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『汗ばんだ制服の距離が近すぎるせいで、俺の青春は毎日ギリギリです』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第一章 春の距離感は、たぶん校則で制限できない

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第22話 噂と視線と、近すぎる放課後

噂というものは、不思議なくらい温度を持って広がる。


 悪意のある噂は、もっと尖っている。

 けれど今、俺――柊真央と朝倉ひよりの周りに漂っているものは、そこまで悪質ではない。だからこそ厄介だった。


 軽い冗談。

 からかい。

 「付き合ってるの?」という、半分笑いながら投げられる言葉。

 それらは全部、たった一言で切り捨てるには妙に柔らかく、だからこそ長く残る。


 しかも最近は、その柔らかさが少しずつ増していた。


「おはよー、今日も一緒か」

「朝の校門でも見たよ」

「もう定番じゃん」


 朝、教室へ入った瞬間に飛んでくる声。


 ひよりは「たまたまだよ」と笑って流す。

 俺は「うるさい」で切る。


 でも、それで終わらなくなってきている。


 周囲はもう、“そういうやり取りをする二人”として面白がり始めている。

 ひよりが俺の席の近くへ来れば、誰かがにやっとする。

 俺がひよりの変化に反応すれば、蓮が即座に拾う。

 凛香はそんな教室の空気を、少し離れたところから静かに見ている。


 そして、その全部の真ん中にいるひよりは――たぶん、前より少しずつ疲れていた。


 昼休み。


 教室はいつものように賑やかだ。

 机を寄せる音、弁当の蓋を開ける音、購買の袋のビニール。

 窓の外はよく晴れていて、風は少し強い。春の終わりに近づいた空気が、昼休みの教室をぼんやりと明るくしていた。


 ひよりは今日も、俺の隣に来た。


 来たのだが――


「今日は何弁当?」

 蓮がパンを片手に聞く。

「普通」

 ひよりが答える。

「真央の隣も普通に固定席化してるな」

「してない」

 俺が言う。

「してるでしょ」

 近くの男子が笑う。

「いや、もうほぼ彼女席じゃん」


 その一言で、ひよりの動きが一瞬だけ止まった。


 ほんの一瞬だ。

 箸を持つ手が少しだけ遅れる。

 笑う前の呼吸が浅くなる。

 それだけなのに、俺には十分すぎるくらいわかった。


「なにそれー」

 ひよりは笑って返す。

「違うってば」

「でも朝も一緒、昼も一緒、帰りもたまに一緒でしょ?」

「それは……」

「ほら」

 蓮が言う。

「否定が弱い」


 笑いが起きる。


 教室の空気は軽い。

 誰も本気で責めているわけじゃない。

 だから余計に逃げ場がない。


 ひよりはまた笑った。

 でも、その笑い方は前より少しだけ硬い。

 表情は崩れていない。声だって明るい。なのに、ほんのわずかに疲れが混じっている。


 俺は箸を置いた。


「おまえら、ちょっとしつこい」

 思わずそう言うと、

「うわ、庇った」

 と蓮が即座に食いついた。

「違う」

「でも今、明らかに庇ったよな」

「うるさい」

「ほらもう、そういうとこだって」


 周囲がまた笑う。


 ひよりは「ほんとに違うからね」と言いながら笑っている。

 でも、もう俺にはわかってしまっている。


 きついんだ。


 完全に嫌ではない。

 でも、楽でもない。

 “嬉しいけど困る”から、ずっと抜け出せないでいる。


 そういう空気を、今日のひよりは朝から何度もまとっていた。


 その時、教室前方から静かな声がした。


「昼休みだからといって、少し騒ぎすぎではありませんか」


 白瀬凛香だった。


 声量は大きくないのに、よく通る。

 教室のあちこちにいた視線が、少しだけそちらへ流れた。


「白瀬さん、今いいところだったのに」

 蓮が言う。

「何の“いいところ”ですか」

「青春コント」

「不本意です」


 凛香はそう返しながらも、視線だけはこちらへ向けていた。

 ひより、俺、そして周囲の空気まで、まとめて観察しているみたいな目だった。


 その目が、少しだけ痛い。


 昼休みが終わり、午後の授業が始まる。


 黒板に書かれる文字。

 教師の声。

 ノートをめくる音。

 いつも通りのはずなのに、俺は集中しきれなかった。


 前方でひよりがノートを取っている。

 その背中が、普段より少しだけ静かに見える。


 気にしすぎかもしれない。

 でもたぶん、気のせいではない。


 昼休みのやり取りを、ひよりは笑って流した。

 けれど、あれで完全に終わるほど鈍くはない。

 気にして、飲み込んで、それでもまた笑う。

 そういうことを、こいつは何度も繰り返している。


 そして俺は、それをわかってしまうくせに、どうするのが正解かわからない。


 授業の終わり際、窓の外の風が少し強くなった。


 教室の中へ入り込んだ空気が、ノートの端を揺らす。

 その音で、一瞬だけ現実へ引き戻された。


 ――俺が曖昧なせいかもしれない。


 ふと、そう思った。


