第14話 教室の噂は、昼休みより早く広がる
噂というものは、火がつく時より、くすぶり始める時の方が厄介だ。
はっきり誰かが言い出したわけじゃない。
けれど、何となくみんなが同じ方向を向き始める。
それが教室という狭い空間では、驚くほど早い。
翌朝、俺――柊真央はそのことを、教室のドアを開けた瞬間に察した。
空気が少し違う。
誰かが露骨に見てくるわけではない。
でも、視線が一回止まる。
小さな話し声が、俺と後ろの席のあたりでほんのわずかに途切れる。
それから、また続く。
嫌な予感しかしなかった。
「……何か、朝から見られてない?」
後ろから、ひよりが小声で言った。
俺は机に鞄を置きながら、小さく息を吐く。
「おまえも思うか」
「うん……何だろ」
「昨日の校門じゃないか」
「え、もう?」
「もうっていうか、そういうのは早いだろ」
ひよりは少しだけ顔を曇らせた。
とはいえ、完全に落ち込んでいるわけではない。
むしろ、ほんの少しだけくすぐったそうな気配すら混じっている。
それが余計に面倒だった。
この前からわかってはいたが、ひよりは“そう見られること”を完全には嫌がっていない。
でも、だからといって堂々と受け入れられるわけでもない。
嬉しいけど困る。
困るけど少し嬉しい。
そういう、中途半端で危ない感情が、こいつの空気にはっきり出る。
俺の鼻は、そういうのまで拾ってしまうから最悪だ。
「おはよー」
そう言いながら入ってきた女子二人が、俺たちの席の近くを通り過ぎる瞬間、小さく声を潜めた。
「やっぱり今日も一緒なんだ」
「朝もだったらしいよ」
「え、ほんとに?」
「知らないけど、見たって言ってた」
小さすぎて、普通なら雑音に紛れる程度の会話だった。
でも、聞こえた。
聞こえてしまった。
ひよりもたぶん、単語くらいは拾ったのだろう。
机にノートを出しながら、一瞬だけ動きが止まる。
「……聞こえた?」
小さく聞く。
「少し」
「うわあ……」
ひよりは苦笑した。
笑ってはいる。
でも、その笑い方には少しだけぎこちなさが混じる。
やっぱり気にしてる。
教室の中では、まだ直接言ってくるやつはいない。
けれど、そういう“半歩手前”の空気が一番広がるのは早い。
「おーい真央」
案の定というべきか、藤崎蓮が来た。
しかも朝からにやにやしている。ろくなことを言わない顔だ。
「何だよ」
「おまえさあ」
「嫌な入り方するな」
「クラス内で、だいぶ話題になってるぞ」
「だから何の」
「朝倉さんと付き合ってる説」
「……」
「ほら、黙った」
「黙るだろ普通」
「いや、もっと即否定するかと思った」
「おまえは黙れ」
蓮はそこで、ひよりの方を見た。
「朝倉さんは?」
「え、私!?」
「どうなんですか、噂の真相は」
「何その聞き方!」
ひよりはそう言って笑ったが、少しだけ声が上ずっていた。
わかりやすい。
「違うよ、まだ」
ひよりが言う。
その“まだ”に、俺と蓮が同時に反応した。
「まだ?」
「え」
「今、まだって言った?」
蓮が目を輝かせる。
「ち、違う! 今のは言い方!」
「いやー、深いなあ」
「深くないよ!」
「真央、今の聞いた?」
「聞きたくなかった」
ひよりが顔を赤くする。
やっぱり前より反応が不自然だ。
前なら、もっと軽く笑って「ないない」と流していたはずだ。
今は、一回どこかで引っかかって、それを無理やり笑いに変えている感じがある。
それが、周りにはむしろ“怪しい”に見える。
「でも実際、仲いいよね」
近くの男子が会話に混ざってきた。
「朝も一緒だし、昼も一緒だし」
「席も近いしねー」
女子の声も入る。
「それで付き合ってないって言われても、逆にどこまでが付き合ってるのかわからん」
「それはおまえの恋愛偏差値が低いだけだろ」
蓮が言う。
「うるせえ」
笑いが起きる。
教室の空気はあくまで軽い。
冗談半分、本気半分。
だからこそ逃げにくい。
「おまえも何か言えよ」
蓮が俺に振る。
「何を」
「否定とか」
「……別に付き合ってない」
「うわ、弱い」
「何がだよ」
「否定の勢いが」
自分でも、言ってから思った。
たしかに弱い。
前までなら、もっと即座に、もっと面倒くさそうに切っていた気がする。
今は違う。
付き合っていないのは事実だ。
でも、だからといって“何でもない”とも言い切れない。
