12話 汗ばんだ制服の距離が近すぎるせいで、俺の青春は毎日ギリギリです
翌朝、目が覚めた瞬間から、嫌な予感がしていた。
いや、正確には違う。
嫌な予感というより、落ち着かなさだ。
昨日の放課後。
雨の教室。
誰もいない前後の席。
朝倉ひよりの「これからも近くにいてもいい?」という問い。
それに対して、俺が頷いたこと。
あれはたぶん、決定的に何かが変わる瞬間だった。
付き合い始めたとか、そういうわかりやすい話ではない。
でも、ただのクラスメイトの距離には、もう戻れない。
そのことだけは、起きた瞬間から妙にはっきりしていた。
「……面倒なことになった」
ネクタイを締めながら呟く。
もちろん、原因は自分でもわかっている。
俺――柊真央は、人より匂いに敏感だ。
そのせいで、朝倉ひよりの近さにも、汗にも、体温にも、いちいち落ち着かなくなる。
ずっとそれを自分の中で“最低な性癖”として扱ってきた。実際、そう思っている部分は今でもある。
けれど、もうそれだけでは済まなくなっていた。
ひよりが気にしていることを知った。
それで傷つく顔を見た。
そのうえで、近くにいていいかと聞かれて、俺は頷いた。
つまり、もう後戻りはできない。
朝の空は昨日の雨が嘘みたいによく晴れていた。
道端にはまだ小さな水たまりが残っている。そこに春の光が反射して、妙にきらきらして見えた。
こういう朝に限って、空気は無駄に澄んでいる。
濡れた土、乾き始めたアスファルト、洗いたての制服、冷たい風。いろんな匂いがいつもよりくっきりしていて、余計に気が散った。
校門が見えてくる。
そこで、俺は小さく息を止めた。
やっぱりいた。
朝倉ひよりが、校門の少し手前でこっちを見つけていた。
しかも昨日の気まずさなんてまるで引きずっていないみたいな、自然な顔で。
「あ、おはよう!」
まっすぐな声が飛んでくる。
逃げ場がない。
「……おはよう」
「また会ったね」
「学校だからな」
「でもちょっと嬉しそうに言って」
「言ってない」
「言ってたよ?」
「幻聴だろ」
ひよりは笑った。
そのまま、何でもないみたいに俺の隣へ並ぶ。
昨日までと変わらない。
いや、違う。
変わらないように見せているけど、実際は少し変わっている。
ひよりは前よりも自然にそばへ来る。ためらいが減ったというか、「ここにいるのが当たり前」とでも言いたげな動き方をするようになった。
それはたぶん、昨日の答えの延長だ。
「何だよ」
「何が?」
「今日、おまえ変に普通だなと思って」
「普通じゃだめ?」
「だめじゃないけど」
「じゃあいいじゃん」
それだけ言って、ひよりは少しだけ前髪を耳にかけた。
朝の風にその髪が揺れる。昨日の雨を越えたあとの光の中では、その仕草までやわらかく見えた。
やめろ。
昨日の話を引きずってるのが、俺だけみたいになるだろ。
「……昨日のこと」
思わず口にすると、ひよりがこっちを見る。
「うん」
「気にしてないのか」
「気にしてるよ?」
「してるように見えない」
「気まずくしたくないもん」
その答えが、少しだけ意外だった。
ひよりは笑っている。
でも、その笑顔の下にちゃんと昨日の続きを抱えたまま、あえて今まで通りでいようとしている。
そこまでわかった瞬間、胸の奥が少しだけざわついた。
「それに」
ひよりが小さく続ける。
「近くにいてもいいって、柊くん言ったし」
「言ってない」
「頷いた」
「……」
「同じようなものだよ」
「違うだろ」
「一緒です」
言い切るな。
でも、その言い切り方が少しだけ嬉しそうで、俺はそれ以上強く否定できなかった。
教室に着く。
まだ朝のホームルーム前で、生徒たちは半分くらいしか揃っていない。ざわめきも、昼ほど大きくない。その分、机を引く音や、窓の外の風の音までよく聞こえる。
俺が自分の席に鞄を置いた、そのすぐあとだった。
「ねえ柊くん、今日の一時間目って英語だっけ」
