第18話 委員長は、誰よりちゃんと見ている
白瀬凛香は、自分のことを面倒な性格だと理解している。
何かをやる時は順序が気になる。
提出物の締切は前日のうちに確認する。
授業のノートは日付とページ数を揃えて書く。
机の上に物が散らかっていると落ち着かない。
そうして整えておかないと、頭の中までざわついてしまう。
別に、誰かに褒められたいわけではない。
ただ、その方が楽だからそうしているだけだ。
だから周囲から「真面目だね」「委員長っぽい」「しっかりしてる」と言われても、嬉しいより先に少しだけ困る。たまたまそういうふうに見えているだけで、自分の中では綺麗に整っていないと不安なだけなのだから。
けれど、その白瀬凛香の“整った見え方”を、最近やたらと乱してくる存在がいた。
柊真央。
最初の印象は、あまり良くなかった。
無口。愛想がない。何を考えているのかわかりにくい。
朝倉ひよりの距離感の近さに巻き込まれて困っているように見えるくせに、自分から線を引こうとはしない。
かと思えば、完全に流されているわけでもなく、時々だけ妙に鋭く相手を見ている。
中途半端だと思った。
はっきりすればいいのに、と何度も思った。
朝倉ひよりと距離を取るなら取る。そうでないならそうでない。
曖昧なまま、でも中心にはいて、しかも本人はどこか一歩引いた顔をしている。
ああいうのは、一番たちが悪い。
――少なくとも、少し前まではそう思っていた。
昼休み前の授業中、白瀬はノートを取りながらも、前から二列目の斜め後ろ、窓際寄りの席の空気を気にしていた。
気にしてしまう、と言った方が正確かもしれない。
朝倉ひよりは今日も、授業の合間になるたび柊へ話しかけていた。
笑いながら、少し身を乗り出して。
ノートを見たり、時間割を確認したり、どうでもいい一言を交わしたり。
以前より自然だ。
距離が“近い”というより、“そこにいるのが当たり前”になり始めている。
周囲もそれに気づいている。
だから、最近は教室の空気の中に「柊と朝倉って、結局どういう関係なの?」という半分冗談みたいな好奇心が、常に薄く混じっている。
白瀬はそういう空気が好きではない。
ただの冷やかしならまだいい。
でも、朝倉ひよりはああ見えて、言葉の端をわりと引きずる。笑って流しても、本当に気にしていないわけではない。
それを白瀬は何度か見てきた。
たとえば、汗のこと。
距離感のこと。
本人が気づかれないようにしているつもりの小さな動揺。
そして、それに誰より早く気づくのが柊真央だった。
そこが、一番引っかかる。
授業が終わり、昼休みになる。
教室はいつものようにざわつき始めた。
弁当箱の蓋を開ける音、購買へ走る足音、机を寄せる音。
その中で朝倉ひよりは、今日も迷いなく柊の席へ行く。
「柊くん、今日こそ端っこ座っていい?」
「何で俺の席基準なんだよ」
「だって落ち着くし」
「意味がわからない」
そのやり取りに、周囲がまた笑う。
もう完全に“いつもの光景”として認識され始めている。
そのこと自体が、白瀬には少し危うく見えた。
「白瀬さん、今日も一人?」
隣の女子が聞いてくる。
「ええ」
「混ざればいいのに」
「遠慮しておきます」
「えー、真面目だなあ」
真面目、という言葉は便利だ。
それで済ませてくれるなら楽だと、白瀬は思う。
実際にはただ、今はそこへ混ざる気分ではないだけだった。
少し離れた位置から、教室全体の空気を見ていたかった。
「最近ほんと、あの二人すごいよね」
別の女子が小さく言う。
「付き合ってるのかな」
「でもまだ違うって言ってたよ」
「じゃああれで違うの?」
「逆に何なら付き合ってるのかわからなくなる」
笑い混じりの会話。
悪意はない。
だから余計に厄介だ。
白瀬は弁当の卵焼きを一口食べながら、無意識に視線を上げた。
その時だった。
柊真央が、朝倉ひよりを見ていた。
じっと見つめているわけではない。
むしろ表情だけ見れば、相変わらず少し面倒そうですらある。
でも、朝倉が周囲の言葉に一瞬だけ詰まった、その微細な空気の揺れに、柊は反応していた。
たぶん、今の一瞬で気づいている。
ひよりが笑っていても、少しだけ困っていることに。
白瀬の中で、その認識が静かに確信へ変わる。
この人は、見ている。
適当に流しているように見えて、誰より細かく相手の変化を拾っている。
しかもそれは、偶然とか勘の良さで済ませるには精度が高すぎる。
前に自分の体調を言い当てられた時の、あの引っかかりがまた胸の奥へ戻ってきた。
「……何なんでしょうね」
ぽつりと漏らすと、隣の女子がきょとんとした顔をした。
「え?」
「何でもありません」
慌てて取り繕う。
だが、白瀬自身にはわかっていた。
今の独り言は、あの二人のことではなく、柊真央という人間そのものに向いたものだった。
不真面目ではない。
無責任でもない。
ただ、わかりにくい。
そして、わかりにくいくせに、肝心なところでは誰よりちゃんと見ている。
そこが厄介だ。
昼休みが終わり、午後の授業が始まる。
白瀬はいつも通りノートを開き、黒板の文字を写していく。
だが、頭の片隅ではずっと考えていた。
自分は柊真央を警戒している。
それはたぶん事実だ。
でも同時に、前より“監視”という言葉だけでは説明しきれなくなっているのも事実だった。
知りたいのだ。
どうしてあんなに気づくのか。
何を考えて朝倉ひよりのそばにいるのか。
