第19話 幼馴染は、鼻が利く男を知っている
幼馴染という存在は、たぶん人の人生に対して少し反則だ。
何が反則かというと、説明をすっ飛ばしてくるところである。
たとえば、俺――柊真央が昔から人より匂いに敏感であること。
それを初対面の相手に説明するには、段階がいる。遠回しな前置きも、言い方を選ぶ慎重さも必要だ。
でも、幼馴染はそこを全部飛ばしてくる。
なぜなら、最初から知っているからだ。
その日、四時間目が終わった時点で、俺は少しだけ気が抜けていた。
午前中の授業は無事に終わった。
朝倉ひよりは相変わらず自然に近く、藤崎蓮は相変わらずうるさく、白瀬凛香は相変わらず意味深な視線を寄越してくる。
もう最近の教室はそれが通常運転になりつつある。
慣れたくないのに、慣れてきているのが一番嫌だった。
「真央ー」
昼休みの少し前、廊下側のドアからひょいと顔を出した蓮が、にやにやしながら手招きしてきた。
「何だよ」
「おまえに客」
「は?」
「客っていうか、知り合いっぽい」
「知らないやつなら断る」
「いや、たぶん断れないタイプ」
何だその雑な説明は。
仕方なく席を立ち、教室の外へ出る。
廊下の窓から春の光が入っていて、昼休み前独特の浮ついた空気が流れていた。隣のクラスからも笑い声が聞こえる。
その廊下の端に、ひとりの女子が立っていた。
肩につくくらいの黒髪。
少し吊り気味の目元。
制服の着方はだらしなくはないが、白瀬みたいな隙のなさとも違う。
背はひよりより少し高いくらい。表情はすでに呆れ半分、面白がり半分という感じで、こちらを見ていた。
「……うわ」
思わず口から出た。
「“うわ”って何」
女子が即座に返す。
「いや、おまえ何でここにいるんだよ」
「何でって、同じ学校だからに決まってんでしょ」
七瀬澪。
俺の幼馴染だった。
小学校までは家が近くて、中学も途中まで同じだった。高校受験のタイミングで志望校の話はしたが、細かい進路まではあまり聞いていなかった。まさか本当に白鷺へ来るとは思っていなかったし、思っていても、これまでクラスも違ったから接点がなかったのだ。
「今さら顔合わせるの、遅くない?」
澪が言う。
「クラス違ったろ」
「知ってる。でもあんたのことはわりと見かけてた」
「……」
「朝、校門で女の子と一緒にいるとことかね」
「おまえな」
「わかりやすかったよ?」
にやっと笑う。
うわ、本当に最悪だ。
幼馴染の厄介さが、登場三十秒で全開だった。
「何で今来た」
「やっと話しかける気になったから」
「意味わからん」
「違うクラスだとタイミングないんだって。で、今日たまたまこっち側に用事あったから」
「たまたまの割に、顔が完全に面白がってるだろ」
「そりゃ面白いもん」
「何が」
「久しぶりに見たら、あんたまた面倒なのに目つけられてるし」
「は?」
「しかも今回は女子二、三人まとめて」
「まとめるな」
「合ってるでしょ」
こいつは昔からこうだ。
遠慮がない。
物言いが雑。
でも、こっちの本質を一番雑に見抜いてくる。
澪は俺の顔を少し覗き込むみたいにして、ふっと鼻で笑った。
「で」
「何だよ」
「校門で一緒にいた子、今のクラスメイト?」
「……」
「沈黙は肯定」
「おまえ、その癖まだ使ってるのか」
「便利だからね」
そこで教室の中から声がした。
「柊くん?」
振り向く。
朝倉ひよりが、ドアのところまで来ていた。
手には弁当袋。昼休みになったのだろう。俺が席を外したまま戻らないから、気になって見に来たらしい。
そして、俺の前に見知らぬ女子がいることに気づいて、ほんの少しだけ足を止めた。
