第16話 保健室までの短い護送任務
白瀬凛香という女子は、たぶん倒れる時まで行儀がいい。
そんな、どうでもいい感想が頭に浮かんだのは、四時間目の終わり際だった。
六月に入ったわけでもないのに、その日の空気は妙に重かった。晴れてはいるが、風があまりない。窓を開けても教室の熱がきれいに抜けず、机や椅子、制服の布地にじわっとしたぬくさが残る。昼前の授業は、ただ座っているだけでも少しずつ体力を削っていく感じがあった。
俺――柊真央は、そんな教室の空気の中で、前方の席に座る白瀬凛香を見ていた。
いや、見ていたというより、勝手に気づいてしまっていた。
今日の白瀬は、朝からほんの少しだけ硬かった。
姿勢はいつも通り良い。ノートもきれいに取っている。教師に指された時の返答も明瞭だ。表向きは何ひとつ乱れていない。
けれど、こいつはこういう時ほどわかりやすい。
背筋を伸ばしすぎている時は、逆に余裕がない。
呼吸の浅さを整えようとしている時ほど、肩の力が変な入り方をする。
しかも今日は、朝より少しだけ体温が低い感じがした。冷えているわけじゃない。血の気が薄いというか、表面の緊張だけが先に出ている。
昨日の放課後に白瀬本人へ言われた言葉が、まだ頭のどこかに残っていた。
あなたは朝倉さんを放っておけないように見えます。
腹が立つくらい、正確だった。
そしてたぶん、それは朝倉ひよりに限らないのだろう。
気づいてしまうと、放っておくタイミングがわからなくなる。
それが良いのか悪いのかも、まだよくわからないまま。
チャイムが鳴る。
四時間目が終わり、教師が教室を出ていく。
昼休み前の、いちばん気の緩む時間だ。
あちこちで椅子が引かれ、弁当を出す音がして、ざわめきが広がる。ひよりは後ろの席で「やっとお昼だあ」と小さく伸びをしていた。蓮はもう半分立ち上がっていて、購買へ行く気満々らしい。
その中で、白瀬だけがすぐには動かなかった。
机に手をつき、立ち上がるまでにほんの一拍、間がある。
次の瞬間、すっと体が揺れた。
本当にわずかだ。
普通なら見逃す。見逃して当然だ。
でも俺には、その一瞬で十分だった。
「白瀬」
気づけば声が出ていた。
教室の何人かがこっちを見る。
白瀬本人も、少しだけ驚いたように顔を上げた。
「……何ですか」
「おまえ、またか」
「は?」
「立ちくらみ」
「違います」
「その否定、もう信用ない」
「失礼ですね」
そう言い返しながらも、白瀬の声にはいつもの張りが少し足りない。
しかも、立ち上がったまますぐに歩き出さないあたり、本人もわかっているのだろう。
蓮が前のめりになる。
「え、白瀬さんまたやばい感じ?」
「別にやばくは」
白瀬が言いかけたところで、今度はひよりが席を立った。
「白瀬さん、大丈夫?」
「大丈夫です」
「その言い方の時だいたい大丈夫じゃないだろ」
俺が言う。
「……」
「座れ」
「命令しないでください」
「じゃあ提案だ。座れ」
「同じです」
それでも、白瀬は一度小さく息を吐いてから、素直に椅子へ腰を下ろした。
前回より従うのが早い。
それだけでも、少しは学習したらしい。
「保健室行け」
俺が言う。
「そこまででは」
「そこまでです」
今度はひよりが言った。
「顔、ちょっと白いよ」
「朝倉さんまで」
「だってほんとだし」
白瀬は数秒だけ沈黙した。
たぶん、そこで自分の中の意地と現実を天秤にかけている。
その間に、俺は立ち上がった。
「柊くん?」
ひよりが言う。
「連れてく」
「護送任務?」
蓮がいらないことを言う。
「うるさい」
「白瀬さん、真央に連行されるらしいぞ」
「物騒な言い方やめてください」
白瀬が小さく睨む。
「じゃあ自分で歩けるのか」
俺が聞く。
「……歩けます」
「じゃあ行くぞ」
「あなた、本当に人の話を聞きませんね」
「聞いた上で言ってる」
「最悪です」
「知ってる」
立ち上がった白瀬は、今度は最初よりだいぶ慎重だった。
それでも完全には安定していない。
俺は何も言わず、教室のドアを押さえた。
白瀬が小さく眉を寄せる。礼を言う代わりに、不満そうな顔をするあたりがいかにもこいつだ。
廊下へ出る。
教室のざわめきが少し遠のき、代わりに昼休みの広がった校舎の音が耳に入る。階段を走る足音、どこかのクラスの笑い声、窓から入る風、遠くのグラウンド。教室よりは空気が薄くて、少しだけ呼吸しやすい。
ただ、白瀬の歩幅は思ったより小さかった。
「……またわかったんですか」
歩きながら、白瀬が言う。
「何が」
「体調です」
「見ればわかる」
「前もそう言っていましたね」
「実際そうだろ」
