幕間 ヴォルフ・ケーニヒ男爵の朝
ケーニヒ男爵の朝は、右足の親指から始まる。
痛風だ。三年前からで、悪くなる一方だった。医者は肉と酒を減らせと言う。減らせるわけがない。減らしたら、減らしたことに誰かが気づく。この方面で、兵站監が肉を食っていないという噂が立ったら、それは兵站監が金に困っているという噂になる。
だから彼は毎朝、腫れた足を長靴にねじ込む。
二十分かかる。
「あなた、また唸ってるわよ」
妻のロッテが寝台から言った。彼女は起きない。この二年、朝に起きたことがない。
「唸っていない」
「唸ってた」
「唸っていない」
男爵は長靴を履き終えて、額の汗を拭いた。窓の外はまだ暗い。前線から十四リーグ後方の、この街の朝は静かだ。砲の音は聞こえない。風向きによっては聞こえる日もあるが、今日は聞こえない。
彼はそれをありがたいと思っている。
「ミルダの持参金の話だけど」
ロッテが言った。
「聞いていない」
「まだ何も言ってないでしょう」
「聞きたくない、という意味だ」
「金貨で四百よ」
男爵は動きを止めた。
「四百」
「マイヤー家がそう言ってきたの。伯爵家に嫁ぐんだから当然でしょう。むしろ安いくらい」
彼は何も言わず、部屋を出た。
階段を降りながら、頭の中で数えていた。金貨四百。ネルヴァの連中への返済が、残り六百と少し。屋敷の抵当が三百。畑は去年、二年続きの不作で年貢が入っていない。父から継いだときに既に傾いていた家だ。傾いた家を、彼は二十六年かけて、もっと丁寧に傾けてきた。
毎月、金貨で六枚から八枚。
小麦の目方をわずかに軽くして、そこにおがくずを詰める。差額を売る。
これを二年続けて、彼は借金の利息にすら追いついていない。
それが彼を一番惨めにさせていることだった。あれだけのことをして、返済の利息にすら届かない。もっと大きく抜けばいいと思うことはある。だができない。大きく抜けば、目方の差が兵にも分かる。二斤なら誰も気づかない。三斤にした月に、一度だけ苦情が来た。それきりやめた。
彼は臆病だった。臆病だから、二年間ばれずにきた。
執務室の机に、書簡が三通置かれていた。
一通目、ネルヴァ穀物商会。来月分の前渡し金の督促。
二通目、王都の仕立て屋。
三通目には、軍務省の封蝋があった。
彼は指を止めた。それから、蝋を割った。
中身は短かった。
『第四方面軍の受領簿につき、監査の予定なし。従前どおり。 レンドルフ』
男爵は椅子に沈み込んだ。
従前どおり。
補給局次長レンドルフ伯爵。彼が承認しているから、この件は監査に上がらない。上がらないから、二年間ばれない。
その代わり、男爵は毎月、抜いた分の四割をレンドルフに送っている。
金貨六枚のうち、彼の手元に残るのは三枚半。
彼はそれで娘の持参金を作らなければならない。四百枚。あと九年半かかる。娘は今年で十七だ。
男爵は書簡を火にくべた。蝋がふくれて、はぜて、消えた。
そのとき、扉が叩かれた。
「男爵。書記官が」
「通せ」
入ってきた若い書記官は、帽子を両手で持って、少し困った顔をしていた。
「何だ」
「その、第十三後方衛生分隊の伍長が、受領簿の閲覧を」
「衛生分隊?」
「死体回収の、烏です」
男爵は書類から目を上げた。
「烏が帳簿を見て、何が分かる」
「はい。ですが、倉庫番の話では、二十分ほど三番棚に」
「二十分」
「はい」
男爵は、そこで初めて、右足の痛みを忘れた。
二十分。
彼は帳簿を作った人間だ。あの帳簿を二十分で読める人間が、この方面軍に何人いるか、彼は正確に知っている。
三人だ。彼自身と、副官と、経理の老人。
「伍長の名は」
「アーレンス、と」
「五等の子か」
「そうです。スキルは、その、死体が喋るとかいう」
書記官は少し笑った。笑っていいところだと思ったんだろう。
男爵は笑わなかった。
彼は二十六年、傾いた家を丁寧に傾けてきた男だ。臆病な人間には、臆病な人間なりの勘がある。
「その伍長を」
彼は言った。声がかすれた。
「……いや。何でもない。下がれ」
書記官が出ていったあと、男爵はしばらく座っていた。
窓の外が、少しずつ明るくなっていった。
彼は右足の長靴を脱ごうとして、脱げないことに気づいた。腫れが引く前に履いてしまうと、こうなる。
彼は二十分かけて履いた靴を、四十分かけて脱いだ。
その間ずっと、金貨四百枚のことを考えていた。




