証拠にならない
受領簿は、思っていたより正直だった。
嘘をつく人間は、たいてい書類の細かいところを作り込む。ほんとうに何も気にしていない人間は、雑に書く。
この帳簿は雑だった。
今月、第四方面軍に納入された小麦は六十八袋。すべてネルヴァ穀物商会。受領印は兵站監ヴォルフ・ケーニヒ男爵。
六十八袋。一袋二十六斤の表示で、実際が二十四斤半。差は一斤半。六十八袋で、百二斤。
百二斤の小麦が、消えている。
いや、消えていない。おがくずに置き換わっている。だから重量表示は合っていて、袋の数も合っていて、帳簿は完璧に閉じている。
うまいやり方だ。
俺は帳簿を閉じた。三十分と言われたが、二十分で済んだ。前世で似たようなものを何百冊も読んでいる。
外に出ると、ゲルダが樽に腰かけて待っていた。
「終わった?」
「終わりました」
「で?」
「六十八袋。差額は百二斤。市場価格なら、金貨で六枚から八枚のあいだです」
「一月で?」
「一月で」
ゲルダは何も言わなかった。
金貨八枚。兵站監の年俸の、たぶん四分の一くらい。それを毎月抜いている。
「先生」
「ゲルダでいい」
「ゲルダさん。おがくずを混ぜると、どうなりますか」
「腹を壊す」
彼女は即答した。「木の繊維は消化できない。腸を傷つける。傷ついた腸に、この前線の水が入る」
「赤痢」
「そう。でも」
彼女は眼鏡を外して、袖で拭いた。「証明はできない。おがくずを食べた人間が全員死ぬわけじゃないし、赤痢はもともとこの前線の風土病みたいなものだから。『パンのせいで死んだ』とは、絶対に言えない」
「先生の名前で報告書を出しても」
「無理よ」
彼女は眼鏡をかけ直した。「私は無授だから」
俺は黙った。
無授。神授の儀式で、何も授からなかった人間。人口の四パーセント。法的に半人前で、財産を相続できない。証言能力も制限されている。
この人は、大陸でいちばん腕のいい軍医かもしれない。俺が知っている限り、この前線で腹を切って人を生き延びさせたのはゲルダだけだ。
それでも書類の上では、半分の人間だ。
「行きましょう」
俺は言った。
「どこに」
「連隊本部です」
ヴィーラント大尉は、話を五分聞いた。
五分で十分だと判断したんだと思う。実際、十分だった。彼は俺が話し終わる前から、答えを決めていた。
「アーレンス伍長。君の位階は」
「五等です」
「スキルは」
「【遺言】です」
「それは、死体が喋る能力かね」
「死ぬ直前に考えていたことが、一文だけ聞こえます」
「なるほど」
大尉は書類の束を揃えた。彼は俺を見ていない。書類を見ている。
「軍法第十七条。スキルによる証言は、位階三等以上の者に限り、かつ書面による裏付けがある場合にのみ、証拠として採用しうる」
「知っています」
「では、君の証言は」
「証拠になりません」
「よろしい」
大尉は書類の端を揃え続けている。もう揃っているのに、揃え続けている。
「【記名】も五等だな。【計量】は四等だが、これも三等未満だ。つまり君が持ってきた三つの根拠は、法的にはすべて存在しない」
「帳簿は存在します」
「帳簿の何が問題かね。数は合っている。印もある。むしろ完璧だ」
「中身が違います」
「それを証明する手段が、君にはない」
大尉が、初めて顔を上げた。
彼は悪い人間ではない。俺はそう思った。四十過ぎで、額が禿げ上がっていて、書類仕事で目を悪くしている。前線に十年いる。たぶん、いい大尉なんだと思う。
「アーレンス伍長」
彼は言った。
「私に、ケーニヒ男爵を疑えと言っているのか」
「そうです」
「では聞くが、その場合、来月の小麦は誰が運んでくる」
俺は答えられなかった。
「彼を外せば、補給線が三週間止まる。三週間、この方面の一万二千人が食わない。おがくず入りのパンでも、食えば人は生きる。食わなければ確実に死ぬ」
大尉は書類を引き出しにしまった。
「四人だったな。死んだのは」
「四人です」
「三週間で何人死ぬと思う」
俺は答えなかった。答えは知っている。四人よりずっと多い。
「下がりたまえ」
大尉は言った。「君は仕事をした。それは記録に残す。それ以上のことは、君の階級では起きない」
外に出ると、日が落ちかけていた。
ゲルダが壁にもたれて待っていた。俺の顔を見て、何も聞かなかった。聞かなくても分かる顔をしていたんだと思う。
「言ったでしょう」
「言われました」
「腹立った?」
「いえ」
俺は本当に腹が立っていなかった。
これは、知っている感覚だ。前世で何度も味わった。報告書を出して、受け取られて、引き出しにしまわれる。あの引き出しの音まで覚えている。
だから、これは想定内だ。
想定内なら、次の手がある。
「ゲルダさん」
「なに」
「死人の証言は、証拠になりません」
「そう言ったわ」
「なら」
俺は手帳を出した。四百三十六人分の声が入っている手帳。今日、四百四十人になった。
「生きてる奴に喋らせます」
ゲルダが、俺を見た。
眼鏡の奥で、彼女の目がわずかに細くなった。
「……どうやって」
「まだ分かりません」
俺は手帳を閉じた。
「けど、方法はあります。前世で、やられたことがあるので」