「あ……」
その一瞬の空気の揺れを、俺はすぐに拾ってしまう。
驚き。
警戒未満の戸惑い。
でも、顔にはまだ笑顔を乗せている。
その感じが、いかにもひよりらしかった。
「何してるの?」
ひよりが言う。
「……知り合い」
俺が答えるより先に、澪が一歩前へ出た。
「幼馴染」
「おい」
「間違ってないでしょ」
「間違ってないけど、言い方ってもんが」
「めんどくさ」
ひよりの笑顔が、ほんのわずかに固まる。
「あ、そうなんだ」
「うん。七瀬澪。真央の小学校時代からの被害者」
「被害者って何だよ」
「この人、昔からちょっと鼻が利きすぎて面倒なの」
「やめろ」
最悪だ。
いきなりそこへ触れるな。
しかもひよりの前で。
だが、澪はまるで気にしない。
「で、そっちは?」
澪がひよりを見る。
「えっと、朝倉ひより」
「へえ」
「同じクラス」
俺が補足する。
「それは見ればわかる」
「見ただけで何がわかるんだよ」
「距離感」
澪の目が少しだけ細くなる。
その視線が、俺とひよりの間を軽く往復した。
「なるほどね」
「何が」
「別に」
その“別に”が絶対別にじゃない。
ひよりは一瞬だけ俺を見て、それから澪へ向き直った。
「じゃあ、七瀬さんは他のクラスなんだ?」
「二組」
「そうなんだ」
「うん。でも真央がこの学校でちゃんと生きてるか、ちょっと気になって」
「余計なお世話だ」
「実際ちょっと見に来たら、予想以上に濃かったけど」
「濃いって何」
「人間関係」
ひよりが小さく笑う。
だが、その笑い方には少しだけ探る感じが混じっていた。
そりゃそうだろう。
いきなり現れた幼馴染。
しかも、俺に対して妙に遠慮がない。
朝の校門で並ぶくらいで周囲から噂されている状況で、これは十分に警戒対象だ。
そして澪の方も、完全にそれを理解した上で面白がっている。
最悪の組み合わせかもしれない。
「柊くん、お昼どうする?」
ひよりが聞いてくる。
「どうするって」
「一緒に食べるなら、そろそろ戻ろうかなって」
「うわ」
澪が露骨に言った。
「何だよ」
「今の、普通に言うんだ」
「普通だろ」
「へえ」
その“へえ”が、完全に何か察している声だった。
ひよりもたぶん、それに気づいたのだろう。
少しだけ耳が赤くなる。
「べ、別に変な意味じゃなくて」
「言い訳入るんだ」
澪が追い打ちをかける。
「七瀬さん」
「何?」
「ちょっと意地悪じゃない?」
「そうかも」
「自覚あるんだ」
「あるよ」
澪はあっさり認めた。
そのやりとりの空気が微妙すぎて、俺は頭を抱えたくなった。
ひよりは明るく返しているが、確実に少し気にしている。
澪はそれを見抜いた上で、さらに軽く突いている。
俺だけが、その両方を拾ってひたすら面倒くさい。
「……おまえさあ」
俺が澪に言う。
「何」
「面白がるな」
「だって面白いし」
「そういうとこ昔から変わってないな」
「そっちもね」
「何が」
「困るとちょっと声低くなるとこ」
図星だった。
ひよりが「そうなの?」みたいな顔でこっちを見る。
やめろ。観察結果を共有するな。
「とりあえず」
澪が言った。
「私は別に邪魔しに来たわけじゃないから」
「十分邪魔しただろ」
「挨拶しただけ」
「爆弾付きのな」
「じゃ、朝倉さん」
「え?」
「真央、意外と放っとくと面倒な方向に沈むから、もし近くにいるなら適度に引っ張ってあげて」
「おい」
「何?」
「何勝手なこと言ってる」
「事実」
「初対面の相手に言うな」
「でもほんとでしょ」
ひよりは一瞬だけ驚いた顔をして、それから少しだけ笑った。
