第13話 朝の校門、待ってる側と待たれる側
朝の空気は、昨日より少しだけやわらかかった。
春はもう、完全に冬の名残を振り切ったらしい。制服の上に一枚羽織るか迷うくらいの気温で、道端の花壇には昨日までより色が増えている。風はまだ少し冷たいのに、日差しだけはやけに明るくて、いかにも「新しい一日が始まります」と言いたげな朝だった。
そういう爽やかな空気の中で、俺――柊真央はひとり、あまり爽やかではない気分で歩いていた。
理由は簡単だ。
ここ数日、朝倉ひよりが校門で待っている。
しかも、一回や二回ではなくなってきている。
最初はたまたまだと思った。
次はまあ偶然かもしれないと思った。
その次あたりで、さすがに気づいた。
これ、偶然じゃない。
そして今日もまた、嫌な予感がしていた。
「……いるんだろうな」
小さく呟きながら、白鷺高校の校門が見えてくる坂道を上がる。
登校時間の空気は、独特だ。
朝の洗剤の匂い。制服の布。寝不足っぽい生徒の気配。自転車のブレーキ。コンビニの袋を提げてギリギリに走るやつ。花壇の湿った土。春の風。
そういうものが混ざる中で、ひとつだけ見慣れた輪郭があった。
校門の少し手前。
脇の植え込みのあたり。
朝倉ひよりが、そこに立っていた。
やっぱりいた。
しかも、ぼんやり誰かを待っているというより、完全に“見つけるつもり”の立ち方だ。通り過ぎる生徒を何となく眺めるのではなく、校門へ向かってくる流れの中から誰か一人を探している視線。
そして、その視線がこっちを捉えた瞬間。
「あ、おはよう!」
ぱっと顔が明るくなった。
ああ、もうだめだ。
これで「偶然会った」は通用しない。
「……おはよう」
「また会ったね」
「それ、昨日も聞いた」
「だってほんとに会ったし」
「校門で待ってたんだろ」
「んー」
ひよりは少しだけ首をかしげてから、あっさり言った。
「待ってたよ?」
その返答があまりにも自然で、俺は一瞬言葉を失った。
もっとこう、ごまかすとか、偶然を装うとか、そういうのはないのか。
いや、こいつには最初からそういう遠回しさは薄かったけど、それにしても直球すぎる。
「……おまえ」
「なに?」
「普通に言うな」
「だめだった?」
「だめっていうか」
「待ってるの、嫌?」
その聞き方が、少しだけずるい。
嫌かどうかで言えば、別に嫌じゃない。
困る。落ち着かない。変に意識する。周りの目もある。
でも、嫌ではない。
その“嫌ではない”を、自分で認めるたびに、何か一歩ずつ引き返せなくなっていく感じがする。
「……嫌じゃないけど」
「じゃあいいじゃん」
「よくないだろ」
「何で?」
「何でって……」
何で、と聞かれても困る。
校門の前で毎朝待たれるのは、普通に目立つ。
ひよりがただのクラスメイトではなくなりつつあることを、周囲にもわかりやすく見せつける行為でもある。
だが、そこまで説明する前に、ひよりはもう当然みたいに俺の隣へ並んで歩き出していた。
「今日ちょっと早かったんだよね」
「だからって待つな」
「でも暇だったし」
「暇の使い方がおかしい」
「そうかな」
「そうだよ」
校門をくぐる。
朝の光を受けて、校舎の窓が少し眩しい。
登校していく生徒たちの流れの中で、俺とひよりはたぶん、少しだけ目立っている。
実際、それはすぐにわかった。
「あ、また一緒」
「ほんとだ」
「仲いいなー」
すれ違った二年らしき女子が、笑いながらそんなことを言っていく。
声音に悪意はない。
ただ、見たままを軽く言っただけだ。
でも、言われた側としてはたまったものじゃない。
「……ほらな」
「ん?」
「見られてる」
「そうだね」
ひよりはあっさり認めた。
認めるな。
「気にならないのか」
「ちょっとは気になるよ?」
「ちょっとかよ」
「でも、待ってたのはほんとだし」
「だからって」
「それに、柊くんもちゃんと来たし」
「学校だからな」
「知ってる」
ひよりはそう言って笑った。
その笑顔が、朝の光の中だとやけに無防備で困る。
昇降口までの短い道のりなのに、こっちはすでにだいぶ消耗していた。
待たれていたことへの動揺。
それを本人があっさり認めたことへの混乱。
しかも周囲が少しずつそれに気づき始めている。
落ち着く要素がひとつもない。