 付き合っていない。

 でも、何でもないわけでもない。

 ひよりは自然に俺の隣へ来るし、俺もそれを拒まない。

 周囲から見れば、からかいたくなるだけの材料が揃っている。


 しかも、俺自身がそれを否定しきれていない。


 それが、ひよりに余計な負担をかけているのだとしたら。


 そこまで考えた時、胸の奥が妙に重くなった。


 放課後。


 教室の空気がゆるみ、帰る支度の時間になる。

 蓮は相変わらず部活見学がどうとか言って騒いでいる。

 澪は今日は来なかった。

 凛香は前方でノートを揃えて鞄へしまっていた。


 ひよりは、自分の席で教科書をまとめている。

 いつもなら何か一言くらいこっちへ飛ばしてくるタイミングなのに、今日は静かだ。


「……朝倉」

 声をかけると、ひよりが振り向く。

「ん?」

「帰るか」

「え?」

「帰るんだろ」

「う、うん」


 少しだけ驚いた顔をする。

 その反応で、余計に胸の奥がざわつく。


 俺から声をかけるのが、そんなに珍しいのかよ。


 昇降口までの廊下を並んで歩く。


 最初の数分、会話はほとんどなかった。

 ひよりも何か言おうとして、やめる。

 俺も何から言えばいいかわからない。

 そんな半端な沈黙が、放課後の校舎にやけに響く。


 校門を出たあたりで、ようやくひよりが口を開いた。


「なんか、今日静かだね」

「おまえもな」

「私は……まあ」

「まあ、で済ませる気か」

「済ませられないから困ってるんだけど」


 ひよりは苦笑した。


 やっぱり、元気が少し足りない。


「昼のこと?」

 俺が聞くと、

「……うん」

 ひよりは小さく頷いた。

「別に悪気ないのはわかってるんだけどね」

「……」

「でも、何回も言われると、ちょっとだけしんどい」


 その言い方が、すごく正直だった。


 怒っているわけでもない。

 泣きそうなわけでもない。

 ただ、本当に“ちょっとだけしんどい”のだろう。

 だから余計に刺さる。


「私が気にしすぎなのかなって思ったりもするし」

 ひよりが続ける。

「でも、やっぱり毎回ちゃんと平気ではないし」

「……」

「笑っとけば終わるかなって思うんだけど、終わんない時もある」


 そこまで言って、ひよりは前を向いたまま小さく笑った。


「変だよね」

「変じゃないだろ」

「そうかな」

「そうだよ」


 即答だった。


 今のは、迷わなかった。


 ひよりはそこで少しだけ目を丸くした。

 俺がここまで間を置かずに返すと思っていなかったのかもしれない。


「……柊くん」

「何」

「今のはちょっと、ずるい」

「何がだよ」

「そういう言い方する時、ちゃんと本気っぽいから」

「本気だろ」

「……」


 ひよりが黙る。


 その沈黙が、昨日までのものとは少し違う。

 戸惑っているのに、どこか少しだけ救われてもいる。

 そういう混ざり方だった。


 その時だった。


「曖昧なのが一番無責任です」


 突然、後ろから声がした。


 俺もひよりも、同時に振り向く。


 白瀬凛香がいた。


 少し後ろを歩いていたらしい。

 たぶん偶然だ。

 でも、タイミングが最悪すぎる。


「……おまえ、聞いてたのか」

「全部ではありません」

 凛香は淡々と言う。

「でも、今の流れは十分でした」

「何だよそれ」

「そのままの意味です」


 夕方の道に、少しだけ冷たい空気が差し込む。


 凛香は俺だけを見るでもなく、ひよりだけを見るでもなく、二人まとめて見ていた。


「噂を否定しきれない」

 凛香が言う。

「でも、何でもないとも言い切れない」

「……」

「その曖昧さを、周囲は面白がるだけです」

「白瀬さん」

 ひよりが少し困ったように言う。

「責めたいわけではありません」

 凛香は静かに続けた。

「でも、曖昧なのが一番無責任です」

「……」

「朝倉さんがしんどい思いをするなら、なおさら」


 その言葉は、驚くほどまっすぐだった。


 正論だ。

 だからこそ、痛い。


 俺は言い返せなかった。


 付き合っていないのは事実。

 でも、その事実だけで全部を説明しきれない。

 それをごまかして、適当に流して、でもひよりの隣にはいる。

 それが一番ずるいのだとしたら、凛香の言葉はたぶん正しい。


 ひよりも、すぐには何も言わなかった。


 少しだけ視線を落として、でも逃げずに立っている。

 その横顔を見た瞬間、また胸の奥が重くなる。


 俺が曖昧なせいで、こいつがこうしてしんどくなるのなら。


 そこまで考えて、言葉が喉まで来た。

 来たのに、まだ出ない。


 凛香は小さく息を吐いた。


「私は先に行きます」

 そう言って一歩前へ出る。

「でも、さっきのは本気で言いました」

「……」

「それだけです」


 凛香はそれ以上何も言わず、先に歩いていった。


 残されたのは、俺とひより。


 夕方の住宅街には、遠くで自転車のベルが鳴る音がした。

 風が少し吹いて、ひよりの髪が揺れる。


 その揺れ方を見ながら、俺はまだ何も言えずにいた。

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