「……それは、何となくわかるかも」
「え」
「え、じゃない」
澪が言う。
「わかる人にはすぐわかるって」
何なんだ今日は。
俺の扱いが雑すぎないか。
澪はそこでようやく満足したのか、「じゃあまた」と軽く手を振った。
去り際、俺の肩をぽんと叩いて、小声で言う。
「後で話そ」
「嫌な予告するな」
「逃げても無駄」
そう言って、澪はさっさと廊下を曲がっていった。
残されたのは、俺とひより。
昼休みの廊下には、他の生徒の声が遠く流れている。
なのにこの場だけ、少し変な沈黙が落ちた。
「……幼馴染なんだ」
ひよりが先に言う。
「まあ」
「全然知らなかった」
「言ってないし」
「そっか」
ひよりは少しだけ視線を落として、それからまたこっちを見た。
「なんか、すごいね」
「何が」
「距離感」
「それ、おまえに言われたくない」
「私とは種類違うじゃん」
「そうか?」
「そうだよ」
それは、たしかにそうかもしれない。
ひよりとの近さは、最近少しずつ作られてきたものだ。
でも澪とのそれは、長い時間の積み重ねで雑に固まっている。
遠慮がないし、説明もいらない。
だからこそ、今の教室の人間関係の中へ急に放り込まれると、だいぶ強い。
「……気になるか」
思わず聞くと、ひよりは一瞬だけ目を瞬いた。
「え?」
「いや、今の」
「……ちょっとは」
小さく答える。
「でも、変な意味じゃなくて」
「それ、さっきも言ってたな」
「うるさい」
少しだけ頬を赤くして、ひよりが睨んでくる。
そういう反応をされると、余計に気になるからやめてほしい。
「お昼、食べる?」
ひよりが聞く。
「食べるだろ」
「そっか」
「何だその確認」
「いや、ちょっとだけ空気変わったから」
「……」
「でも、別に逃げないならよかった」
その言い方が、ほんの少しだけやわらかかった。
俺はそこでようやく、自分がさっき少しだけ“逃げたい”と思っていたことに気づく。
澪が現れて、ひよりとの空気が変わって、説明しづらい感情が一気に増えた。
だから無意識に、この場から切り上げたくなっていたのかもしれない。
でも、ひよりはそれをちゃんと拾っていた。
こいつも、思っているよりちゃんと見ている。
「……戻るか」
「うん」
二人で教室へ戻る。
昼休みのざわめきの中、自分の席へ腰を下ろすと、ひよりはいつも通り隣へ来た。
少しだけ空気は違う。
でも、完全に壊れたわけじゃない。
そのことに、妙にほっとする自分がいた。
そして放課後。
帰る支度をしていた俺のところへ、案の定、七瀬澪がやってきた。
教室のドアにもたれて、いかにも当然みたいな顔をしている。
「……何だよ」
「だから、後で話そって言ったでしょ」
「無視して帰る気だった」
「できると思った?」
「思ってない」
澪はくすっと笑って、それからひよりがまだ教室にいることを確認するみたいに視線を流した。
白瀬も前方の席でノートをしまいながら、明らかにこっちの空気を気にしている。
蓮に至っては、もう最初から面白がる準備万端みたいな顔だ。
最悪の布陣だった。
「で」
澪が小さく言う。
「何だよ」
「さっきの子」
「朝倉」
「名前は聞いた」
「だから何」
「ねえ、それ本当にただのクラスメイト?」
その問いが、思っていたよりまっすぐだった。
俺は一瞬だけ答えに詰まる。
ただのクラスメイト。
そう言い切るには、もう近すぎる。
でも、それ以外の名前をまだ持っていない。
その沈黙を、澪は面白がるでもなく、少しだけ真面目な目で見ていた。
そして俺は、その視線から逃げるみたいに、小さく息を吐くことしかできなかった。




