第17話 嗅ぎつけるな、見抜けよ
白瀬凛香を保健室まで連れていった日の帰り道、俺は自分でも珍しいくらい黙っていた。
春の夕方の風は少しだけ冷たくて、昼間に校舎へこもっていた熱をゆっくり剥がしていくみたいだった。道路脇の植え込みがわずかに揺れて、信号待ちの車の排気と、どこかの家の夕飯の匂いが混ざる。
そういう日常の中で、頭の中だけが妙に落ち着かない。
白瀬の「ありがとうございます」が思った以上に効いていたのもある。
ただの面倒な委員長だと思っていた相手が、ちゃんと礼を言う。しかも、わりと素直に。
それだけで、これまでの印象の輪郭が少しずれた。
だが、それ以上に残っていたのは別のことだった。
また、わかった。
白瀬の立ちくらみも、朝からの微妙な不調も、俺には見えた。
いや、見えたというより、気づいてしまった。
それが役に立つことはある。実際、今日だって放っておくよりはよかったのだと思う。
でもそのたびに、自分の中の気持ち悪さみたいなものも一緒に意識してしまう。
人より嗅覚が鋭い。
人の変化に敏感だ。
それだけならまだいい。
問題は、その感度がやたらと“近さ”に引っ張られることだった。
汗。体温。湿った空気。制服に残る気配。
特に女子相手だと、そういうものに意識を持っていかれる自分を、どうしてもまともだと思えない。
「……何やってんだろ」
小さく呟いた時だった。
「一人で哲学してるところ悪いんだけどさ」
横から声がして、俺は少しだけ肩を跳ねさせた。
振り向くと、藤崎蓮が自転車を押しながら、いかにも面白そうな顔でこっちを見ていた。
「おまえ、まだ帰ってなかったのか」
「部活見学ちょっと顔出してた。で、見つけた」
「見つけなくていい」
「いやー、今日の真央、保健室イベント発生させたあとからずっと顔が難しいからさ」
「うるさい」
「白瀬さんに礼でも言われた?」
「……」
「図星かよ」
こいつは本当に、嫌なところだけ鋭い。
俺は返事をせずに歩き出した。蓮もそれに合わせて自転車を押しながらついてくる。勝手に並ぶな、と言いたいところだが、言ってもどうせ離れない。
「で?」
「何が」
「何をそんなに考えてるわけ」
「別に」
「その“別に”が通用するの、朝倉さん相手くらいだぞ」
「何でだよ」
「俺には長い付き合いの蓄積があるから」
自慢げに言うな。
しばらく黙って歩いていたが、蓮は意外と深追いしなかった。
こいつは普段うるさいくせに、本当にやばい時だけ少し待つ癖がある。そこがまた腹立たしい。
「……おまえさ」
結局、先に口を開いたのは俺だった。
「お」
「前に、言ってたよな」
「何を」
「俺のこと」
「毎日いろいろ言ってるけど」
「“観察力高いでいいだろ”みたいなやつ」
「あー」
蓮が少しだけ視線を上げた。
「言ったな」
「それ」
「うん」
「適当に言ったわけじゃないのか」
「珍しくちゃんと相談っぽい入り方だな」
いちいち茶化すな。
でも、少しだけ言いやすくなったのも事実だった。
蓮相手なら、全部は無理でも、半分くらいまでは出せるかもしれない。
「……俺さ」
「うん」
「気づきすぎるの、普通に嫌なんだよ」
「何に」
「いろいろ」
「雑」
「雑でいいだろ」
「よくないけど、まあ続けて」
蓮はわりと真面目な顔になっていた。
俺は小さく息を吐く。
「顔色とか、空気とか、そういうの」
「うん」
「何となくわかる時あるだろ」
「おまえの“何となく”はだいぶ精度高いけどな」
「それが嫌だって話だよ」
「何で」
「何でって……」
ここから先をどう言えばいいかわからなくなる。
人の変化に気づく。
それ自体は悪いことじゃない、という言い方もできる。
でも俺にとっては、それが単なる観察じゃ済まないこともある。
特に朝倉ひよりに関しては。
暑そうとか、緊張してるとか、困ってるとか。
そういうのが先にわかってしまう。
しかもその“わかる”の中に、どうしたって俺の性癖的なややこしさが混ざる。
それを、どうきれいに言い換えても、結局は気持ち悪い気がするのだ。
「……変だからだよ」
結局、そういう言い方になった。
「何が」
「俺のそういうとこ」
「ふーん」
蓮はすぐには否定しなかった。
それが逆にありがたかった。
軽く「そんなことねえよ」と言われるより、ちゃんと考えられてる感じがする。
「じゃあさ」
蓮が言う。
「今日の白瀬さんの件、変だった?」
「は?」
「いや、だっておまえ、見抜いたわけだろ」
「見抜いたって言い方やめろ」
「じゃあ察した」
「……」
「で、保健室連れてった」
「それが」
「別にキモくないじゃん」
「……」
即答できなかった。
「いや、だから」
蓮は自転車のハンドルに片手を乗せたまま、少しだけ言葉を選ぶみたいに続けた。
「おまえ、自分のこと“嗅ぎつけてる変なやつ”みたいに思ってる節あるけどさ」
「……」
「端から見たら、わりと“見抜いて助けてるやつ”なんだよ」
「美化しすぎだろ」
「してないって」
「おまえ、俺の細かいとこまで知らないだろ」
「全部は知らん。でも、少なくとも今日の件はそうだった」
「……」
図星だった。
今日の白瀬に関しては、確かにそうだ。
変に意識するとか、そういう方向じゃなかった。単純に体調の悪さに気づいて、放っておけなかっただけだ。
