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『汗ばんだ制服の距離が近すぎるせいで、俺の青春は毎日ギリギリです』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第一章 春の距離感は、たぶん校則で制限できない

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第20話 幼馴染、距離感バグ美少女を警戒する

 翌朝、教室へ入った瞬間に、空気の密度が昨日までと少し違うとわかった。


 原因は、だいたい見当がついている。


 七瀬澪。

 昨日、廊下へ突然現れて、俺――柊真央の幼馴染を名乗り、朝倉ひよりに微妙な爆弾をいくつか落として帰っていった女子だ。


 そして、その余波はちゃんと残っていた。


「……おはよう」


 後ろから聞こえたひよりの声は、いつもよりほんの少しだけ静かだった。


 振り向く。


 笑っている。

 笑っているが、少しだけ様子を見ている顔だ。

 俺に対してというより、たぶん今日は教室全体に対して。


「おはよう」

「早いね、今日」

「普通だろ」

「そっか」


 ひよりはそれだけ言って、いったん自分の席へ鞄を置いた。


 いつもなら、そのまま当然みたいに俺の机の横へ来る。

 でも今日は、一呼吸だけ置いた。


 たったそれだけの違いなのに、俺には妙に大きく感じられた。


 昨日のことを気にしている。


 それも、汗や距離の話じゃない。

 七瀬澪という、俺に対して遠慮のなさすぎる女子の存在を。


「何だその顔」


 斜め後ろから蓮が声をかけてくる。


「何が」

「朝から妙に神経質そう」

「おまえの顔がうるさい」

「顔までうるさい扱いされた」


 蓮は笑って、それからひよりの方へ目を向けた。


「あー」

「何だよ」

「いや、昨日の幼馴染イベント、ちゃんと尾を引いてるなって」

「イベントって言うな」

「でも実際そうだろ。急に新キャラが出てきて、距離感めちゃくちゃ近くて、しかも昔からおまえのこと知ってるとか」

「言葉にすると最悪だな」

「実際だいぶ強いぞ、あれは」


 その通りだった。


 俺自身、昨日のあとから少し落ち着かない。

 澪が来たことで、ひよりとの距離がどう見えるかが急に別の角度から照らされた感じがある。

 しかも、ひよりはひよりで、たぶん自分でもその“ざらつき”を持て余している。


 そこへ、教室のドアが開く音がした。


 澪だった。


 入ってきた瞬間、空気が微妙に揺れるのがわかる。

 同じクラスじゃないから、わざわざこっちへ来たという事実そのものが目立つ。

 しかも当人は、それをまったく気にしていない顔で立っている。


「おはよ」


 気軽すぎる。


「……何しに来た」

「挨拶」

「二組に戻れ」

「ひど」


 澪はそう言いながらも、すでにこっちへ歩いてきている。

 その視線がまず俺に向き、それから自然にひよりへ流れる。


「朝倉さんもおはよう」

「お、おはよう」

「昨日ぶりだね」

「そうだね……」


 ひよりの笑顔が、また少しだけぎこちなくなる。


 澪はそれを見ている。

 しかも、見たうえでわざと明るく振る舞っている。


 ああ、だめだ。

 この二人、相性が悪いというより、タイプの違いがはっきりしすぎている。


「何その顔」

 澪がひよりに言う。

「え?」

「ちょっと警戒してるでしょ」

「そ、そんなことないよ?」

「へえ」

「何その“へえ”」

「いや、わかりやすいなって」


 ひよりの頬が少しだけ熱を持つ。


 俺にはそれがわかる。

 笑って誤魔化したい。

 でも、図星を突かれて少しだけ悔しい。

 そういう時の混ざり方だ。


「おまえ、朝から人をいじるな」

 俺が言うと、

「いじってないよ。観察してるだけ」

 と澪が返す。

「おまえがそれ言うと嫌な予感しかしない」

「でもほんとだし」

「何が」

「あの子、無自覚で強いタイプだなって」

「は?」

 ひよりが目を丸くする。

「何それ」

「そのまんま。距離近いのに、本人は半分くらい自覚ないでしょ」

「……」

「しかも、相手に“嫌なら言って”って逃げ道をちゃんと用意してる」

「それは……」

「強いよ、そういう子」


 澪の目が、少しだけ細くなる。


 面白がっているだけじゃない。

 ちゃんと見ている時の顔だ。


 こいつは昔からそうだった。

 人を雑に扱うくせに、本質だけは妙な精度で見抜いてくる。


「七瀬さんって」

 ひよりが小さく言う。

「けっこうストレートだね」

「よく言われる」

「悪い意味で?」

「半分くらい」

「自覚あるんだ」


 やり返したつもりなのか、ひよりが少しだけ笑う。

 でも、その笑い方の奥にある緊張は消えていない。


 澪のことを、完全に“ただの幼馴染”とは見ていない。


 それも当然だ。

 いきなり現れて、俺との距離が近すぎて、しかも俺の変なところまで知っていそう。

 警戒するなという方が無理だろう。


 その時、前方から静かな声がした。


「朝から随分と賑やかですね」


 白瀬凛香だった。


 今日も姿勢がきれいで、朝から隙がない。

 そして今の一言だけで、「私は全部見ています」と言っているような空気がある。


「白瀬さん、おはよう」

 ひよりが言う。

