第11話 君のことを、変だなんて思わない
翌朝、目が覚めた瞬間から、少しだけ嫌な予感がしていた。
理由ははっきりしている。
昨日の雨の日の教室。
二人きり。
「近くにいると、嫌じゃない?」
そして俺の、「嫌じゃない。むしろ……」で止まった返事。
あれは、どう考えても良くなかった。
いや、良い悪いで言えば最悪寄りだ。中途半端すぎる。言うなら最後まで言え。言えないなら最初から濁すな。今になって冷静に思い返すと、俺は何をやっているんだという気分になる。
でも、その場では無理だったのだ。
雨の日の湿った教室。近い距離。赤くなる朝倉ひより。
あんな状況で平常心を保てるほど、俺はできた人間じゃない。
「……終わったかもしれない」
制服のネクタイを締めながら、小さく呟く。
もちろん、何が終わったのかは自分でもよくわからない。
ただ、少なくとも「今まで通りの、何となく近いクラスメイト」みたいな空気は、もう難しい気がしていた。
朝の空気は少しだけ冷たかった。
昨日の雨が嘘みたいに空は晴れていて、道端の水たまりだけがその名残を残している。濡れたアスファルト、春の光、洗いたての制服、乾ききった風。雨の翌日特有の、少しだけ澄んだ匂いがした。
校門へ向かう足取りは、自然と重くなる。
教室へ入ったら、たぶん朝倉ひよりがいる。
目が合うかもしれない。
昨日のことを、どんな顔で思い出すのかもわからない。
それなのに。
「あ、おはよう!」
校門の少し手前で、聞き慣れた声が飛んできた。
俺は心の準備をする暇もなく振り向く。
朝倉ひよりがいた。
しかも、昨日の気まずさなんてどこにもなさそうなくらい自然な笑顔で、こっちへ歩いてくる。
「……おはよう」
「また会ったね」
「またっていうか、学校だからな」
「そうだけど」
ひよりはそう言って笑って、それから何でもないみたいに俺の隣へ並んだ。
近い。
いや、物理的な距離が昨日までより極端に縮まったわけじゃない。だが、空気の入り方が違う。迷いが減っているというか、前よりもっと当たり前にそばへ来るようになった感じがする。
昨日のあとだぞ。
普通、もうちょっと気まずくなったりしないか?
「……何だよ」
「何が?」
「いや、普通だなと思って」
「普通じゃだめ?」
「だめじゃないけど」
「じゃあいいじゃん」
ひよりはそれだけ言って、少しだけ前髪を指で直した。
朝の光の中だと、その仕草まで妙にやわらかく見える。やめてほしい。昨日の続きみたいな顔をされるよりはマシだが、これはこれで心臓に悪い。
「柊くんって、昨日のことめっちゃ気にしてたでしょ」
「……」
「その顔、図星だ」
「おまえが普通すぎるんだよ」
「だって、気まずくしたくないし」
「……」
「それに」
ひよりは少しだけ声を落とした。
「嫌じゃないって言ってくれたし」
その一言で、昨日の湿った教室の空気が一気によみがえった。
心臓が、わかりやすく跳ねる。
「……最後まで言ってない」
「でも途中まで言った」
「一番困る覚え方するな」
「だって印象に残るし」
ひよりはそう言って、少しだけ赤くなりながらも笑った。
まずい。
こいつ、昨日より強くなってないか?
