」は一番軽い。
気にしていること自体を否定しても、意味がない。
「でも」
俺は続ける。
「俺は、おまえのことをそういうふうには見てない」
「そういうふうって?」
「……面白がって見てるやつらみたいには、ってこと」
「……」
ひよりが、少しだけ目を見開く。
「距離近いとか、汗とか、そういうの」
喉が少し詰まる。
「おまえが気にしてるのは知ってる」
「……うん」
「でも、だからっておまえを変だと思う気はない」
「……」
「笑う気もない」
そこまで言って、ようやく息をついた。
まだ足りない。
でも、今はこれが精一杯だった。
ひよりは何も言わなかった。
その代わり、視線だけが揺れる。
泣くほどではない。
でも、確実に感情が大きく動いた時の顔だった。
「……柊くん」
「何」
「今の、ちょっと反則」
「何が」
「そういうの、もっと早く言ってよ」
「簡単に言えたら苦労しない」
「それはそうかもだけど……」
ひよりは少し俯いて、それから小さく笑った。
さっきまでの無理した笑顔じゃない。
ちゃんと力の抜けた、ひより本人の笑い方に近い。
「私さ」
ひよりが言う。
「今日、ちょっとだけ逃げたかったんだと思う」
「……」
「でも、逃げたら余計に変になった」
「そうだろうな」
「そこで“そうだろうな”って言うの、やっぱりひどい」
「嘘つけないからな」
ひよりがまた笑う。
今度は少しだけ、目元が揺れた。
泣く一歩手前みたいな、でもちゃんと笑っている顔だ。
「……ありがと」
ひよりが小さく言う。
「別に」
「それ、今日のはちょっと違う」
「何が」
「ちゃんと助けてもらった感じしたから」
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなる。
助けたかったのだろうか。
たぶん、そうだ。
少なくとも今日は、見ているだけで終わらせたくなかった。
「じゃあ」
ひよりが顔を上げる。
「明日は、また普通に行っていい?」
「……」
「隣とか、校門とか、そのへん」
「おまえ、それ確認いるのか」
「いるよ。今日はちょっと、自信なくなってたし」
「……」
俺は数秒だけ黙った。
それから、小さく息を吐く。
「来たいなら来い」
「それ、いいって意味?」
「自分で考えろ」
「じゃあ都合よく受け取る」
「勝手にしろ」
ひよりは、今度こそちゃんと笑った。
「うん」
その一言が、今日一日で一番軽かった。
夕方の廊下に風が吹き込む。
さっきまで重かった空気が、ようやく少しだけ動き出した気がした。