「普通はそこまで見ません」
「おまえが無理しすぎなんだよ」
「無理しているつもりはありません」
「その台詞も二回目だ」
「数えないでください」
声音に棘はある。
でも前回よりは明らかに素直だった。
無理やり否定して、その場から動かないという感じではない。警戒はしている。しているが、俺が保健室へ連れていこうとすること自体は、もう完全には拒絶していない。
それが少しだけ不思議だった。
「朝飯」
俺が聞く。
「……食べました」
「嘘くさい」
「食べました」
「何を」
「ヨーグルトとバナナです」
「少な」
「十分です」
「おまえの基準で言うな」
白瀬は不服そうに唇を引き結んだ。
それから少しだけ間を置いて、ぽつりと言う。
「朝、時間がなかったので」
「ほらな」
「責められている感じがして不本意です」
「自分でそういう状態作ってるからだろ」
「……」
答えない。
たぶん図星だ。
保健室までは、教室からそう遠くない。
けれど、二人きりで歩くこの数分には、朝倉ひよりといる時とは全然違う緊張があった。
ひよりと一緒の時は、空気が近くて、やわらかくて、たまに心臓に悪い。
白瀬と一緒だと、空気は乾いていて、張っていて、言葉を一つ選ぶたびに何か試されている感じがする。
「おまえさ」
俺が言う。
「何ですか」
「ちゃんとしてないと死ぬ病気なのか」
「失礼にもほどがありますね」
「いや、でもそんな感じあるだろ」
「……落ち着かないだけです」
「何が」
「整っていないと」
その答えは、思ったより素直だった。
俺は少しだけ横目で白瀬を見る。
白瀬は前を向いたままだったが、声の硬さがほんの少しだけ解けていた。
「ちゃんとしていないと、忘れ物をします」
「ふーん」
「忘れ物をすると、あとで余計な手間が増えます」
「まあ」
「手間が増えると、予定が崩れます」
「……」
「予定が崩れると、落ち着きません」
「面倒くさいな」
「自覚はあります」
即答だった。
その返答に、少しだけ笑いそうになる。
「でも、そういう言い方しかできないんですね」
白瀬が言う。
「何が」
「“大丈夫か”とか、“無理するな”とか、そういう普通の言い方です」
「……」
「別に心配してるわけじゃない、みたいな顔をして、実際には一番手間のかかることをする」
「おまえな」
「違いますか?」
「……違わないかもな」
「やっぱり」
白瀬はそこで、ほんのわずかにだけ口元を緩めた。
笑った、というほどではない。
でも、明らかに今までよりは柔らかい表情だった。
その顔を見て、俺は少し面食らう。
こういう顔もするのか。
いつも全部きっちり閉じているわけじゃないらしい。
「保健室、そこです」
白瀬が前を見て言う。
「見ればわかる」
「そこは素直に“はい”でいいと思います」
「おまえ今、だいぶ元気戻ってるだろ」
「歩いている間に少し落ち着きました」
「最初からそう言え」
「言ったら連れてこなかったでしょう」
「……それもそうか」
「だからです」
保健室の前で、白瀬は一度立ち止まった。
中に入る前に、小さく息を整える。
制服の襟元を指で直して、髪もさりげなく整える。
体調が微妙でも、きちんとしてから入るのか。ほんとに筋金入りだな。
「おまえ、そこで整えるんだ」
「先生の前ですから」
「面倒くさいな」
「あなたにだけは言われたくありません」
そう返しながら、白瀬は保健室の戸に手をかけた。
その直前、ほんの少しだけ動きを止める。
「……柊くん」
「何だよ」
「前回も、今回も」
「……」
「ありがとうございます」
声は小さかった。
でも、冗談でも皮肉でもなく、ちゃんと礼として言っているのがわかった。
俺は一瞬、言葉を失う。
白瀬がこういうふうに素直に礼を言うのは、思っていた以上に破壊力があった。
もっと棘のある言い方をするか、無言で済ませると思っていたのに。
「……別に」
ようやく出たのは、それだけだった。
「それ、便利な言葉ですね」
「おまえの“感心しません”の方が便利だろ」
「そうかもしれません」
白瀬はほんの少しだけ笑って、それから今度こそ保健室へ入っていった。
戸が閉まる。
廊下に一人取り残されて、俺は小さく息を吐いた。
「……何だよ今の」
面倒な委員長だと思っていた。
厳しくて、真っすぐで、いちいち刺さることを言ってくる女。
その認識は、たぶん間違っていない。
でも、今の「ありがとうございます」は、その枠に少しだけ収まらなかった。
俺は保健室のドアを一度だけ見てから、教室へ戻るために踵を返した。
さっきより少しだけ軽くなった足取りが、なんだか妙に落ち着かなかった。