昨日はあんなに真っ赤になっていたのに、一晩経って自分なりに整理してきたのだろう。たぶんまだ恥ずかしさはある。あるが、それを抱えたまま前より自然に近づいてきている。
それは反則だろ。
教室に入ると、その変化はさらにわかりやすかった。
俺が自分の席に鞄を置くと、ひよりはまるで最初からそうするつもりだったみたいに、すぐ横まで来た。
「ねえ、今日の一時間目って小テストあったっけ?」
「ない」
「ほんと?」
「時間割見ろ」
「見るけど確認したいの」
「便利屋か俺は」
「頼りになるクラスメイト」
「都合のいい言い方だな」
言いながら、ひよりは俺の机の上をのぞきこむ。
いつも通り。
いや、いつも以上に当たり前。
俺が少しでも意識して距離を取ろうとすると、ひよりの方は逆に「昨日のことで変に壁は作らない」という感じで自然に来る。結果として、こっちの理性だけが一方的に削られる。
「おー」
斜め後ろから、いかにも面白がっている声がした。
「何かもう始まってんじゃねえか青春」
藤崎蓮だ。
「朝からうるさい」
「いやだって昨日までと空気違うだろ」
「違わない」
「違うよね?」
蓮がひよりに振る。
「……少しだけ?」
ひよりが答える。
答えるな。
しかも、少しだけ照れたみたいに笑うな。
そういう反応が一番周囲を煽るんだよ。
「ほら見ろ」
蓮が勝ち誇った顔をする。
「見てない」
「真央、おまえ今すげえ面倒くさい否定の仕方したな」
「おまえがいちいち拾うからだろ」
「でも実際、朝倉さん今日ずっとおまえのそばいるじゃん」
「もともとだろ」
「いや、前は“何となく近い”だったけど、今日は“当たり前に隣来る”って感じ」
「語彙が無駄に鋭いな」
「青春観察に定評があるんで」
そんな定評いらない。
だが、蓮の言っていることはたぶん間違っていなかった。
ひよりは今日、前よりもっと自然に俺のそばへ来る。
話しかけるのも、覗き込むのも、隣に立つのも、どこか迷いがない。
昨日のことがあったからこそ、逆に中途半端に距離を取らないようにしているのかもしれない。あるいは、俺の「嫌じゃない」が効いてしまったのかもしれない。
どっちにしろ、俺の平穏は終わる。
「朝倉さん」
不意に、冷えた声がした。
教室の前方から、白瀬凛香が立っていた。
今日も相変わらず隙のない制服姿で、ノートとファイルを抱えたままこちらを見ている。その視線はやけに静かで、そのぶん余計に刺さる。
「ホームルーム前です」
「え?」
「通路を塞がないでください」
「あ、ごめん」
ひよりが一歩横へずれる。
白瀬はそれで終わるかと思ったが、今日はそれだけではなかった。
俺の机の横を通り過ぎる瞬間、ほんのわずかに足を止める。
「昨日の件」
「……何だよ」
「放課後、教室に残っていたそうですね」
どこで聞いた。
いや、別に変なことはしていない。していないが、言い方が完全に誤解を招くやつだ。
「先生にプリント運ばされてただけだ」
「そうですか」
「何だその疑ってる顔」
「別に疑っていません。ただ」
白瀬はひよりを一瞬見て、それからまた俺に視線を戻した。
「朝倉さんとの距離が、以前よりさらに自然になったように見えます」
「観察日記でもつけてるのかおまえ」
「必要なら書きますが」
「やめろ」
「冗談です」
たぶん冗談じゃないな、これ。
白瀬はそのまま自分の席へ戻っていったが、最後にもう一度だけこちらを見た。
その視線は、前みたいな単なる注意ではなく、もう少し意味深だった。
警戒されている。
しかも今度は、ひよりとの距離だけじゃなく、俺自身も。
たぶん昨日の「どうしてわかったの?」以降、白瀬の中で何かが引っかかっているのだろう。
「……何か、白瀬さん怖くなってない?」
ひよりが小さく言う。
「最初からあんなもんだろ」