「国語」
「そっか、危なかった」
「何が危ないんだよ」
「ノートの準備」
「見ればわかるだろ」
「でも聞いた方が早いし」
ひよりはそう言って、当たり前みたいに俺の机の横へ来た。
いや、横どころか、ほぼ隣だ。
昨日までなら、そこにほんの少しだけ遠慮とか探りがあった。
今日のひよりには、それがほとんどない。
自然だ。
自然すぎる。
そしてこっちは、その自然さに一番動揺している。
「おー」
斜め後ろから、いかにも楽しそうな声が飛んできた。
「もう始まってんじゃねえか青春」
藤崎蓮だった。
「朝からうるさい」
「いやだって、明らかに空気違うだろ」
「違わない」
「違うよね?」
蓮がひよりに振る。
「……ちょっとだけ?」
ひよりが答える。
答えるな。
しかもその言い方、絶妙に含みあるだろ。
「ほら見ろ」
蓮が満足げに言う。
「おまえは本当に余計なとこだけ元気だな」
「観察眼って呼んでくれ」
「うるさい」
蓮はけらけら笑って、それから俺とひよりを見比べた。
「朝倉さん、もう完全に真央の隣ポジションじゃん」
「何それ」
「いや、だって立ち位置がそうだろ」
「……そうかな」
「そうだよ」
「言い切るな」
俺が言うと、ひよりは少しだけ笑った。
その笑い方が、前より静かで、それでいて変に照れていない。昨日の放課後を越えてきたぶんだけ、ひよりの中でも何かが決まったのだろう。
たぶん、“ここにいていい”と。
それを勝手に誇らしく思いかけて、俺は心の中で自分に呆れた。
何を考えてるんだ。
そこへ、涼しい声が割って入る。
「朝から騒がしいですね」
白瀬凛香だ。
今日も変わらず姿勢がいい。制服も髪も隙がなくて、いかにも“朝から自分を整えてきました”という感じがする。その整い方が、逆に少し怖い。
白瀬は俺たちの席の横で立ち止まり、まずひよりを、それから俺を見る。
「朝倉さん」
「え?」
「通路を塞がないでください」
「あ、ごめん」
ひよりが一歩だけ横にずれる。
だが白瀬はそれで終わらなかった。
「それと」
「……何だよ」
俺が先に言うと、白瀬の視線がまっすぐ向いた。
「前よりさらに自然になりましたね」
「何が」
「距離感です」
言い方が、完全に何かを含んでいる。
蓮が吹き出しそうになるのを、俺は睨みで止めた。止まってないけど。
「別に普通だろ」
「そうでしょうか」
「……」
「少なくとも、昨日までとは違って見えます」
白瀬の声は落ち着いていたが、その落ち着き方が逆に意味深だった。
昨日の放課後のことまでどこまで察しているのかは知らないが、少なくとも“何かあった”と思っているのは間違いない。
ひよりはそんな白瀬を見て、少しだけ頬を膨らませる。
「白瀬さん、見すぎじゃない?」
「気になるものは見えます」
「何それ」
「事実です」
ひよりと白瀬の間に、軽い火花が散る。
前よりはっきりしている。
白瀬は警戒を隠さないし、ひよりももう完全には流さない。
この二人、たぶん今後も相性悪いな。
「白瀬さん、風紀委員向いてるよ」
蓮が面白がるように言う。
「まだ委員は決まっていません」
「でももう半分委員長だろ」
「そう見えるだけです」
「いや、見える」
ひよりまで言う。
「朝倉さん」
「はい?」
「あなたはもう少し、自分がどう見られているかを自覚した方がいいと思います」
「……何それ」
「そのままの意味です」
ぴしゃりと返す。
ひよりがむっとした顔になる。
でもその直後、白瀬の視線が一瞬だけ俺に流れた。
その意味深さに、こっちの方が落ち着かなくなった。
やめろ。
おまえの中で何がどこまで繋がってるのか知らないけど、そういう目で見るな。
ホームルームが始まり、授業が進み、昼休みが来る。
そして、案の定というべきか、クラスの空気は前よりあからさまになっていた。
「また一緒に食べるの?」
「おまえらほんと仲いいな」
「付き合ってるわけじゃないのに距離近くない?」