それでも、俺の中では「また気づいてしまった」という面倒くささの方が先に来る。
「嗅ぎつけるな、見抜けよって感じ」
蓮が言う。
「何だそれ」
「言い方の問題」
「軽いな」
「でもわりと大事だろ」
少し笑いそうになった。
嗅ぎつけるな、見抜けよ。
馬鹿みたいな言い方だ。
でも、変に核心を突いている気もする。
俺はずっと、自分の敏感さを“変なもの”として扱ってきた。
けれど、使い方や見方を変えれば、それは単なる観察力や気づきの早さとも言えるのかもしれない。
もちろん、全部がきれいにそう言い換えられるわけじゃない。
特に朝倉ひよりに関しては、まだそう簡単じゃない。
でも――全部を“最低な性癖”の一言で片づけるのも、違うのかもしれなかった。
「何か今、ちょっとだけ納得した顔したな」
蓮が言う。
「してない」
「したって」
「うるさい」
「でもまあ、たぶんそういうことだぞ」
「何が」
「おまえ、自分で思ってるより“使えるやつ”かもしれんって話」
「その言い方やめろ」
「便利屋みたいで嫌?」
「嫌だな」
「じゃあ“役に立つ”」
「雑に言い換えるな」
駅への分かれ道が近づいてくる。
蓮はそこで自転車にまたがる前に、もう一度だけこっちを見た。
「あと」
「何だよ」
「朝倉さんにも、たぶんそのへん効いてるぞ」
「……は?」
「いや、おまえ、あの人のちょっとした変化にすぐ気づくだろ」
「……」
「それって普通に安心すると思うけど」
「……知らない」
「顔でわかるな、それ」
蓮はにやっとした。
「じゃーな」
「おう」
「変態で終わるなよ」
「ぶっ飛ばすぞ」
笑いながら走り去っていく背中を見送り、俺は一人になる。
夕方の風が少しだけ強くなっていた。
その日の夜、布団に入ってからも、蓮の言葉は妙に頭の中に残っていた。
嗅ぎつけるな、見抜けよ。
雑だ。
でも、完全に間違っているとも言えない。
そして翌日、その言葉の意味をもう一度考えさせられることになる。
昼休み。
いつものように、ひよりが俺の席の横へ来る。
「今日の玉子焼き、ちょっと甘そう」
「見ただけでわかるのか」
「色で」
「雑だな」
「でも当たってるでしょ?」
「……まあ」
ひよりは楽しそうに笑いながら、自分の弁当箱を開けた。
今日はご飯の上にそぼろがのっている。いつもより少し色合いが明るい。
「それ、うまそうだな」
「え、珍しい。柊くんから言った」
「たまにはある」
「一口いる?」
「やめろ」
「冗談だよ」
「その冗談は心臓に悪い」
ひよりが笑う。
その笑い方で、いつもと少し違うとわかった。
「何だよ」
「え?」
「何かあったか」
「……何で?」
ひよりが箸を止めた。
やっぱりそうだ。
表情は普通。
声も明るい。
でも、呼吸の浅さがほんの少し違う。机に手を置く位置も落ち着かない。笑っているのに、その笑い方が少しだけ浮いている。
「朝からちょっと変」
「うそ」
「うそじゃない」
「えー……」
ひよりは少しだけ困ったように眉を下げた。
その顔で、確信する。
「何」
「いや、その」
「何か言われたか」
「……言われたっていうか」
ひよりは弁当箱の端をつつきながら、視線を落とした。
「さっき、女子にね」
「うん」
「“最近ほんと柊くんとばっかりだね”って」
「……」
「別に嫌な感じじゃなかったんだけど」
「でも引っかかった」
「……うん」
小さく頷く。
やっぱりそうだ。
何でもない一言。
悪意はない。
でも、ひよりにとっては完全に何でもなくはない。
前の俺なら、ここで「気にしすぎだろ」で流していたかもしれない。
でも今は違う。
「朝倉」
「ん?」
「おまえ、そういうのわかりやすすぎる」
「え」
「隠してるつもりでも、だいたいわかる」
「……」
ひよりが数秒固まる。
「やだ、それ」
「何でだよ」
「恥ずかしい」
「今さらか」
「今さらでも恥ずかしいよ!」
そう言って顔を赤くする。
だがその赤さは、さっきまでの引っかかりを少しだけ薄めていた。
「でも」
ひよりが小さく言う。
「ちょっと安心もする」
「は?」
「だって、隠してても気づいてくれるってことでしょ」
「……」
「そういうの、なんかずるい」
何がずるいんだよ、と言い返そうとして、やめた。
たぶん今のは、ひよりなりの本音だった。
俺が自分では嫌がっているこの“気づきすぎる”感じを、こいつは少なくとも一部では悪く思っていない。むしろ、自分の小さな変化を拾ってくれることに、少しだけ安心している。
そう思うと、胸の奥の自己嫌悪が、ほんの少しだけ形を変えた。
全部が最低なわけじゃないのかもしれない。
そう思ってしまった時点で、たぶんもう前の俺には戻れない。
ひよりはまだ少しだけ照れた顔のまま、そぼろご飯をつついていた。
「何だよ」
「ううん」
「気持ち悪いな」
「ひどいなあ」
ひよりは笑った。
今度の笑い方は、ちゃんといつもの明るさに近い。
その顔を見て、俺は小さく息を吐く。
嗅ぎつけるな、見抜けよ。
蓮の馬鹿みたいな言葉は、やっぱり少しだけ正しかったのかもしれない。
俺の体質は、まだ完全には好きになれない。
自分の中のややこしさも、簡単に肯定なんてできない。
でも少なくとも、朝倉ひよりの変化に気づくことを、前みたいに全部“気持ち悪い”で終わらせる気にはならなかった。
それはたぶん、俺にとって小さくない変化だった。