「でも前より見るよね」
「見るな」
「いや見られてるのは私たちだけど」
「知ってる」
蓮が吹き出した。
「白瀬さん、完全に風紀委員ポジじゃん」
「まだ委員長決まってないだろ」
「もう内定みたいなもんだろ、あれ」
「否定できない」
ホームルームが始まり、授業が進み、昼休みになる。
その頃には、クラスの中でもだいぶ俺たちへの見方が固まり始めていた。
「また一緒に食べるの?」
「今日も隣なんだ」
「おまえらほんと仲いいな」
そんな声が、前より遠慮なく飛んでくる。
以前なら、ひよりは「そんなことないよー」と笑って流していた。俺は「うるさい」で終わらせていた。
でも今日は違った。
「……えっと、まあ」
ひよりが一瞬だけ言葉を詰まらせる。
「ほら見ろ」
蓮がすかさず拾う。
「何が」
「朝倉さん、もう完全に意識してるやつ」
「うるさい!」
ひよりが珍しく少し強めに返した。
その反応で、周囲がさらに面白がる。
「えっ、何その反応」
「怪しいー」
「付き合ってる?」
「ち、違うってば!」
教室のあちこちから笑いが起きる。
ひよりの頬がじわっと赤くなるのが見えた。
そして同時に、声の奥に混じるわずかな緊張も、俺にはわかった。
……こいつ、前よりちゃんと意識してる。
そう思うと、落ち着かないのに、少しだけ嬉しいと思ってしまう自分がいた。
最低だ。
でも事実だから仕方ない。
「おまえら、ちょっとからかいすぎ」
思わずそう言うと、今度は矛先がこっちへ向く。
「うわ、真央が庇った」
「はい確定」
「柊、そういうとこだぞ」
「うるさい」
俺が本気で睨むと、さすがに周囲も少し引いたが、それでもにやにやは消えない。
ひよりはそんな中で、弁当箱を抱えたまま小さく笑った。
「……ありがと」
「何が」
「いや、別に」
「その“別に”はおまえの方が似合ってない」
「ひど」
そう言いながら笑う顔は、前よりずっと近く見えた。
放課後。
一日の終わりの教室は、第一章の最初の頃とはもう別の場所みたいだった。
俺は最初、平穏に過ごしたかった。
朝倉ひよりはただ近くて明るくて、距離感がおかしいだけのクラスメイトだった。
白瀬凛香は真面目で厳しい、少し面倒な優等生だった。
藤崎蓮は最初から最後までうるさいだけの腐れ縁だった。
でも今は違う。
ひよりは俺のそばに来ることを、前より自然にしている。
周囲はそれを見て勝手に盛り上がっている。
白瀬はそれを静かに警戒している。
蓮はもはや一切隠さず面白がっている。
俺の平穏は、たぶん完全に終わった。
なのに――
「また明日ね、柊くん」
帰り際、ひよりが当たり前みたいにそう言う。
「ああ」
「朝、一緒になるかも」
「なるかもじゃなくて、また校門で待ってる気だろ」
「ばれた?」
「見え見えだ」
「じゃあ、ちゃんと来てね」
「何で命令形なんだよ」
「お願い形の方がいい?」
「どっちでも変わらん」
「えへへ」
その笑い方を見た瞬間、俺はもう駄目だと思った。
平穏は終わった。
でも、全部が嫌なわけじゃない。むしろ、少しだけこの騒がしさを待っている自分がいる。
ひよりが席へ戻り、蓮が「もう始まってんじゃねえか青春」とまた茶化し、前方では白瀬凛香が意味深な視線をこちらへ向けている。
教室の窓からは、昨日の雨が嘘みたいな夕方の光が差し込んでいた。
その中で、俺は小さく息を吐く。
汗ばんだ制服。近すぎる距離。言えない性癖。
そこから始まったはずのこの高校生活は、もうそれだけでは説明できなくなっていた。
朝倉ひよりが笑うと気になる。
困っていると放っておけない。
近づかれるたびに落ち着かなくなるくせに、離れられるとそれはそれで落ち着かない。
そんなの、もうだいぶ手遅れだろう。
近すぎる。危なすぎる。
けどたぶん、もう離れられない。