「おはようございます」

 凛香が返す。

 そのあと、澪の方を見る。

「……二組の方でしたね」

「覚えてるんだ」

「顔くらいは」

「へえ、光栄」


 澪が笑う。

 凛香は笑わない。


 この二人もまた、別の意味で相性が悪そうだった。


 凛香は澪を“秩序を乱す外部からの刺激”として見ている感じがある。

 澪は凛香を“真面目すぎてめんどくさい人”と見ている。

 お互い、最初から評価が固まっている。


 そして、ひよりはその二人の間に立たされて、少しだけ落ち着かない。

 俺だけが、それを全部拾って消耗している。


「何だこれ」

 蓮が小声で言った。

「急にラブコメの密度上がったな」


 うるさい。

 でも、その表現が妙に的確で腹が立つ。


 朝の教室に、ひより、澪、凛香。

 それぞれ方向は違うが、全員が俺の周囲半径二メートル以内の空気を変えている。

 しかも本人たちはそこまで大声で争っているわけじゃない。

 静かな牽制が、一番神経を削るんだよ。


「柊くん」

 ひよりが言う。

「何」

「今日の一時間目のプリント、出した?」

「出した」

「そっか」


 その確認すら、どこか“いつも通りを装うため”みたいに聞こえる。


 澪はそれを見て、ふっと口元だけで笑った。


「ほんと強いなあ」

「だから何が」

 ひよりがむっとする。

「朝倉さん、ちゃんと自分の場所取りにいってるじゃん」

「場所取りって」

「真央の隣」

「……」


 ひよりが黙る。


 今のはかなり刺さったらしい。

 顔には出しすぎないようにしている。

 でも、耳の後ろあたりの熱がじわっと上がる感じで、わかってしまう。


 凛香が、静かに口を開いた。


「朝から不用意に刺激しすぎではありませんか」

「誰が?」

 澪が言う。

「あなたです」

「でも本当のことしか言ってないよ?」

「本当でも、言い方というものがあります」

「そっちこそ真面目すぎるんじゃない?」

「そう見えるなら結構です」


 ぴしゃり、と空気が鳴る。


 ひよりが少し困った顔になり、蓮は完全に楽しんでいる。

 俺はもう、この場の誰よりも消耗していた。


「……おまえら」

「何?」

 澪が言う。

「何ですか」

 凛香が言う。

「いや、何でもない」


 何か言っても状況が好転する気がしなかった。


 昼休みになっても、その微妙な空気は少し残っていた。


 澪はさすがに二組へ戻ったが、ひよりはいつも通り俺の隣に来た。

 ただし、いつも通りに見せようとしているぶんだけ、少しだけ無理がある。


「今日のお弁当、そぼろ?」

 俺が聞く。

「え?」

「さっき見えた」

「あ、うん」

「好きなのか」

「まあ、普通に」

「そっか」


 我ながらひどくどうでもいい会話だった。


 でも、何も言わないよりはましだった。

 今はたぶん、そういうどうでもいいやりとりの方が必要だ。


 ひよりは箸を持ちながら、少しだけ視線を落とした。


「……七瀬さんってさ」

「何だよ」

「昔から柊くんのこと知ってるんだよね」

「まあ」

「ふーん」

「何だその反応」

「別に」


 その“別に”が、いつもより少しだけ弱かった。


 やっぱり気にしてる。


 しかも、ひよりはそれを自分でもちゃんとは整理できていない。

 ただ、“真央と気安すぎる女子”という存在が急に現れて、心の置き場が少しずれている。


 そのくらいの揺れ方だ。


「気になるなら聞けよ」

 俺が言うと、

「気になるって何が」

 ひよりが返す。

「今の全部」

「……」

「図星か」

「うるさい」

「おまえ、最近そればっかだな」

「柊くんがそう言わせるんでしょ」

「何でだよ」

「何ででも」


 最後の返しが少し投げやりで、余計にわかりやすい。


 蓮が向こう側からパンをかじりつつ、にやにやしているのが見えた。

 その顔に「ほらな」と書いてある。殴りたい。


 放課後。


 教室の空気がゆるみ、帰る支度のざわめきが広がる。

 澪は今日は来なかった。

 だが、一日残った空気は簡単には消えない。


「じゃあ、また明日」

 ひよりが小さく言う。

「……ああ」


 返事をした瞬間、少しだけ違和感があった。


 声の明るさが、ほんの少し足りない。


 朝からずっとそうだ。

 笑ってはいる。

 でも、その笑い方の奥に小さな沈みが残っている。


 ひよりはそのまま先に教室を出ていった。


 俺も少し遅れて廊下へ出る。

 階段を下りる足音、部活へ向かう声、夕方の風。

 その中で、ひよりの背中だけがいつもより少し静かに見えた。


「……朝倉」

 小さく呼ぶと、ひよりが振り返る。

「何?」

「元気ないだろ」

「え」

「朝からずっと」

「……そんなことないよ」

「嘘つくな」


 ひよりはそこで、ほんの少しだけ目を逸らした。


 ああ、やっぱり。


 こいつ、気にしている。

 昨日までの教室とは少し違う何かを。


 それが七瀬澪のせいなのか、凛香の視線も混ざってなのか、その両方なのかまではまだわからない。

 でも、今日のひよりが少しだけ元気をなくしていることだけは、もうはっきりしていた。


 そして、そのことが気になってしまう自分もまた、どうしようもなくはっきりしていた。

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