そして、自分自身のその不自然さを、どこまで自覚しているのか。
そこまで考えて、白瀬はほんの少しだけ眉を寄せた。
知りたい、という表現は正しくないかもしれない。
正確には、“見誤りたくない”だ。
中途半端な理解のまま決めつけたくない。
朝倉ひよりのすぐ近くにいる人間なら、なおさら。
放課後、掃除当番の時間になった。
白瀬は黒板消しを持ち、チョークの粉を払う。
教室には夕方の光が差し込み、いつもの喧騒より少し穏やかな空気が流れていた。
朝倉ひよりはほうきで床を掃いている。
柊真央は机を少しずらして、掃除しやすいように通路を空けていた。
蓮はモップを持ちながら、まったくやる気のない顔をしている。
「藤崎くん、そこまだ水気残っています」
「えー、白瀬さん厳しい」
「厳しいのではなく、普通です」
「委員長っぽーい」
「まだ委員長ではありません」
「でも、もう半分くらいそうじゃん」
「そういう雑な認定はやめてください」
そんなやり取りをしながらも、白瀬の視線は自然と斜め後ろへ向いてしまう。
その瞬間、朝倉が小さく「あ」と声を上げた。
机の脚に軽く足をぶつけたらしい。
大したことではない。
本来なら、誰も気にしない程度の小さなミスだ。
だが柊は、すぐに反応した。
「大丈夫か」
「え? あ、うん。ちょっと当たっただけ」
「見ればわかる」
「心配してくれた?」
「してない」
「その間で一回止まったよね?」
「気のせいだ」
いつもの調子だ。
ぶっきらぼうで、言葉が足りなくて、でも明らかに最初の一言だけは早い。
そのやり取りを見た時、白瀬の胸の奥に、言葉にしづらい小さな揺れが起きた。
何だろう、これは。
腹立たしさではない。
呆れとも少し違う。
しいて言うなら、置いていかれる感じに近い。
自分も見ているつもりだった。
教室の空気も、人の変化も、ある程度はちゃんと見ている方だと思っていた。
でも、朝倉ひよりに何かあるたび、一番最初に反応するのは柊真央だった。
それが、少しだけ悔しい。
そこで初めて、白瀬はその感情に気づいて、自分で驚いた。
悔しい?
何に対して?
答えはすぐには出なかった。
ただ、今までの“ただ警戒しているだけ”では説明のつかないものが、胸の中に生まれ始めていることだけはわかった。
「白瀬さん?」
朝倉がこちらを見る。
「さっきからちょっと静かじゃない?」
「……元からです」
「いや、今のはそういう静かさじゃなくて」
「朝倉さんは本当に人のことをよく見ていますね」
「え?」
「いえ、何でもありません」
白瀬はそう言って黒板の方へ向き直った。
見ている。
それはたぶん、自分も同じなのだ。
ただ、その見方の種類が少し違う。
柊真央は、相手の変化へまっすぐ向かう。
自分は、一歩引いて全体を見ようとする。
どちらが正しいとかではない。
けれど、朝倉ひよりのそばにいるのは、今のところ圧倒的に柊の方だった。
掃除が終わり、机が元の位置へ戻される。
帰る準備をしながら、白瀬は一度だけ深く息をついた。
今の自分の中にあるものは、まだ信用ではない。
理解でも、好意でもない。
ただ、無視できない関心だ。
そしてその関心は、柊真央が自分で思っている以上に、不器用で、でも嘘のない人間なのではないかという方向へ傾き始めていた。
教室を出る前、白瀬は足を止めた。
「柊くん」
「……何だよ」
呼ばれて振り向く顔には、いつも通り少しだけ警戒がある。
白瀬はその顔をまっすぐ見て、静かに言った。
「あなたのこと、まだ信用はしていません」
教室の空気が、ほんの少しだけ止まる。
朝倉が「え」と目を丸くし、蓮は「うわ、宣言きた」と面白がる顔をした。
けれど白瀬はそちらを見ない。
「でも」
白瀬は続ける。
「嘘をついている感じもしません」
柊の目がわずかに揺れる。
たぶん、それは予想していなかった反応だ。
白瀬自身も、少しだけ心拍が速くなるのを感じていた。
「だから、余計に判断しづらいんです」
「……それ、褒めてるのか」
「褒めていません」
「だろうな」
「ただの途中評価です」
「評価される覚えはない」
「見ていれば、自然とそうなります」
そう言い切ってから、白瀬は少しだけ息を整えた。
今のは、ある意味で宣言だったのかもしれない。
自分はまだ決めつけない。
でも、ちゃんと見ている。
そういう意思表示。
「それだけです」
「それだけで済む感じじゃなかったけどな」
「そう感じるなら、たぶん必要な言葉だったのでしょう」
「面倒だな、おまえ」
「よく言われます」
そこで初めて、教室の空気が少しゆるんだ。
朝倉が「白瀬さんって、やっぱりちょっと面白いよね」と笑い、蓮が「今のはだいぶ圧あった」と小声で言う。
柊は呆れたみたいに小さく息を吐いていた。
白瀬はその反応を見届けることなく、今度こそ教室を出た。
廊下を歩きながら、夕方の風が頬を撫でる。
まだ信用していない。
でも、嘘をついている感じもしない。
それが、今の一番正確な結論だった。
そしてもうひとつ、認めざるを得ないことがある。
この教室の中で、朝倉ひよりをちゃんと見ている人は、自分だけではない。
むしろ、今のところ一番近いところで見ているのは、あの無愛想でわかりにくい男子の方だ。
その事実が少しだけ悔しくて、少しだけ気になって、そして少しだけ目を離せなくしている。
「……本当に、面倒な人」
小さく呟く。
その言葉が誰に向いたものなのか、白瀬凛香自身にもまだはっきりとはわからなかった。