そんな声が、あちこちから飛ぶ。
前までは“ちょっと仲のいいクラスメイト”くらいの扱いだったはずなのに、今はもう半歩くらい先へ進んだ目で見られている気がする。
原因はわかっている。
ひよりが前より自然に俺のそばへ来るようになったからだ。
昼休みも、何でもない顔で隣へ来る。
「ここ座るね」
「もう確認の意味ないだろそれ」
「一応」
「一応も何も、もう座ってるじゃん」
「そうだね」
「そうだねじゃない」
ひよりは笑いながら弁当箱を開ける。
その仕草すら、前より落ち着いて見えた。
「おまえら、ほんともう隠す気ないな」
蓮がパンを片手に言う。
「隠すって何を」
ひよりが返す。
「青春」
「便利な言葉みたいに使うな」
俺が言う。
「でも真央、前より全然追い返さなくなったよな」
「……」
「それは思う」
と、近くの男子まで混ざってきた。
「前は“自分の席戻れ”って顔してたのに」
「そんな顔してない」
「してたって」
「今は?」
ひよりが聞く。
「今は何か……」
そいつはにやっとして言った。
「もう諦めてる顔」
教室の何人かが笑う。
くそ、否定しづらいことを言うな。
ひよりはその言葉に一瞬だけ目を丸くして、それから少しだけ赤くなった。
「……何その顔」
思わず聞くと、ひよりがこっちを見る。
「別に」
「今のはおまえの“別に”の方が下手だろ」
「うるさい」
「お、朝倉さん照れてる?」
蓮が逃さず拾う。
「照れてない!」
「声がちょっと高いな」
「蓮くんほんとうるさい!」
ひよりが珍しく強めに言い返す。
その反応に、周囲がさらに面白がる。
でも、俺はその中で妙に静かな満足感みたいなものを覚えていた。
こいつもちゃんと意識している。
前よりもっと。
それがわかってしまうから、余計に落ち着かないし、少しだけ嬉しい。
自分で自分が面倒くさい。
昼休みの終わり頃、ふと前方を見ると、白瀬凛香がこちらを見ていた。
別に睨んでいるわけじゃない。
ただ、静かに、観察するみたいな目だ。
その視線には前よりはっきり“警戒”が混じっていた。
朝倉ひよりとの距離を警戒しているのか。
俺が何かを隠していることを警戒しているのか。
その両方か。
どちらにしても、これから面倒になる予感しかしない。
放課後。
夕方の教室は、一章の最初の頃ともう全然違う場所みたいに感じられた。
最初は、ただ静かに高校生活をやり過ごすつもりだった。
匂いに敏感で、余計なことばかり拾ってしまう自分は、なるべく平穏な方がいいと思っていた。
でも今はどうだ。
朝倉ひよりは当たり前みたいに俺の隣へ来る。
周囲はそれを見て好き勝手にからかう。
藤崎蓮は完全に面白がっている。
白瀬凛香は静かに警戒を強めている。
平穏なんて、もうどこにもない。
それなのに。
「また明日ね、柊くん」
帰り際、ひよりがそう言って笑うだけで、少しだけその明日が待ち遠しいと思ってしまう自分がいる。
それが、たぶん一番まずい。
「……ああ」
「明日も校門で会えるかな」
「待ってる気だろ」
「ばれた?」
「見え見えだ」
「じゃあ、ちゃんと来てね」
「何で命令形なんだよ」
「お願いの方がよかった?」
「どっちでも変わらん」
「えへへ」
ひよりは笑って、自分の席へ戻っていく。
蓮が「ほらもう始まってんじゃねえか青春」とうるさく言って、前方では白瀬がまた意味深な視線をこちらへ向けていた。
窓の外では、昨日の雨が嘘みたいな夕陽が教室を染めている。
汗ばんだ制服。
近すぎる距離。
言えないことだらけの、どうしようもなく落ち着かない毎日。
でもそれはもう、ただしんどいだけのものじゃなかった。
近いから困る。
意識するから危ない。
放っておけないから、余計に面倒だ。
なのに、少しだけ嬉しいと思ってしまっている。
それが答えなのだとしたら、俺の平穏はもう完全に終わったのだろう。
近すぎる。危なすぎる。
けどたぶん、もう離れられない。