そういう曖昧さが、自分の声にまで出てしまっている。
「ほらー」
蓮が楽しそうに言う。
「真央も強く否定しない」
「おまえな」
「え、じゃあほんとに違うの?」
女子が言う。
「違うって言ってるだろ」
「でも顔が違わない感じ」
「何だその日本語」
「要するに怪しいってこと」
「最悪だな」
ひよりはそのやりとりを、困ったように笑いながら聞いていた。
だが、俺にはわかる。
笑っているだけじゃない。
嬉しい。
でも困る。
困るけど、否定しきるのも違う。
その全部が、少しずつ体温と呼吸に出ている。
たぶん、こいつは今、俺以上に落ち着いていない。
「朝倉」
「え?」
思わず呼ぶと、ひよりがこっちを見る。
「……何でもない」
「何それ」
「その顔、助けてほしかったのか?」
蓮が横から言う。
「違う」
「でも今ちょっと庇おうとしたよな」
「してない」
「してたって」
「おまえ、本当にうるさいな」
とはいえ、完全に否定もできなかった。
ひよりがからかわれているのを見ると、前より気になる。
特にこういう、“悪意はないけど逃げ場がない”感じの時は。
俺は昔から、自分の体質を面倒だと思ってきた。
人の変化に気づきすぎるのは疲れるし、気持ち悪いと思っていた。
でも今は、その“気づいてしまうこと”の矛先が、ほとんど朝倉ひよりへ向いている。
それが面倒で、厄介で、そしてたぶん、もうただの性癖の話ではなくなっている。
ホームルーム前のざわめきは、担任が入ってきたことでひとまず収まった。
だが、完全に消えたわけではない。
授業の合間、休み時間、プリントを回す時、ちょっとした視線の流れ。
教室の中に“柊と朝倉ってそういう感じなの?”という空気が、細かく広がっていく。
昼休みには、それがもっとはっきりした形になった。
「今日も一緒に食べるの?」
「やっぱり付き合ってるんじゃん」
「いや、逆に付き合ってなかったら何なんだよ」
さすがにひよりも、少しだけ笑顔が苦しくなってきていた。
「だから、違うってば」
「その言い方弱いよね」
「弱くないよ!」
「でも前より否定の勢いない」
「それは……」
そこでひよりが詰まる。
その一瞬が、もう答えみたいなものだった。
教室の何人かが「おおー」と面白がるような声を上げる。
俺は弁当箱を開けながら、小さく息を吐いた。
ひよりは嬉しい。でも困ってる。
周りにからかわれるのは嫌じゃない。でも、冗談で流しきれない程度には意識してしまっている。
その中途半端な状態を、こいつは自分でもどう扱っていいかわかっていない。
わかっていないのに、俺のそばには来る。
だから余計に危ない。
「おまえら、少し静かにしたらどうですか」
そこへ、よく通る声が割って入った。
白瀬凛香だった。
教室前方の自分の席から、まっすぐこちらを見ている。今日も姿勢はきれいで、顔色も昨日よりだいぶ良さそうだ。だが、その目は少し冷たかった。
「白瀬さん」
ひよりが言う。
「からかわれてるだけだよ?」
「だからです」
凛香は淡々と答える。
「そういう空気を放置すると、余計な噂になります」
「もうなってるけどね」
蓮が軽く言う。
「藤崎くんは火に油を注いでいる側でしょう」
「否定はしない」
「してください」
蓮は笑うだけだった。
凛香はそこで視線を俺に向ける。
「柊くん」
「……何だよ」
「噂を放置するのは感心しません」
ぴしゃりと言われた。
教室のざわめきが、少しだけ静まる。
「感心って」
「そのままの意味です」
「別に、俺が流してるわけじゃ」
「流しているのと同じです」
「……」
「はっきり違うなら違う、そうでないならそうでないと、自分の態度で示すべきだと思います」
その言葉は、ひよりにも、俺にも、たぶん同時に向けられていた。
冗談半分で済ませるには、もう少し深くなりすぎている。
白瀬は、たぶんそこを見抜いている。
ひよりが少しだけ視線を落とす。
俺もすぐには言い返せなかった。
違う。
でも、何でもないわけでもない。
その曖昧さこそが、一番無責任なのだとしたら、白瀬の言っていることはたぶん正しい。
正しいから腹が立つ。
「……面倒だな」
小さく呟くと、
「そうやって誤魔化すところも含めてです」
と、凛香が返した。
どこまでも逃がしてくれない。
その真っ直ぐさに、俺は昼休みのざわめきとは別の意味で、少しだけ息苦しくなっていた。