靴を履き替えながらも、ひよりは普通に話しかけてくる。
「ねえ、今日の小テストって数学だっけ?」
「英語」
「うわ、危なかった」
「昨日ちゃんと確認しろよ」
「したよ? でも朝って抜けるじゃん」
「おまえの場合、朝じゃなくても抜けてるだろ」
「失礼だなあ」
そう言いながら、ひよりは笑う。
そのやりとりだけ見れば、たぶんただ仲のいいクラスメイトだ。
でも実際には、そこに“校門で待ってた”という事実が混じってしまっている。
それだけで、全部が少し違って見える。
教室へ向かう廊下でも、何人かの視線を感じた。
同じクラスのやつに見られたわけじゃなくても、「また一緒にいる」という事実は、案外簡単に積み重なっていく。そういうものだ。
「……おまえ、それ毎日やるのか」
階段を上がりながら、俺は小声で聞いた。
「何を?」
「待つやつ」
「ああ」
ひよりは一段上で振り返り、少しだけ考えるように顎へ指を当てた。
「どうだろ」
「どうだろって」
「柊くんが嫌そうならやめる」
「嫌そうじゃなかったら?」
「そのうち習慣になるかも」
その言い方が軽すぎて、逆に心臓に悪い。
習慣になるかも、じゃないだろ。
それはつまり、朝の校門で待つのが“特別なこと”じゃなくなるってことだ。
そして俺も、たぶん少しずつそれを当たり前として受け入れていくことになる。
そんなの、危なすぎる。
「……やめろよ」
「え」
「いや、そういうの」
「嫌だった?」
ひよりが少しだけ真面目な顔をする。
「……嫌っていうか」
「うん」
「慣れたら戻れなくなるだろ」
「……」
一瞬だけ、ひよりが黙った。
そこで自分が変なことを言ったのだと気づく。
違う。
違わないけど、違う。
そういう意味で言ったんじゃない。いや、意味としてはかなり近いけど、そのまま受け取られると困る。
「えっと」
「……ふーん」
ひよりは数秒だけ俺を見て、それからふっと笑った。
「じゃあ、もうちょっとだけ待つ」
「何でそうなる」
「だって今の、嫌って意味じゃなかったし」
「おまえな」
「だいじょうぶ。毎日はまだ考える」
「“まだ”ってつけるな」
「そこ気にするんだ」
楽しそうに言うな。
こっちは本気で心臓が忙しいんだよ。
教室の前まで来た時には、もうすでに朝の仕事を一通り終えた気分だった。
まだホームルーム前だぞ。
自分の席に鞄を置くと、ひよりも何でもない顔で後ろの席に鞄を置いた。
その動きの自然さが、前よりさらにひどい。
もう完全に「朝は校門で合流して一緒に教室へ来る人」みたいになっているじゃないか。
そこへ、いつもの声が斜め後ろから飛んできた。
「おはよう諸君」
藤崎蓮だ。
こいつは俺とひよりを一目見るなり、数秒だけ黙った。
そして、ものすごく楽しそうな顔になった。
「……おい」
「何だよ」
「それ、もう登校イベント固定化してるじゃん」
やっぱりそう見えるのか。
「違う」
「違わないよね?」
蓮がひよりに振る。
「うーん、半分くらい?」
ひよりが答える。
だから答えるな。
「半分って何だよ」
俺が言う。
「毎日じゃないかもしれないし?」
ひよりが返す。
「“かもしれない”で済ませるな」
「でも待ってたのはほんとだし」
「認めるな」
蓮が腹を抱えて笑い始めた。
「だめだ、朝から面白すぎる」
「どこがだよ」
「いやだって、おまえらもう完全にそういう導入じゃん」
「どういう導入だ」
「登校イベント固定のやつ」
「ゲームみたいに言うな」
「でも実際、校門で待ってる朝倉さんと、来るのおせえ真央って構図なんだろ?」
「おせえとは言ってない」
「言ってないけど図星っぽい顔してる」
「蓮くん、今日うるささ三割増しだね」
ひよりが笑う。
「朝倉さんが素直に認めるからだよ!」
教室の数人が、こっちを見て小さく笑っていた。
たぶん今日からだ。
“ただの仲のいいクラスメイト”ではなく、“朝も一緒にいる二人”として、少しずつ周囲の認識が固まり始めるのは。
それはつまり、俺の平穏がまた一段削られていくということでもある。
なのに。
その中で、ひよりが当たり前みたいに俺の後ろの席へ座って、朝の小さな笑い声をこぼしているだけで、少しだけ教室の空気が明るくなる気がした。
それを嫌じゃないと思ってしまっている時点で、たぶんもうだいぶ手遅れなのだろう。




